第5章:神々のチカラとされる人たちー001ー
今夜は星が見えない。
ふとマテオは実父母の下にあった幼き日々を思い出す。
碌に食事も与えられず痩せ細った身体に加えられる虐待の痛みで寝付けない日々。就寝前はいつも降りそそぐような満天の輝きを見上げていた。
いつか頭上で輝く星々を追おう。ここではない、求める場所が待っている。
そうなぐさめていた。
一方で奇跡なんて起こらないとも思っていた。
五歳にもならない歳でマテオの胸には絶望だけが巣食っていた。
それでも眠りに就く寸前に明日への希望を口に出来たのは、弟をかばってさらに酷い傷を負った姉を想ってこそだ。
「なのに、僕は……」
くっとマテオは顔を歪ませて、星が見えない夜空から視線を逸らす。仰向けから横向きへ変えた身体を折る。ぐっと身を縮ませた。
姉さんを守りたくて鍛えてきた十年のはずが……何もかも無駄だったと思い知らされた。
マテオの瞳に涙が浮かんでくる。
溢れなかったのは、人間の気配を察したからだ。
誰だ! と問えば「ごめんね、驚かしちゃった」とくる。聞きたかった優しい声だが、弱っている時に最も会いたくない人物でもある。
顔を合わせたくないなら都合の良い能力を所有しているマテオだ。
けれど瞬速を発現するどころか、横たえた身体を丸めてしまう。
身を縮こませれば、さらに情けなくなってくる。涙が溢れそうだ。
「ここで私もよく泣いている」
陽乃が傍に立っているのが解れば、マテオは胸が熱い。恥ずかしさと気負いがまぜこぜになれば、言いたくないことを口走ってしまう。
「知ってます。僕が初めて見た陽乃さんはここで泣いていた」
あはは、としてから陽乃は微笑むような声を落としてきた。
「恥ずかしいところを見られちゃった、なんて思わないよ。あれが、私。泣きべそをかくだけの昔から、なんにも変わっていない。だから逃げることしか出来ない私」
「陽乃さん、無理に僕を励まそうと話しを合わせなくてもいいですよ」
突っぱねてしまうマテオだ。陽乃にまで同情されたら、それこそ泣き声を堪えられなくなりそうだ。
よいしょ、と陽乃がおどけたような声を挙げる。気配や音から地べたへ腰掛けるのが伝わってくる。
「マテオくんは、ちょっと誤解しているかな。大事な人から逃げ出してしまう気持ちは解る。本心を言えば、私だけじゃなかったって、ほっとしている。嬉しくなっちゃうくらいに」
陽乃の告白に、はっと目を開いたマテオである。思わず「そうなんですか」と訊き返してしまう。
「私は悪い性格なの。たぶんマテオくんが……それに夕夜さんが思うような人間じゃないのよ」
「僕には解りません。陽乃さんはいつも暖かくて優しくて素敵な人だって感じしかしません」
「周囲の男性が言うにはね。妹たちはあれほど美人なのに、長女だけが残念な顔をしてて、性格もじめじめしていて気を滅入らせるんだって」
「そんなこと、あるわけないじゃないですか!」
がばっとマテオは上体を起こす。陽乃が驚くほど熱り立っている。自分でも不明だが、ここ三日間に苛まれていた失望が嘘のように飛んでいた。
「陽乃さんをそんなふうに悪く言うヤツは、誰ですか。僕が許しません」
びっくり眼の陽乃だったが、やがて柔らかい目つきへ変わっていく。
「ありがとう、マテオくん。そんなふうに言ってもらえただけでも、この街へ来て良かった」
「当たり前のことを言っているだけです」
「でもそう言ってくれた人って、マテオくんと夕夜さんだけかな」
陽乃が真上を仰いだ。
ほとんど星が見えない夜空を、どんな想いで見つめているのか。
マテオは知りたいし、その横顔をずっと眺められていたらどんなに素敵かと思う。
ズキン、と胸が裂けるような痛みが走った。
アイラが短剣を掲げている。姉は自分へ向けて刃を振り降ろそうとしている。
弟のために、マテオのせいで。
守るなどとほざきながら、いざとなったら逃げ出す情けなさだ。
そんな自分が姉のアイラの献身を忘れて幸せな気分に浸ろうとしている。
「僕は卑怯ものだ」
自嘲の笑みがすべり落ちてくる。
「それは私も」
えっ? と声を出すマテオに、陽乃は仰ぐまま続けていく。
「私もね。ここへ来るのに妹たちを騙して連れ出してきたの。両親を探すためだって。流花から聞いていると思うけれど」
「いえ。あいつからはそんなこと、一言もありません」
そうなの? と驚きが隠せない陽乃に、誤解がないようにとマテオは力を込めて言う。
「僕と流花は助けてもらったりとかがあったんで、親しいように見えているみたいですが、そんなにお互い心は開いてないです。僕としては陽乃さんのほうが話せている感じです」
「私が話しやすい相手としてくれるのは嬉しいけれど、流花が打ち明けていないのはマテオくんを警戒してじゃないと思う。たぶん……」
言葉を切った陽乃に、マテオは「たぶん?」をアレンジしての鸚鵡返しをすればである。
「私たち姉妹って、お互いの能力について打ち明けられていないの。ずっと一緒にいるのに、流花が悠羽がどんな能力を持っているか知らないし、私も伝えていない」
そうなんですか、と返すだけで精一杯なマテオだ。
何でも言い合う自分とアイラの姉弟とはだいぶ違った関係性にある祁邑三姉妹のようだ。
けれど……とマテオは思うことを口に出す。
「けれど陽乃さんは、なんとなく当てはついているんですよね。流花や悠羽の能力について」
「どうして、そう思うの?」
「だってずっと兄弟一緒にいればです。常に気をかけてくれている姉には隠し事したくても通じないんで」
マテオの心をくすぐるように、ふふふっと陽乃は笑う。
「そうか、経験者は語るか。マテオくんって鋭いよね」
「意気地ないですけど」
ふと思い出した我が身の状況に落ち込むマテオへ、陽乃は明るく提案してきた。
「マテオくん、下へ来ない。ご飯を用意してあるの。お腹減ったままだと、碌な気持ちにならないから。それとも私の料理じゃ、乗り気になれないかな」
マテオからすれば、陽乃はさすがである。これでは失礼に当たらないよう招待を断れない。
いいんですか? と訊けば、「食べてくれると嬉しい」と返してくる。
「ご馳走になります。それと、ありがとうございます」
そう言うマテオは逃げ出して以来、初めて表情が緩むのを感じた。
陽乃はマテオにとって魔法をかけてくるような人だった。こんな短い会話を交わしただけで気持ちがほぐれてゆく。
すっかり気を緩めるまではいかなかった。
「誰だ!」
マテオは気配を察した。個人所有のビル屋上に、夜中に忍び寄ってくるなど一般の者とは考え難い。
緊張を隠せないマテオの呼びかけに、返答はすぐだった。
「初めまして。私たちは『神々の黄昏の会』。もちろん話しをしにきたんじゃないわ」
した声は女だったが、いたのは男二人を加えた三人だった。
短剣を取り出したマテオの直感が囁く。
こいつらはヤバい、と。