第6章:知らぬは弟ばかりー001ー
身を縮こませた。
診察室で椅子に座るマテオは、妖艶な女医の前で申し訳なさそうな表情を解けない。
モニターを見ながらキーボードを叩いていた甘露医師の手が止まった。
「やっぱり入院しましょ。どうしても無理してしまうみたいだし」
きつく言われると踏んでいたマテオだったから、意外と優しい口調には図に乗った。
「センセぇー、そこまでしなくても大丈夫ですよ。ぜんぜん痛くないし」
「あんた、今すぐ痛み止めの効果を止めてあげようか。ついでに泣き叫ぶくらいの痛みも追加してね。苦しいわよ〜」
どさくさでサド気質を発揮した処置などさせられたら、たまらない。マテオは慌てて神妙な態度へ戻す。
「す、すみません、センセェー。でも僕は入院している場合じゃないです」
「わかってるわよ。だから流花ちゃんも一緒にここで保護すると言えば、安心できるわよね」
マテオは有難いとした返事しかけたところで止めた。
うふふふ……流花ちゃ〜ん、と不気味に独り言をもらす女医の姿を認めたからである。男女関係ない両刀使いと呼ばれる性的嗜好の持ち主と聞いていれば、不安が過ぎって当然だろう。
どうしようかなぁ〜、と考えだしたところへだった。
先生! と慌てて駆け込んでくるツインテールの看護師がいた。ピンクのナース服といった他と違う格好をしている。
どうしたの? と瑚華が聞けば、同じ階にある待合室で狼藉を働く者がいるそうだ。
こらっと瑚華の叱る声を無視してマテオは診察室を出ていく。
待合室には、姉のアイラと流花がいるのだ。
アイラとマテオの能力は瞬速だ。何かしらの武器を手にしていなければ、攻撃ばかりでなく防御も素手となる。
病院にアイラとマテオの姉弟が愛用する短剣は持ち込めない。
じっとなんてしていられない。
役に立たなかろうが関係ない。
さすがに肉体にダメージを与える瞬速は発現しなかったが、急いで駆けていく。
廊下の先に、予想が当たっていたことを知らせる光景があった。
数ある椅子やソファが転がり、観葉植物が倒されている。
老若男女の悲鳴が入り混じっている。
ツノを生やした赤黒い巨漢が暴れている。
マテオは待合室の隅に追い詰められたアイラと流花を見つけた。
鬼は三体いるようだ。
うち一体の広げた股間の下をスライディングする。
鬼の間を綺麗に潜り抜けたマテオは二人を背にして透かさず立つ。
「姉さん、僕が鬼たちを引き付けますから、その間に流花を早く!」
「でも、それじゃマテオはどうなっちゃうのっ」
呼んだ相手ではなく、流花が叫び返してくる。
「僕は大丈夫だ。今、治療が済んだばかりだからな」
ウソ! と流花に即座で否定されれば、マテオは失敗を認めるしかない。
「そうだよな、流花の能力を前に嘘なんか通用しなかったな」
すると今度はアイラが呆れていた。
「瞬速の能力を使用しないで走ってくる姿を見たら、お姉ちゃんだってそれくらい解るわよ」
マテオは己れの迂闊さに苦笑した。
「嘘を吐いたことは認めますから、何はともあれ姉さんは流花を」
「ダメだよ、マテオは素手じゃん。まともにぶつかったら大怪我どころじゃないよ、死んじゃうよ」
流花の震える声に応じたのは、向けられたマテオではない。
聞き留めた鬼の一体からだった。
「よくわかっているじゃねーか。そこの弱っちそうな兄ちゃんじゃ、死ぬぜ。俺ら鬼のパンチは、人の頭くらい、ぐちゃっとへこませられるからな」
そう脅しては下卑た笑いを挙げた。
笑いが続かなかったのは、マテオが忍び笑いを含ませた言葉を投げたせいだ。
「まったく病院にまで押しかけてまで流花を拐おうなんて、冴闇夕夜がよほど恐ろしいんだな。聞いたよ、陽乃さんや悠羽を狙った鬼どもは、こてんぱんだったんだって。わざと帰された鬼の一人の有様は、それはそれは酷いものだったらしいな」
出番がなかった、と連絡を寄越してきた奈薙から詳細を得ている。『神々の黄昏の会』に所属する四人の敗北も、充分なお釣りが返ってくるほど『風の夕夜』の実力は凄まじかったみたいだ。
