第1章:鬼の花嫁ー001ー
それはまさしく鬼だった。
頭に生えたツノに、爛々と光る眼と口から突き出た牙。体軀はニメートル近く、浅黒い肌は刃物を受け付けない堅牢さだ。
跳ね飛ばされたマテオの白銀で煌めく髪が乱れる。
なんとか体勢を崩さず着地した。
まいったね、とマテオは右手に握る短剣の刃を見つめた。
刺さらないどころか、傷一つさえ与えられない。
鬼には、正確には鬼の姿となった男には通常の武器が通用しないみたいだ。
さて、どうしたものか。逃亡という手もある。
一般的に所有する能力は一つだ。複数の能力を有する者もいるそうだが、ほんの稀だ。
相手は鬼へ変身する能力者である。
マテオが発現する瞬速に対抗でき得る別の能力を所有している可能性は無いと考えていいだろう。
仮に持っていたとしても、その時はその時だ。
ともかく流花の安全を優先すべきである。
そう考えがまとまったところへであった。
鬼がしゃべった。
「キサマは鬼の花嫁である自覚をせよ。我々の下へ戻ってくるんだ」
本当だったんだな、とマテオは先ほど聞いた懸念を思い出す。
悠羽がこうなっては、東の鬼は攻勢を強めるだろう。
さっそくのお出ましというわけだ。
思わずマテオは失笑を洩らした。
「なんだ、怖いこわーい悠羽がいなくなった途端に、ずいぶん強く出てくるんだな」
鬼の姿とはいえ、元は人間だ。マテオの態度に気を悪くすれば、恫喝を投げてくる。
「黙れ、よそ者のキサマなどに何がわかる。確かに我々は悠羽を怖れたが、他に遅れを取ることはない。我々を嘲るならば、実力を示せ」
「怖いヤツがいないとなれば、ずいぶん強く出てくるもんだ。だけど、ここは逢魔街で、今は逢魔ヶ刻だ。そうたやすくはいかないんじゃないかな」
そう言ってマテオは西空へ視線を送る。
誰もの思い出にありそうな夕焼け空が広がっていた。
逢魔街という俗称が公称へ変わって、幾星霜が流れている。午後三時から七時までありとあらゆる情報網の遮断に、記録が残せない謎の現象が起きる時間帯。無法と定められ、殺人でさえ不問となる。
不思議で過酷な状況でも生きていくための心構えがある。訪れたばかりの外来者に実感できるものではない。
マテオ自身が最近やってきた者だから、よく解る。
ここに住んでいると、ぎりぎりまで模索を止めない。従来通りとした考え方をしていたら明日はない。結果を恐れず思い切らなければ危機は乗り越えられない。
試してみるか、と短剣を握り直した。幸いにも、役に立ちそうな味方はすぐ傍にいる。
ところが肝心の流花が喉を張り裂けんばかりに叫んだ。
「もういい、もういいよ、マテオ。流花なんかのために、危険なことはしなくていいよ!」
「おまえ、なにヤケになってんだよ。僕がここで流花を放り出せるわけないだろう」
即時の否決は、マテオなりに気を回したゆえだった。
さっき流花が傷つく気持ちが手に取るように解る場面に出くわした。
珍しくだが、元気づけてやりたい気分にある。
それはマテオだけでなく、共に行動しているおかっぱ頭の赤いスカートを履いたゾンビ少女もだった。
楓は体温のない手のひらが、流花の綺麗な手を包む。
「流花が会いに来てくれるようになって、本当にあたし嬉しかった。でもいつかきっと別れがくるからって冷たくしてきた。それでも来てくれたじゃない。だから今、少しでもお返しさせて」
楓ちゃん……、と流花の呼ぶ声は濡れていた。
おいっ、楓! と今度はマテオが威勢よく呼ぶ。
なによ、ときたゾンビ少女の青白い耳元へマテオは囁く。
いいんじゃない、と楓の返事だ。
「じゃ、いくか」
