why?
準備は整った。
新しい朝が来た。死亡の朝だ。
その日は朝から、しとしとと細やかな雨が降っていた。
空全体に広がる曇天で、町はまるで夜のように暗い。
僕は、もう十分だろと言うくらい上着を羽織り、それからさらに黒の(なるべく目立たないように)ジャケットを着込んで、身体を震わせながら外に出た。寒さは今年一番と言って良いくらいで、手袋の中で指が悴み、ほとんど感覚が無かった。
目指すは町外れの野山である。
仕掛けを十分に施したから、そろそろ獲物がかかる頃合いだと思ったのだ。
(仮にも私有地だから、不法侵入と言うことになるが……)今更法を犯すのを躊躇っている自分が、自分でおかしくなって、僕はひとり笑った。
ニット帽を被り、自転車に跨った。カバンの中には出刃包丁を潜ませてある。重たいペダルを漕ぐたび、吹き荒ぶ風が頬を殴り、あっという間に体温を奪って行った。普段なら30分程度で着く距離だったが、その日は時間が経つのがやけに遅く感じた。少し離れた駅に自転車を乗り捨て(そこからは徒歩だったので)、到着したのは正午を回ったくらいだった。
沢北楓の死体は、雑木林の中の、古木の根元に埋められていた。
僕は(事前に下見を済ませておいた)古木が良く見える位置に腰を下ろした。獲物がやってきた時に、向こうからはこちらが見えない位置。逆にこちらからは相手の様子が手に取るように分かる、そんな絶好の狩り場だ。
一度深呼吸すると、土と雨の匂いが鼻腔を擽った。これから自分がやろうとしていることを思い出し、僕は小さく武者震いした。
此処までは順調だった。しゃがみこんだまま分厚くなった雲を見上げる。予報では、雨は夜になるとさらに強さを増すようだった。
(このまま野宿になったら嫌だな)
(もし失敗したらどうしよう……)
(食糧も水も持ってこなかった)
……なんてことをつらつら思いながら、僕は草むらの陰に身を潜め、しばらく時間を潰した。後は待ちだ。焦ってはいけない。優秀な狩人は時間を惜しまない。野鳥や雨蛙の鳴き声が遠くから(近くから)聞こえてきた。風は止みそうにない。まるでこれから此処で起きる惨劇を知っているかのように、四方八方で、草木が禍々しく騒めいた。
……どれくらい経っただろうか?
慌てて腕時計を見ると、既に18時を回っていた。辺りはすっかり暗くなっていた。不意に前方から目当ての物音が聞こえてきて、僕は意識を覚醒させた。
(来た……!)
獣の鳴き声でも、自然の騒めきでもない……微かに聞こえてくる、人の息遣い。誰かがやってくる気配がした。頭の中で急速にアドレナリンが合成されていく。物音を立てないように、カバンからそっと出刃包丁を取り出した。柄を握る指に力が入る。
長らく雨風に晒されていたせいか、ちょっと体が熱っぽかった。だけど、今更風邪を引くだとか、そんな心配は微塵もしていなかった。どっちみち僕は今日死ぬつもりだったから。息を殺し、じっと前方を睨んでいると、やがて草むらから人影が現れた。
(あれは……!)
僕は目を見開いた。やってきたのは、目当ての獲物……ではなく、風紀委員・帆足真琴だった。
(どうして……?)
真琴さんは唇を真一文字に結んで、腰まで生えた雑草を掻き分けながら、ゆっくりと死体の埋まった場所まで近づいて来た。
(もしかして、バレたのか!?)
一瞬そう思い、身構えたが、幸い彼女はそのまま死体の上を素通りして、頂上の方へと登っていった。僕はその間、身じろぎひとつしなかった。真琴さんが僕の方へと近づいて来る。呼吸をするのさえ躊躇われるような、1秒が永遠にも感じられるほどの刹那が僕を締め付けた。
「……かしいな。確かに彼奴の姿を見た気がするんだが」
彼女はブツブツと呟きながら、僕のすぐ隣を通り過ぎた。こちらに気づいた様子はない。緊張から解放された僕は、心の中で舌を巻いた。さすが探偵といったところか。どうやら僕の動向に目を付け、後をつけてきたらしい。だが、さすがに死体の位置までは把握できていないようだ。
(計画を中止すべきだろうか!?)
(……いや)
今日を逃しては……獲物に逃げられてしまう。それに、僕の目的は首尾よく逃げ切ることではない。確実に獲物を殺すことだ。もしその時鉢合わせるようなら……(誰にも邪魔立てはさせねえ。その時はその女も、一緒に殺してしまうまでだろうが)。
それで、そのまま身を潜め、ひたすら相手がやって来るのを待った。
1時間、2時間……5時間。
真琴さんが下山して来る気配はない。
山の反対側に抜けて、隣町の道路に出たのかもしれない。そうであってくれと僕は願った。できれば僕は真琴さんを殺したくはなかった(どうしてだろう?)。
雨は夜にかけ、だんだんと酷くなってきた。服はもうびしょ濡れで、水中にでもいるかのように重い。雲の向こうに隠れた三日月が、風の気まぐれで、時々顔を覗かせてこちらの様子を窺っていた。
それからさらに1時間。
もう日付も変わろうとしていたその時に、ようやく彼女は現れた。
闇の中で、懐中電灯の光がフラフラと泳ぎながらこちらに近づいて来る。
彼女……沢北椿は、僕の渡した紙袋をギュッと握りしめ、唇を震わせていた。椿ちゃんは姉の死体が埋まっている古木の根元までやって来ると、そこでピタリと立ち止まった。
「…………」
それから、まるで土の中を透視するかのように、じっと一点を見つめて動かなくなった。
「お姉ちゃん……?」
(……当たりだ)
僕は確信した。どうやらメッセージが無事伝わったようだった。僕はホッとして、舌舐めずりをした。腰を上げ、出刃包丁を握り締める。音を立てないように彼女の背後に周り、ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。20m……10m……5m……そして、
「……誰!?」
不意に椿ちゃんが金切り声を上げて振り向いた。僕の目と鼻の先に、至近距離に彼女の怯えた顔があった。僕はずぶ濡れになったまま、半腰で彼女を睨み上げ、そして包丁を構えて静かにこう告げた。
「やっぱり貴女が犯人だったんですね、沢北椿さん」