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今年の漢字と流行語大賞とあと何か

何でも塩味がいい訳じゃない

作者: 黒田皐月

 まったりおうちデートがしたいです。

 亜子が突然そんなことを言いだした。

 ちょっと待て。俺も亜子も一人暮らしの学生だぞ? その……間違いとかあったらどうするんだよ。

 しかしそんなことは絶対に言えない。だって、言った時点でそれを強要することと同じだから。

 何をどう言うべきか焦りに焦っているうちに、亜子の中では断らないということは了解だということになってしまっていた。

 まあ、俺がしっかりしていればいいんだ。そう覚悟するしか、なかった。

 そして12月12日、亜子を送って何度か来たことはあるアパートの階段を初めて上り、インターホンを押す。

 まったりと言っていた割には上機嫌な声で迎えられて、1DKのダイニングへと通された。

 さすがに奥の自室には入れてもらえないか。俺としてもその方が無駄に緊張しなくて済むけど。

 広くもないダイニングキッチンなので、亜子が何をしているのかは一目瞭然だ。今は俺を椅子に座らせておいてインスタントコーヒーを淹れている。

 インスタントではあるが、家で自分で淹れるほどコーヒーが好きだったのか。待たされて暇な俺はそんなことをぼんやり思ったりする。

 それほど待たされることもなく、俺の前に湯気を上げるカップが置かれた。

 それはいいのだが、砂糖と言ってテーブルの真ん中に置かれたのが、1キログラムの袋で売られているものが丸ごと入るくらいに大きい密閉容器だった。透明なふたの下にプラスチックの小さじが見える。