マテオが殊さら大きく口にしたのは、相手の耳にも宣戦布告を届けたかったからだ。
「来るなら、来るがいい」
受けて立つ鬼は自信満々である。
マテオは自身の能力を発現した。
瞬速と呼ばれる超高速の移動だ。
かなり目の効く鬼でも、白銀の髪を有す少年の姿を捉えられない。
ただ攻撃力は世にある武器に頼らなければならない。
マテオが能力を鑑みて選んだものは短剣だ。
斬りつけるまではなんなく至れる。
けれども鬼の強固な肉体を刃では傷つけらなかった、つい今である。
数瞬間の後に、姿を見せたマテオへ鬼が笑う。
「どうやら懸命になって攻撃を仕掛けたようだが、無駄だったようだな」
「そうでもないんだけどな。わからないか?」
マテオののんびりした口調に、「なにっ」と鬼は慌てて自分の赤黒い身体を見渡す。
「キサマ、はったりは止せ。何もないではないか」
「やっぱりナリの通り、ずいぶん神経は鈍いんだな。僕としては上手くやれたと思っている」
「適当なことを言ってやり過ごそうとは、ずいぶんセコい真似をするのだな」
「セコいは認めるけど、かなり王道な手口だと思うぞ。同じ箇所を何度も攻撃するっていうのは」
はっはっはっは、と鬼が堪えきれないかのように声を上げて笑った。
「何度も同じ場所を攻めたというが、どこにも傷などないではないか」
「肉体の感覚が鈍くなるタイプで良かったよ。次いでに言わせてもらえば、僕がなんでこんなおしゃべりに付き合っているか、用心する頭がなくて助かったかな」
さらりとした口調だがマテオの内容は辛辣だ。
鬼へ変化した能力者が咆哮を上げた。
だがマテオの不遜に対する怒りからではない。
痛みからだ。
筋骨隆々の赤黒い肩へ、噛みつかれていた。
おかっぱ頭の赤いスカートを着た少女が歯を立てている。
ゾンビの楓が喰らいついている。
苦悶を洩らしながら鬼は右腕を伸ばす。
楓の首根っこを掴むや、宙へ放り投げた。
次の瞬間だ。
喰いちぎられた肩へ、刃が突き刺さる。
瞬速で移動を果たしたマテオが、鬼の傷口へ短剣をねじ込んでいく。
噴き出る血飛沫に、獣のごとき叫びがさらに高くなる。
よろめき後ずさる鬼の片膝が落ちた。
スタッと流花の前へ降り立つマテオだ。
腕に抱えた楓を地面へ降ろしてもいた。
片膝を着く鬼が血で濡れた肩を残った手で押さえている。
「なぜ……なぜ、この姿なら、そう簡単に傷など……」
「わからないのか、まだ。僕が攻めた箇所は、こいつの歯が噛みつけるよう下地作りさ。必要はなかったかもしれないが、より確実性を期したわけだ」
「それで、あたしが喰い破れば突破口は開けたという具合ね」
マテオ、そして楓まで続いた。
「これで勝ったと思うな」
鬼が光る眼で睨みつけての捨て台詞だが、マテオには響かない。
「陳腐だなー。おまえは僕の誘導に乗って会話することで、楓に噛みつかれるまで意識を取られた行動を反省すべきだ。よく父上に言われたよ、まず使うべきは能力より先に頭だって」
「キサマらなどに、我らのチカラを理解できるものか。小賢しい真似をしなければ、この身体を傷付けられなかったのだからな」
「なるほどね、プライドを守るためか、立場を守るためか知らないけれど、事実を見られず失敗を犯す典型みたいだったな」
なにを、と言いかけた鬼が息を飲み込んだ。
今まで見せてこなかったマテオの目つきに慄いていた。
「僕がどれほどの修羅場をくぐり抜けてきたか、おまえでは想像がつかないだろう」
白銀の髪を揺らして発せられたセリフに相応しい容赦のない光りが灰色の瞳に宿っていた。
鬼に変化した者が、この世で最後に見た光景となった。




