第7章:摩天楼の夜の真心ー006ー
姉さん! マテオの悲痛な響きだ。
アイラに向ける刃は、マテオにない。
もし自分へ斬りつけてきたならば受け止めてしまったかもしれない。
アイラが持つ短剣の鋒の軌道を読んだ瞬間に、条件反射だった。
マテオは自身の刃を持って、アイラの短剣を叩き振り払う。
「お姉ちゃんの邪魔しないでよ、マテオ」
興奮しすぎて笑いが止まらないアイラに、マテオは必死にこみ上げてくるものに対し堪えていた。
「姉さん、どうして、流花を狙うんですか。関係ないでしょー」
「マテオはおこちゃまね。流花ちゃんを狙うなんて決まりきっているじゃない」
アイラの舌が唇を舐めてから、顔を輝かせて言い放つ。
「きれい、流花ちゃんは本当に綺麗。そんな綺麗な顔が切り刻まれて、血でぐちゃぐちゃになるなんて想像するだけでイっちゃいそうよ」
「それが理由だとするならば、どっちがガキなんだって思います」
背でかばう流花をちらり見遣ったマテオは達観した表情をアイラへ向けた。
「いいですか、姉さん。こいつは見た目は上等かもしれませんが、中身は底辺に位置します。悪いとまでは言いませんが、面倒すぎて碌なもんじゃない。なにが綺麗ですか、上辺に騙されるも大概にしてください」
攻撃は正面からではなかった。背後からだった。ぎゅっと肩がつねられマテオは「うわっ」と声を上げる。
「いきなりなにすんだよ、流花。イテーよ」
「マテオが悪いんじゃん。また『こいつ』呼ばわりするし、流花そんなに悪い娘じゃありません」
「だから悪いヤツだなんて言ってないだろ。つーかさ、こんな時にそんな文句、言ってくるなよ」
「だってマテオ、本心から言ってるんだもん」
流花の唇を尖らせたような言い回しに、うぐぐっとマテオは反撃を呑み込んだ。確かサミュエルから大事な局面で男女間をこじらせたら、諦めろと教えられている。承服できなくてケヴィンにも確認してみたら、同意見だった。
これがウォーカーの姓を持つ男に延々と受け継がれる家訓なのかと思ったマテオである。
それにしても、とマテオは短剣を持ち直しながらである。前には精神がおかしくなっているアイラ、後ろには不貞腐れた流花。まさに内憂外患とは、この事だ。
あははは、とアイラがまた狂気に満ちた哄笑を挙げた。
「いい、いいわ、流花ちゃん。かわいすぎて、顔だけじゃなくて全身を斬り裂いてやりたい。流花ちゃんの噴き出た血、そう暖かい血を私に浴びせて」
大きく息を吸い込んでマテオは訊いた。
「姉さん、昨日の信濃町における大量殺戮は本当だったんですね」
「問題はないわ、逢魔ヶ刻にやったんだもの」
「ないわけないでしょ、大有りですよ」
マテオは昼間に自警団として雇われている連中の襲撃を受けた。
目に映る者を手当たり次第に斬る白銀の髪が特徴とする者が挙げた高笑いが耳から離れない。血を浴びて恍惚とする表情がしょっちゅう頭をよぎる。
マテオたちに返り討ちされた『カブキ自警団』のリーダーである鷹野琉路の証言だ。彼の仲間も多く傷ついたそうだ。
「姉さん、殺人に法律が届かないだけで、決して住む者たちが許しているわけではないのです。逢魔ヶ刻だからといって好き勝手な無法行為には報復が待ってます」
犯罪に対して取り締まりがなくとも、住人たちは危険が及んでくるようなら結束をする。個人的な話しなら放っておくが、街自体を揺るがす事態には全力で対処してくる。無差別殺人を繰り返す存在など住む者たちの意志によって許されない。
むしろ逢魔ヶ刻以外のほうが殺人件数は上回るのではないか。データが集められないため正確でないにしても、そんな噂が信憑性をもって語られるくらいである。
現に逢魔ヶ刻がとっく過ぎた真夜中に、マテオやアイラはこうしてやり合っている。PAOも平気で襲撃をかけてくる。