 色香がないとかそういう次元ではない。そもそもコーヒーに入れる砂糖をこんな出し方をするなんて、あり得なさすぎる。

 それを言っても亜子はまあまあとしか言わない。せっかく淹れてくれたコーヒーが冷めてしまうし、ここは、というよりもいつもそうなのだが、俺が折れるしかなかった。

 小さじ一杯5グラムだから、半分でも多い。お先にどうぞと亜子に勧められて、俺は小さじで白い粉の表面をなぞるようにすくい取った。

「おい」

 感触がおかしい。さじを傾けてすくい取った白い粉を戻すと、サラサラと砂のようにこぼれていく。

「これ、砂糖じゃなくて、塩だよな?」

 本当に砂糖ならば、湿気を吸ってもう少しべたつきそうなものだ。

 俺だってまったく自炊をしない訳じゃない。それくらいのことはわかる。

「お? 間違えた?」

 可愛らしいつもりか、亜子は軽く首を傾げてそう言った。これは嘘だ。

 亜子はいつだってとにかく表情がくるくる変わる。だから本当に間違えたのであれば、もっと素っ頓狂な声を上げて慌てだす。だからこれは嘘なのだ。

「わざとだろ。何のつもりだよ」

 ちょっと怖い顔をして見せると、降参したように亜子は苦笑いを浮かべた。

「いやー、この間ラブコメでコーヒーに砂糖と塩を間違えて入れるってのを見てね。実際どうかなーって思って」

 エヘヘと笑う顔に、悪気は全く見当たらない。

「それで、俺で試そうとしたって訳か」

「そうじゃないよ。義雄くんと二人でやってみたかったの」

 悪気がないからといっても、何をしても許されるものではない。

「そんなことに俺を巻きこむな。俺はつき合わないからな」

 砂糖が出てくるまで待っていたらコーヒーが冷めてしまう。俺はブラックのままコーヒーに口をつけた。

 インスタントだからそんなものなのか、苦いというよりも渋い。やはり砂糖をもらった方がよかったかと思っている向こうで、亜子はさじで塩をすくってカップに注いでいた。

 嘘だろ、と俺が慌てふためいているうちに、亜子は本当に塩コーヒーを口にした。しかも、かなり思い切りゴクリといった。

「まず!」

 思いっきり顔を歪めて、亜子は音を立ててカップをテーブルに置いた。

 それはそうだろう。そう言うことさえ馬鹿馬鹿しくて、俺は無言のまま渋い目をして亜子のぐしゃぐしゃな顔を見やる。

「でももったいないから飲まなきゃ」

「待て待て待て待て」

 懲りずにまたカップを手に取ろうとしたところで、さすがに止めた。

「そんなもん飲んだら絶対どっか悪くする。飲むならこっちにしろ」

 俺は手を伸ばして亜子のカップを奪い取った。代わりに俺の飲みかけのカップを差し出す。

 そしてこれ以上有無を言わせないように、俺が塩コーヒーのカップに口をつけた。

「何だこれ!?」

 さすがに、変な声を上げずにはいられなかった。

 元々が苦くて渋い上に、塩のせいで辛い。ほんの少ししか入れていないはずなのに、悪い意味で味が引き立て合っている。

「でしょ? 思った以上の破壊力」

 ぐしゃぐしゃな顔を無理やり笑いの形にして、亜子が何とも言いようのない変な表情をする。

「無理。これは捨てる」

「えー」

 不満げな声を上げる亜子を無視して俺は流しに塩コーヒーをこぼして、ついでにカップを水ですすいだ。

 水音を聞きつけて亜子もキッチンに飛んできた。

「いいよぉ、お客さんはそんなことしなくて」

「そのお客さんにいたずらしようとしてたのはどこの誰だっけ」

「それはそれだもん」

 こんな程度のことでも見てわかるくらいにむくれる。

 そんな亜子がさっきはがんばって俺をだまそうとしていたのかと思うと、なんだかちょっと可愛い。

 亜子のカップも洗ってやろうと俺が手を差し出すと、亜子は残っていたコーヒーを一息に飲み干してカップを渡してくれた。

 慣れないものを一気飲みしてせき込んでいるのが背後から聞こえるが、水音で聞こえなかったことにしておく。

 ふたつのカップを洗い終えてハンカチで手を拭いていると、テレビを見ようとか言いながら亜子が奥の部屋の扉を開けた。その背中の向こうに机やテレビなんかが見える。

 おいおい、そっち行くのかよ。

「そこじゃまったりできないじゃん。こっち」

 たじろいで突っ立っている俺とは対照的に、亜子は何の気もなく俺を手招きする。それからまた俺に背を向けて、リモコンでテレビをつけた。

「お邪魔します……」

 諦めて改めて覚悟して、俺もそちらへ入る。

「何それ。今さらじゃん」

 おっかなびっくりな俺を、亜子は心底おかしそうに笑った。

 本当に、そういうことなんてちっとも考えていないんだな。ベッドの縁に並んで座らされた時には、俺はその無邪気さが羨ましいくらいになっていた。

 つけたチャンネルではワイドショーがやっていて、テレビには和尚らしい人の背中が映っていた。右上のテロップには、今年の漢字と書かれている。

 書き終えた和尚が大きな色紙の脇にどいてその字を見せる。

「え? 何?」

 亜子がわからなくて困ったような声を上げたが、俺も同感だった。達筆というよりも、あんなに重い筆で字を書こうというのがそもそも無理ではないかと思う。

 発表された今年の漢字は、税だった。

「税か。払ってないから実感わかないな」

 テレビからは今年は税に関していろいろあったという解説の声が流れてくるが、俺の感想はそれだった。

「そんなことないよ。私たちだって払ってる」

 しかし亜子はそんな俺の感想を真顔で否定した。

 あれ、意外と社会のこととか見てる?

「消費税」

「ああ」

 珍しく俺のことをやりこめたと察して、ここぞとばかりに鼻息を荒くして俺のことを馬鹿にしてきた。

 でも亜子はやっぱり亜子で、別に税について詳しく語るでもなく、ただニュース見ないとダメだよくらいのことを繰り返すばかりだった。

 せっかく得意になっているので俺もわざわざ水を差すようなことはせず、はいはいと聞き流しておく。そのうちにテレビはCMになり、亜子もようやく満足したのか鼻息もおさまってきた。

