第7章:摩天楼の夜の真心ー008ー
非常に危険な兆候が嗅ぎ取れた。
人心を読む能力などなくても、マテオにだって解る。
アイラの短剣を握る手が、ガタガタと震えだす。武器の使用に手練れた者ではなく、咄嗟に包丁を掴んだ素人のようだ。
「姉さん、どうしたんです。兄上を、そんなに疑って」
「私は見たわ。サミュエルが女の人と楽しそうに買い物をしているのを」
姉の疑念に、マテオからすれば、今さら何をである。
「あの兄上ですよ。女ったらしのスケコマシ。ガールフレンドが何人いれば気が済むんだよ、のサミュエル・ウォーカーですよ。そんなこと、姉さんだって骨の髄まで承知していることでしょう」
くいくいと流花がマテオの袖口を引っ張った。
「マテオのお兄さんが、そんなに女好きなんて、いがぁーい」
「そうか。僕が知る限りでは、あれほど手当たり次第にオンナを求める男は兄上が一番だぞ。家に押しかけてきたガールフレンドが五人と聞いて、ずいぶん整理したんだと思ったくらいだ」
答えているうちに、なんだか姉の懸念がアホらしくなってきたマテオである。
「姉さんが見た女の人って、陽乃さんでしょう。現在、うちに訳あって妹の『こいつ』と一緒に居候してます。家事全般を完璧にこなす素晴らしい女性です。申し訳ありませんが、こればかりは不純異性交遊の激しい兄上ごときでは、とてもとても釣り合えるものではありません」
「マテオったら〜、また流花を『こいつ』呼ばわりするぅ〜。それにお姉ちゃんが絡むとお兄さんにも酷いよねー」
「おまえ、失礼なこと言うなよ。別に陽乃さんを特別視しているんじゃないぞ。ただ兄上の唯一と言える弱点を指摘しているだけだ」
「もう、わざと『おまえ』呼ばわりしてるでしょー。マテオのいじわるぅ〜」
言い返そうとして、はっとマテオは気がついた。
すっかり姉を置いてきぼりにしてしまっている。怒り、もしくは呆れているならば良い。なんだかとても寂しそう雰囲気を全開ときているから慌てふためいた。
「だから兄上が探しに来たのは間違いないんですが、いつもの病気が出てしまったところを姉さんは運悪く出会してしまっただけです」
「でも陽乃っていう方……マテオの言う通り素敵だと思う。家庭的そうで、夫に安心を与えられるパートナーって気がする……人殺ししか出来ない女なんかより、ずっとサミュエルには相応しい方……」
「ですから、姉さん。兄上に陽乃さんがでなく、陽乃さんに兄上ごときでは、と僕は言っているのです」
マテオの力説は終始一貫している。つまりいくら説得を試みようが埒は開かないだろう。
お姉さん、と流花がマテオを押し退けるように出てきた。
「うちのお姉ちゃんが欲しかったものを、お姉さんは持っているんです」
私が? と返すアイラに、流花は深くうなずく。
「お姉さん。綺麗って言われたことありますよね? かわいいって言われたことありますよね?」
流花のいつにない迫力に、向けられたアイラだけでなく横のマテオですら押された。
う、うん……、とアイラが気圧されつつ首を縦に落としている。
「お姉ちゃん、ずっと容姿について言われきたんです。ブスだの、残念だのって。気にしてないようにしているけれど、流花にはわかる。すごく傷ついていたこと、本当は綺麗と言われる女性を羨んでは悔しがっていること。そして……」
言葉を切った流花の表情に、マテオは「おい、大丈夫か」と声をかけたほどだ。それくらい辛さが滲み出ていた。
ぐっと流花が顔を上げた。
「お姉ちゃんが綺麗とか、かわいいと言われる妹たちを好きじゃないこと。特に流花なんか大嫌いだっていうことを」
「流花、無理してしゃべらなくていいぞ」
アイラではなくマテオのほうが声を挙げずにいられない。
流花が首を激しく横へ振った。
「お姉さん、辛かったですよね。でも、でもね……いくら綺麗だって言われても、流花は他になんにも出来ない。いくらみんなに綺麗だって褒められても、肝心な人には届かない。こんなの……こんなの、ぜんぜん嬉しくないっ」
言い終わった流花は両手で顔を覆う。「ごめん、マテオ。こんな話しして」と涙に濡れた謝罪を寄越してくる。
厳しい顔つきを無理に解いたマテオは、ぽんぽんと流花の頭を叩いた。
「バーカ。こっちこそ、ありがとうだよ、流花」
それからアイラへ向き直った。
「もう、やめましょう。姉さんと僕だけの思い込みは人を傷つける類いのもののようです。僕たち姉弟は、あまりに物事を知りません。だから父や母になってくれるという人たちの下で、初めからやり直しませんか」
「……マテオ。でも私の中にある殺人嗜好は消せない……」
「でも僕たち姉弟は仲良くやってこられました。僕はどんな時でも姉さんが大事だったし、姉さんだって僕のための行動でしょう。実は僕たち姉弟は、とっても幸せな状態を当たり前にしすぎたんです。だから僕たちはこれから何をするべきか見直しましょう」
マテオ……、と呟く流花がいる。
アイラは静かな視線を向けた。
「私は無理……無理だと思うって言ったら、マテオはどうする?」
「そうですね。取り敢えず『こいつ』と言ったら怒られるか。まず流花の安全を図りたいです」
肩をすくめるマテオに、ふふっとアイラが満足げな微笑だ。
「うん、そうね、まずやるべきことは流花ちゃんの安全の確保ね。そこは私も協力する」
「姉さん、有り難いです」
流花ちゃん、とアイラが呼んだ。
瞳を涙で濡らした顔は世の男女の心を鷲掴みする流花の美少女ぶりである。
けれどもアイラが感慨を受けていたのは内面だった。
「ありがとう。流花ちゃんの辛い気持ちが、私を助けてくれたことは忘れないでね」
お姉さん……、と返す流花の表情に笑みが浮かぶ。
僕だって、とマテオも感謝しかけた。言いたいと思うが、なぜか口にすると負けた気がして伝えられない。「ともかく、ここから離れるぞ」とぶっきらぼうに提案するだけだ。
うん、と流花のうなずく姿を見ると同時だった。
アイラの絶叫が湧き起こった。