うるせー、と鬼の一人が息巻く姿が却ってマテオがした指摘の正しさを証明していた。
「俺たちは『鬼の花嫁』を連れて帰らなきゃいけねーんだ。何人殺してもかまわねーから、次女を連れて戻らなきゃならねー。巻き添えで死にたくなければ、さっさとどきなっ」
「なりふり構わず、弱そうなところを狙ってきただけだろ。上からの命令がきつそうなのには、かわいそう〜って同情してやるけどさ」
いかにも生意気な態度を取るマテオだ。
キサマ、と鬼たちが熱り立つ。
いっそう爛々とさせた目へ、ソファといった大型の家具が飛んでくる。
軽やかに舞いマテオは向かってくる家具を蹴り返す。的確にゴールを決めていく。
払い除けた鬼たちの目には、白銀の髪をした少年が一人、映るだけだった。
マテオはしてやったりとする笑みが浮かびかけた。
だが次の瞬間、緩みかけた口許は凍る。
「おい、このガキがどうなってもいいのか」
鬼の一体が逃げ遅れた母娘から子供を取り上げていた。
すがる母親を蹴飛ばし、泣く娘は一握りでぐったりだ。
「おまえら、卑怯だぞ」
マテオが歯軋りすれば、人質を手にした鬼が笑う。
「キサマが言ったんだぞ、俺らが何でもするってな」
言葉が終わらないうちだった。
鬼の大きな拳が叩きつけられる。
ぐはっ、と吐くマテオは吹っ飛ばされ、壁へ打ちつけられた。
ずるり、壁伝いに下降する身体の尻が床に着けば、白銀の髪はぐったり落ちた。
死んだか、と呟く人質を取った鬼が大声で呼びかける。
「次女、出てこい。もしお前が出てこなければ、こいつに続いてガキも死んじまうぞ」
アイラは決断していた。すでに流花と共にいない。
代わりとばかり騒乱の坩堝と化した待合室へ踏み入れる足があった。
来たかと顔を向けた鬼の目は不審で彩られる。
てっきり呼び出しに応じたと思いきや、現れた人物は白衣の女医だ。
「いくら犯罪が不問にされる逢魔ヶ刻とはいえ、病院を襲撃なんていい度胸よね」
呆れた口調とは裏腹に妖しい笑みを浮かべた瑚華がいた。
たかが女一人、と鬼たちは侮りつつも悪寒が背中に走る。やって来た相手は美人なはずなのに、見るに耐えない凶悪な人相に思えて仕方がない。
ふふふ、と瑚華が鬼たちに与えた印象通りのセリフを述べてきた。
「でも、いい時間に来てくれたわ、あなたたち。鬼の身体って弄ってみたかったの。ちゃんと生きたまま解体できる機会が向こうからやってくるなんて、ラッキー以外のなにものでもないわ」
舌舐めずりさえしている女医に、鬼は虚勢を張り上げた。
「医者が俺たちに敵うって言うのか。こっちには人質もあるんだ」
「外ならともかく、ここは病院内よ。犯罪を許容する逢魔街の逢魔ヶ刻も開院していれば、相応の用意があると思わない?」
いつの間にかガスマスクを付けた白衣の男性陣がいた。
うち二人が鬼に振り払われ気を失っている人質の母親を介抱している。
残りは玩具めいた銃を構えていた。
口径は通常の銃より広く、シリンダーに当たる部分は何やら怪しげな色の液体を仕込んだタンクとなっている。
なんだ、それは! と鬼の一体が思わず訊いたくらいである。
なぜかやたら嬉しそうな瑚華だ。
「いろいろ、そういろいろよ。大丈夫、解体したいから、すぐに殺さないわ。だけど……」
パシュッと一発が放たれた。
瑚華のすぐ横にいるガスマスクを付けた白衣の男性が撃つ。
紫の霧状が人質を取った鬼を包む。
慌てて残る手で振り払う仕草を取るが、気の抜けた様子を表した。
「なんだ、何も起きねーじゃねーか。脅かしやがって」
人質の女の子を手にした鬼が笑い飛ばしかけた。
シュッと瑚華の手首がスナップを効かせて投げる。
刃が鬼の顔面わきを通り過ぎていく。
「当たらねーじゃねーか」
今度こそ笑い飛ばしかけた鬼の態度が一瞬にして変わる。
人質をつかむ腕側の肩が一文字に斬られていく。
瑚華が投げた短剣を手にしたマテオが華麗に宙を走っていた。