「あれ? 流行語大賞ってもう出てたっけ?」

 満足したというよりも言う言葉が底をついただけだったのかもしれない。ごまかすようなちょっと強引な話の切り替え方だ。

 あれ? 今年の流行語大賞って何だっけ……

 そうだ。

「アレだよ、アレ」

 教えてやったのに、亜子は俺を見てクスクス笑う。

「あれ、あれって義雄くんおばちゃんみたい。もう物忘れしちゃうくらい年取っちゃったんですか?」

 わかってない。でもわかっていないのならばこの反応は仕方がないかもしれない。

 だって。

「アレって言葉が流行語なの。プロ野球の監督が選手に発破をかけるためにわざわざ優勝と言わないでアレって言ってて、それで実際優勝したっていうあれ」

「何それ」

 亜子がキョトンとした顔になる。

 そんなことを言われても困る。そういう事実があったというだけなのだから。

「あ。そう言えば去年は村神様だったし、二年連続で野球なんだね」

 それは気がつかなかった。

「今年は野球世界一取ったし、何だかんだ言って日本人にとってスポーツと言えばまず野球なんだな」

「世界一?」

 また亜子がわからない顔をした。

 春先のことなのでもう忘れてしまっていても仕方がないかもしれないが、せっかくなので今度は俺が亜子のことをからかってやる。

「けっこうニュースでもやってたぞ。お前こそ、ちゃんとニュース見てないんじゃないのか?」

「そんなことないもん。スポーツって最後の方だし、そこまで見てられるくらい私は暇じゃないの」

 口を尖らせて全力で言い返してくる。

「そんなに口を尖らせなくてもいいだろ。そんなだから子供みたいって言われるんだぞ」

 それでも亜子は口を尖らせたまま、眉根を寄せて俺をにらみつける。

 しかし突然何かに気づいたように一声あげて真顔に戻った。何なんだと今度は俺の方が身構える。

「さっきの、間接キスだぁ……」

「さっきの?」

 いったい何を言いだすのか、こういう時の亜子はある意味怖い。

「さっきのコーヒー」

 大抵はこんなどうでもいいことなのだが……え?

 亜子がニヤニヤ笑いだしたのは照れ笑いなのか、それとも俺をからかっているのか。

 気づくのが一拍遅れた分だけ一気に血流が走って、自分でもわかるくらいにさあっと顔が赤くなった。

 間接どころか、直接キスしたことだって何度もある。照れくさかったり恥ずかしかったりするけど、それでもそれよりも充足感の方が勝るくらいには慣れてきた、と思う。

 それでも、そう言われてしまうと意識してしまってどぎまぎしてしまう。

 そんな俺に亜子は、勝ち誇ったようにニィっと口角を上げた。

「義雄くんの味がしました」

 そしてその顔のまま意味のわからないことを言う。

「どんな味だよ」

「苦いコーヒーの味」

「それって俺じゃなくてコーヒーの味じゃないか」

「あ、そうか」

 そこでなぜかケラケラ笑いだした。何が面白くて笑っているのかわからなくて、俺は亜子とは逆に薄気味悪くなってくる。

「何か、いいね」

「何が?」

「おうちデート」

 俺も嫌なわけではないが、何がそんなにいいのかはわからない。だから亜子の上機嫌に答えることはできなかった。

「しょうもないことで笑ったりできるの、楽しいなって思って」

「いつもだろ」

「ひどーい」

 思いきり背中を叩かれてむせてしまった。そんな俺を亜子が笑う。

 ひとしきり笑ってから、お菓子持ってくるねとダイニングへ行ってしまった。

 一人残された俺は、部屋を眺めてしまいそうになる。

 それはダメだ。当人のいないところで女の子の部屋を物色するような真似なんて、絶対にしてはいけない。

 俺はまだつけっぱなしのテレビに集中した。とは言え、芸能人の熱愛報道なんか集中してみるようなものでもない。

「お待たせ。なんか面白いのでもやってる?」

 戻ってきた亜子が、テレビをじっと見ている俺に声をかけながら自分もテレビを見る。

「やっぱ芸能人は違うねぇ。美男美女って感じ」

 亜子の言うとおりではあるが、それを言われるのは何と言うか、面白くない。

「やっぱ憧れたりする?」

 口にしてからしまったと思ったがもう遅い。亜子はうっとりした目でテレビに見入っている。

「するする。あれくらい美人だったらいいなあって思う」

 そっちなのか。

 脱力した俺は、亜子が持ってきてくれたクッキーを一枚手に取った。

 柔らかめで甘い、子供が好きそうなクッキーだった。一緒に出された飲み物も、口に残りそうなほど甘いオレンジジュースだ。やっぱりコーヒーはさっきのいたずらのためだけに用意したのに違いない。

 本当に子供だな。亜子の横顔を見ながらそんなことを思っていると、視線に気づいてこっちに向いた。

 急に目が合って俺も亜子もびっくりしてちょっとのけ反る。それでも視線は外れない。

 そのままどれくらい時間が経ったのか。

「キス…しよ……?」

 小さくつぶやいた亜子が、俺の返事を待たずに目を閉じて顔を近づけてきた。俺にすべてを委ねるようにゆっくり、そしてまっすぐ近づいてくる。

 ちょっと待て。こっちは心の準備とか何にもできてないんだぞ。

 どんどん視界を覆ってくる亜子に俺はあれこれ思うが、ひとつも口まで出てこない。もうダメ……!

