第1章:鬼の花嫁ー004ー
我慢など出来なかった。
祁邑本家の娘は、鬼の能力をより濃く引いた子孫を残すためだけの存在とされている。だから名前など付けない。長女、次女、末女といったあくまで家の下とする名称で呼ばれる。
陽乃、流花、悠羽は記号に等しい呼び方が不憫でならないとする母親がこっそり付けた名前だった。
その情報を奴らがどうして得たかは知らない。知らないが宿敵とする相手が無造作に口にすることが我慢ならない。
再び地を蹴ったマテオは、瞬速を発現した。
ビルの縁に腰掛けるリーへ短剣を掲げ一直線に飛んでいく。
守護する女がいて、阻んでくるは想定内だ。
繰り出す長剣と刃を合わせながら、マテオは強く訴える。
「おまえ、いいのか。あんなヤツの下で。リーとかいう、あの野郎は人の心なんか持ってないぞ」
「心なんて抽象的すぎるもので語られても説得力ないね」
そう言って怪力を発揮し長剣を押し込んでくる。
普段のマテオなら受け流すことで、別の反撃機会を窺ったかもしれない。
現在は頭にきていた。
「おまえもあいつに利用されるだけされて潰されるって、親切に言ってやってんだよ」
言い切った瞬間に、マテオの短剣は相手の長剣を押し返した。
弾かれたように白黒の仮面を付けた女が後方へ飛ぶ。
マテオは一気に方を付けるつもりだった。
だが、標的はいない。
リーと名乗る白黒の仮面を付けた男の姿は、すでになかった。
「どこへ行った! 言うだけ言って逃げるなんて卑怯だぞ」
マテオが、らしくなく叫ぶ。
屋上に残された白黒仮面の女が指差してくる。
「マテオといったか。ワタシ、初めて押し返された。たいした腕力だね」
「おまえたちに復讐することだけを考えて、十年以上が鍛えてきたんだ。これくらいの力は付くさ」
「おもしろいね、マテオ。うちのボスが夢中になるの、わかる気がするね」
「だったら、伝えておけ。想いは僕のほうこそ、強い。おまえを、おまえたちを潰すことにな。そう遠くないうちに、きっとケリをつけてやる」
相手の表情は白黒仮面によって窺い知れない。
けれども微かに笑っているような気はする。
逃すか、とマテオは瞬速を発現しようとした。
霧のような煙が視界を覆う。
古典的な手法だが巻かれた煙幕の効果は抜群だ。
煙が退けば、影も形もない。
ちっくしょう、とマテオは呟き、ビルを飛び降りる。
下の路地にいる流花と楓の前へ立った。
「悪い、逃した」
マテオが心底からすまなそうに述べれば、流花が笑みを浮かべる。作っているとしか思えない。
「マテオが謝ることじゃないじゃーん」
そう言われてもである。白銀の髪を乱暴にかいて見せるマテオだ。
悠羽を父親と引き合わせる画策に、まんまとハメられたと知り悔しい。
姉のアイラを探しに出た隙を狙われた。
陽乃と悠羽はマテオが住まうマンションの一室から拐われた。
もし従来の通り、冴闇夕夜のところにいたならば、手出しされなかったかもしれない。
「お姉ちゃんから冴闇のお兄さんのところを出て行くって言い出したんだし、マテオはぜんぜん悪くないよー」
流花の無邪気な声音で核心を突いてくる。
そういえば感情が読めるんだっけなー、と口に出さずマテオはごちる。色となって表出するらしい。本人の意向に関係なく発現する能力と推測できた。
そんな相手へ変に隠し立てしてもしょうがない。
「でも僕は悔しい。他ならともかく選りによってPAOの思惑に乗せられたというのが我慢ならないんだ」
「マテオがずっと追いかけているのに、どうにもならない相手でしょ。そう簡単じゃないよ」
「おまえ、流花のくせに生意気なこと言うなー」
ひどーい、とむくれる流花に、「いいや、そうだ」と笑いながら返すマテオは内心で冷やりとしていた。
危うくいつもの調子で『おまえ』と呼びそうになってしまう。名前できちんと呼ぼう。流花がこだわる理由は、ちゃんとあったのだ。
これまで無造作に呼んできて、本当に悪かったと反省するマテオだ。
うふふ、と流花が意味有り気に笑う。
しまった、とマテオは胸の内で叫ぶ。「こいつー、僕を読み取りやがったなー」と思わず口に出していた。
答えたのは流花ではなく楓だった。
「あのさ、能力なんかなくてもマテオの考えていることなんて、見ているだけでバレバレなんだけど」
そうそう、と追随する流花は愉しそうだ。
作ったものではなく、心のままに浮かんだ笑みに思える。
ウソだろ、とマテオは不平を鳴らしつつも気持ちとしては良しだ。
流花だけでなく楓にも見透かされているかもしれないが、悲しませる類いではないから構わない。
気持ちを少しでも持ち直せて、何よりだ。ここは負けたふりしてやろう。
負けた自覚がないマテオは大人として少し余裕を持った気分でいた。
路地を出るまでは。
茜色が濃くなる通りへ出た途端だ。
マテオたちを待ち構えていた複数の人影がある。
この街で影響力を持つ『神々の黄昏の会』が雁首を揃え、マテオに呑めない要求をしてくるのであった。