「姉さんこそ、この街にいては破滅してしまいます。今なら、まだ間に合います。帰国してください」
「イヤよ。私は殺すの、いっぱい血を浴びたいの。だから裏の仕事を選んだのよ。なのにマテオったら誤解して、いっつも一人で先に片付けちゃうんだもの。どれだけお姉ちゃんが、がっかりしていたかわかる?」
「姉さんは僕と一緒にいたいため同じ道を選んだわけじゃないんですね」
一瞬の沈黙の後だった。
「……そう、そうよ。ばあっと飛び出てきた血がかかると凄く気持ちいいの。私はそのためにマテオと一緒の仕事を選んだのよ」
それを聞いたマテオが声を向けた相手はアイラではなかった。
「おいっ、流花。教えてくれ。姉さんは、まだ心がないままか」
ううん、と流花が首を横に振っているのが見えるような答えが返ってきた。
ふっとマテオは口許を緩めた。
「ありがとな、流花。僕が気づいたことを認めるなんて、本当はイヤだっただろう」
「……マテオ、もうわかっちゃっているんでしょ」
「はっきりじゃないけどな。まぁ、だいたい流花の能力は見当がついた」
アイラの声がした。
「マテオ、どいて。流花ちゃんの血を、お姉ちゃんにちょうだい」
「姉さん、もう意識は取り戻しているんでしょう。だったら何を考えているか、僕が考えつかないと思います?」
マテオは一瞬とはいえ、アイラが瞠目したところを見逃さなかった。
やっぱりだ、心を決めている。五歳のあの時から、ちっとも変わっていない。
「姉さん、すみませんでした」
マテオの謝罪に、アイラの短剣を掲げた手が止まる。今度こそ、驚きを隠せていない。
だからマテオは「あの時……」と続けた。
「僕が意気地なしで、姉さんだけに殺し合いをさせてしまったせいです。姉さんがそうなったのは、僕のせいなんです。償いをするべきは、この僕こそなんです」
突然の豹変だった。
アイラは人が変わったかのようにわなわな震えだす。
「ち、違う、それは違うわ。私は生まれつき人殺しが大好きな性質を持ち合わせていて……」
「違います。幼き日、姉さんは弟を守るために行った殺し合いで精神失調を起こしたんです。僕が担わなければいけなかった役目を背負わされたせいで生まれた苦しみです。それを今、返す時がやってきました」
地面に落ちる硬い音が響いた。
マテオの足元に短剣が転がっている。武器を捨てていた。
なのにアイラのほうこそが窮地に追い詰められた顔となった。
ずっと一緒にいた弟だ。常に臨戦体勢にあるマテオが手にした武器を手離すなど見たことがない。あの日以来、戦いを放棄した姿など、知らない。
両手を広げたマテオが、じりっと一歩を踏み出す。
一歩後ずさるアイラの短剣を持つ手が震えては止まらない。
「姉さんをそんなにしたのは、僕の責任です。姉さんの苦しみを理解できなかった不甲斐ないにも程があるこの弟です。だから僕の血と引き換えに、こんなことはやめてください。ウォーカー家に戻って、父上母上に兄上と穏やかにお過ごしください」
「そ、そんなこと、私には……」
「それが僕の望みです」
ようやくだ、とマテオは思う。
これで姉にあの日を還せる。弟の命と引き換えは、アイラに深い心の傷を与えるだろう。でもだからこそ殺人嗜好の性質と向き合うようになれる。辛苦に苛まれても、家族と望んでくれたケヴィンとソフィーの両親と、軽い上っ面をしているが実は芯の通る好い男である義兄のサミュエルがいれば、乗り越えられるはずだ。
マテオは幸せだった。
後を託せる人たちがいる。おかげで瞬速の能力を発現して、一気にアイラの懐へ飛び込める。姉に命を差し出せて、しかも後顧の憂いがないなんて、なんて素晴らしいことだ。
アイラが手離せない短剣で自分の身体を刺し貫こう。
きつくきつく流花に抱きつかれなければ念願は叶うはずだった。