 こつんと額がぶつかった。

 縮こまって前に倒れた首が、頭突きのように亜子に当たってしまったらしい。抗議するように亜子が眉根を寄せて俺をにらむ。至近距離のままで。

「ダメだ」

 助かったとほっとしながら、俺は亜子の両肩を押して距離を戻した。

「苦い間接キスより甘い本当のキスの方がよかったのに……」

 そんな理由かよ。

「甘いのがほしければクッキーでも食っとけ」

 まだ不満そうな顔をしている亜子を無視して俺はまたテレビに集中する。番組の方はいつの間にか大リーグの移籍がどうこうという話になっていた。

 その隣から、ぼそぼそとクッキーをかじる音が聞こえる。いつまでもそれが続くので気になって見てみると、また亜子と目が合った。ずっと俺のことを見ていたのか。

 ちょっと上目遣いにして、兎か何かのように前歯だけでクッキーをかじっている。そんな顔をされると、放っておくのも悪い気がしてくる。

「悪かったよ。でも今はキスって気分じゃないんだ」

 それでもここでキスという一線だけは死守する。それだけはまずい。

「なんで。私のこと好きじゃないってこと?」

 亜子は上目遣いでクッキーを手にしたまま恨めしそうに俺を見つめてくる。そんな子供みたいなのを相手にこれ以上はダメに決まってる。

「そうじゃないけど…、気分ってあるだろ。こうお互いの気持ちが盛り上がった時、キスってそういう時にするもんだろ?」

 単なる逃げ口上に過ぎないのだがそれでも聞いてくれたようで、亜子は二人の間のクッキー皿へと目を落とした。その手にはまだ、食べかけのクッキーが三分の一くらい残っている。

「意外とおとめちっくなんだね、義雄くんって」

 顔を上げるのと同時に、亜子はそう言って笑った。そうかと聞き返しても、そうだと繰り返してもっと笑うばかりだ。

 もうそれでいいや。キスとかはどっか行ったみたいだし。

 反論をやめた俺に満足したらしく、亜子は残りのクッキーを一口で片づけた。

 それからもテレビを見ながらそれを肴に適当におしゃべりなんかする。

 今日もまだ冬らしくない暖かい日なのだが、日差しだけは冬らしく部屋の奥まで差しこんできてさらに暖かい。退屈な講義の時間に似ている。

 何だか眠くなってきそうだと思っていると、俺の代わりにそうしたかのように隣で亜子が大あくびをした。

「眠くなってきちゃった。このまま二人でお昼寝しよー」

 冗談じゃない。とろんとした目と呂律が回っていない口ぶりに、逆に俺は目が覚めた。

「俺は眠くない。お前が寝るって言うなら俺は帰る」

「あーそー。じゃーまたねー」

 思考も回っていない。

 このまま俺が帰れば鍵を開けたまま寝ていることになってしまう。不用心極まりない。

「せめて俺を見送れ。で、鍵を閉めろ」

「わかったー」

 口ではそう言っても立ってくれる気配がない。仕方なく俺は亜子を引っ張り起こした。

「じゃあな。ちゃんと鍵閉めろよ」

「おやすみのキスー」

 まだ言うか。

「子供じゃないんだから、そんな恥ずかしいことなんてするかよ」

「いいじゃん、ケチー」

 靴にかかとを通したところを、後ろから手をつかまれてしまう。その手がいやに温かいのは、やはり眠いからなのだろうか。

「わかったわかった」

 放してくれそうにないので、諦めて応じてやることにする。

 手を離した亜子は眠そうな目を閉じて、唇を突き出してくる。そんな亜子の両肩に、手をかける。

 そして背伸びをして、額に口づけた。

 その額も温かい。

「なんで……」

「おやすみのキスだからな。じゃあな、鍵閉めてから寝ろよ」

 突き出した口を尖らせて不満げにしている亜子を無視して、俺は扉を閉めた。

 本当に鍵をかけるまで心配で帰れないと思っていたのだったが、すぐに鍵を回す音がして足音が遠ざかっていった。やれやれ。

 こんな感じで来年も振り回されるのだろうか。

「来年、かぁ……」

 来年かもっと先になるか、俺たちがもっと大人になったとしたら、二人の関係も変わるのだろうか。

 それはちょっと想像できないが、多分いつまでも今のままではいられない。俺も亜子も、もっと大人にならなければならない。

 そのためには、亜子に言われたとおりニュースくらいはちゃんと見なければいけないだろうか。

 そろそろ就職活動のことも考えなければいけないし、来年は新聞の購読も考えてみるか。季節外れの生ぬるい風に吹かれながら、俺はそんなことを考えていたのだった。

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