第1章:鬼の花嫁ー003ー
腹が立ってしょうがない。
マテオは自分の頬を引っ叩きたいくらいだ。
世界を救った、しかも最善の策をもって。
悠羽の能力の暴走は惑星ごと砂に変えてしまう可能性を秘めていた。
最悪がもたらされる前に、悠羽ごと消そうとする結論は致しかない。
だがその前に、存在を消すことなく済ませる唯一の方法がある。
能力を発揮できないよう、眠らせる。
可能性があるという困難極める話しだった。
無意識という、常に能力を発現し続ける悠羽の状態だ。
悠羽に感触すらなく昏倒させなければならない。感じさせたら砂にされてしまう。
マテオの能力である瞬速と、逢魔街随一の甘露瑚華医師が渡した麻酔の効力に賭けた。
賭けには勝ち、瑚華の医師としての信頼をより強固にし、マテオは評判を上げた。
何より、悠羽を抹殺とする手段を取らずに済んだ。
多くの賞賛と感謝と、我が身を顧みない危険へ飛び込んだ行動に対する姉からの叱責も、マテオには勲章であった。
本人としては浮かれている気はなかったが浮ついていたかもしれない。
悠羽の昏睡が続いた。
とっくに麻酔の効果が切れてもなお特別病楝の一室で目覚めない。
もしかしてこのまま意識を戻すことはないのか。
不安が渦巻き出した頃に、目を開けた。
懸念とされていた能力の発現はない。
悠羽が触れるものを砂にすることはない。
そもそも悠羽自身が能力を発現できるかどうか怪しい状態となっていた。
あー、うー、とばかりで言語を発しない。むずかり、時には泣き叫ぶ。黙っている際はずっと親指をしゃぶっている。
赤ん坊還りをしていた。
長姉である陽乃が、そっと抱き上げれば無邪気な笑顔を浮かべた。
続く次姉の流花が伸ばした手には獣のような唸り声を上げた。ぐるるっ、と威嚇して近づくことさえ拒否してくる。
窓越しで病室の様子を窺っていたマテオだ。
本能のままな悠羽だからこそ、流花には衝撃だっただろう。傍からでも解るほど落ち込んでいた。
一緒に病室内を一望できる部屋にいた楓も沈痛な面持ちで眺めていた。
悠羽が発した言葉「ママ」が陽乃に向けられただけでなく、「パパ」と冴闇夕夜を呼んでいれば、なおのことだ。阻害された流花の姿は、マテオですら痛ましい。
一人そっと出てきた流花を追える者はマテオと楓だった。
病院を出て、しばらくしても流花は口を利かない。
マテオと楓は黙って付いていくしかない。評判になるほどの能力を持ち、片や存在の特殊性が注目を浴びるほどのコンビだが、中身は見た目通り老成には程遠い。どうすればいいか解らないから、ひたすら後を追うだけだ。
不意に前を行く姿が角を折れた。流花がビルの間へ入っていく。
とんでもない美少女であり、無法の時間である逢魔ヶ刻だ。
普段なら怒るところだが、なんとなく何がしたいか察しがつくから急ぐのみだ。
ふと足を停めた流花が振り返っては笑顔を振り撒く。
「マテオも楓ちゃんも心配かけちゃって、ごめんね。流花なら一人でも、もう大丈夫……」
「泣くなら泣けよ。僕と楓の前でくらい、泣くぐらいしろっていうもんだ」
マテオの雑な口調が、泣き笑いを生んだようだ。
「なにそれ。流花はマテオと楓ちゃんの前では泣かなきゃいけないの」
「そうだ、僕はそう言っている」
すると楓が呆れたように割り込んできた。
「う〜ん、あたしもマテオが変なことを言ってるとしか思えないんだけど」
「おいっ、楓。そこは無条件に僕の意見に乗るところじゃないのか」
「そういうマイペースさが、マテオの面倒なところなのよね〜」
なっ、とマテオは絶句してしまう。
逢魔街へ来るまではクールで鳴らしてきていた。いつも自分が相手を絶句されてきた。ずっと面倒をみてきたとする相手の、もしやとする指摘だ。
「ぼぼぼ僕が面倒なヤツだと、そんなバカなっ」
酷いうろたえようは笑いを誘う類いだったらしい。
ぷっと楓が噴き出したのに続いてだ。
あはははー、と流花が声を立てて笑った。頬に一雫を伝わせながら。
「やはり鬼の花嫁だ。美しい」
いきなり聞こえてきた声と共に、もっさりした男が現れた。髪がぼさぼさの伸び放題で冴えない格好なれば、年齢は読み難い。ただ気味の悪さは感じ取れる。
「おまえ、誰だよ」
マテオが訊くと同時に、男が唸り声を上げた。身体は赤黒い肌を曝しながら肥大し、頭にはツノが生えてくる。
誰もが知る『鬼』の姿へ変化した。
爛々と光る眼で流花を捉える。
「祁邑の次女よ。その者たちを巻き込みたくなかったら、さっさと我らの元へ来るんだ。準備は出来ている」
答えたのはマテオだった。
「なんだか流花に対して、ずいぶん偉そーじゃないか」
すると味方であるはずの流花と楓が揃って驚くように挙げた。
「えー、それマテオが言う?」「うわっ、あんた、自覚ないんだ」
「な、なんだよ、おまえたち。ここでツッコみか」
面白くないマテオの腹いせをぶつける相手は、いきなり登場の鬼へとなる。少々手間取ったが、楓と協力する冷静さを失わず勝利はした。
その直後に現れたPAOの首魁であるリー・バーネットと護衛の女性。双方とも白黒の仮面を付けた姿で、ビルの上から見降ろしてくる。
「そこのカノジョの名前は、こっちと違って与えられたものではなかったはずだけどね」
それは触れてならない逸話だった。
やはり気など許してはいけなかった、とマテオは再び自身の能力を発現した。