第4章:逃走ー003ー
てくてく、マテオは歩く。
所有する能力は、瞬速。地平線や水平線といった遥か彼方まで難しいが、街中で目が届く範囲なら網羅できる。一瞬での移動を可能とする。
戦闘になった場合、能力を知られていないほうが勝機は断然高まる。用心深いマテオは無闇に能力は使用しないようにしている。
ただ現在において使用しないのは、いざという時の備えではない。
のんびり会話をしたかったからである。
双子の姉であるアイラが付いてきていた。
あろうことか塀や囲いの頭を、ほっほっと楽しそうに渡っている。
はあ〜、とマテオは聞こえよがしのため息を吐いた。
「姉さん。家に帰ったらどうですか。どうせこっちに居ても、やることないでしょ」
「やーよー。帰れないわよ、あんなことして」
「別に料理を失敗しただけの話しでしょう。まぁ僕からすれば、なんで作るんだ。いやいや違うな。どうしてソフィー様から教わった通りに作らなかったんだ、と言いたいです」
うー、とアイラは唸って頬を膨らませながら「マテオのいじわる〜」ときた。
相変わらずだとしても姉には弱いマテオだ。拗ねられると、ちょっぴり動揺してしまう。機嫌を損ねる秘密さえ黙っておけくなる。つい足を止めて振り返った。
「姉さんの迎えが寄越されるそうです」
壁の上をのんびり歩いていたアイラが、スタッと路上へ降りた。マテオ同様、安易に能力は使用しない。感心すべき行動に相応しい真剣さを湛えて弟の前へやって来る。マテオ、と呼ぶ声は厳しい。
はい、とマテオも気持ちを入れ直して返事した。
「後の仕事は姉さんに任せて、貴方が家に戻りなさい」
マテオは口にはしないものの「なんだよ」である。でもここは、ぐっと堪えて伝えるべき言葉は選んだ。
「任務交代だなんて、こっちが勝手に決めていい話しでないでしょう。第一、僕はまだウォーカー家へ正式には……」
マテオが話しを途中で切ったのは、アイラに変化を認めたからである。無理に浮かべる微笑がいかにも気まずそうだ。
「ま、まさか、姉さん……」
「だって、だって。お兄さまがそう言ってきて、お父さまもお母さまも、やってしまえーって言うから。私も、まあいいやって思ったの」
開いた口が塞がらないとは、まさにこの事だ。
書類上だけでなく、双子の姉の存在が手続を容易にしたのだろう。
すでに取り返しがつかないことに対しては、さっさと諦めるが肝要と学んできたつもりのマテオである。とりあえず『マテオ・ウォーカー』に、いつなったか糾した。
「私たちがお兄さまから四六時中離れないように言われてから、ちょっとしてからね」
「えっ、そんな前からだったんですか」
マテオの見立てとしては、逢魔街へ出立直前だった。けれども姉の話しから推察するに三年前近くか、少なくとも二年前には養子縁組が為されていたようだ。
ぜんぜん気づかなかった。気づけるわけもなかった。なにせ姉までグルである。
マテオとしては、やられたというよりそら恐ろしい。
「だから私が代わっても大丈夫よ」
アイラがにこにこしながら言ってくる。
秘密にしてきた事実をまったく悪びれないばかりか、理屈が合わない申し出とくる。いくらマテオだって譲れない線がある。
「姉さんだって僕たちのやっていることは、簡単に交代が効かないのは解っているはずです。そんなに家へ戻りたくないんですか」
だってだって……、とアイラは瞳を潤ませてくる。
「私の料理で、お父さまを始めとして次々に泡を吹いてぶっ倒れるところを見てしまったら帰れないわよ」
泡を吹いて、という箇所がマテオのツボに嵌まった。ついバタバタ倒れていくさまが頭に浮かべば、噴き出してしまう。忍び笑いが止められない。
当然ながらアイラは弟の反応に気を悪くした。
「なによー、マテオ。笑わなくたっていいじゃない。そう、そうよ。なんで私がここにいるって家に連絡したの、ヒドくない」
「傷心した娘の家出に母上ばかりじゃない、ケヴィン様やサミュエル様がどれほど心配してくださっているか、姉さんだって解るでしょう。安心していただけるよう伝えるは当然です」
うぐぐ、とアイラが声を詰まらせている。
「姉さんは帰ったほういいです」
マテオはアイラへ諦めるよう呼び掛けたが、やはり姉は難しい。
「やーよ、私、絶対に帰らないから。だから、マテオ。居場所を教えてしまった責任を取って、どこか隠れる場所を探して」
さっさと帰れー、と他人になら間違いなく言うところだが、マテオは姉に弱い。勘弁してくださいよ〜、と溢しながらも懸命に頭を巡らせる。だが早々には出てこない。「えっ、ないのー」と文句を垂れられる始末だ。
「僕だって、この街に来たばかりなんですから無茶いわないでください。しかも探しに来る相手がウォーカーの手の者ですよ」
「確かに厄介ね」
胸の前で両腕を組むアイラに、このまま諦めて帰ってくれないかなーとマテオは思う。
そうだ! と腕を解いたアイラが頓狂に叫ぶ。
マテオには悪い予感しかしない。これまで姉の閃きに碌なものがあった試しがない。
今回も例外ではなかった。
「マテオって、ゾンビの子と仲良しになったのよねー」
もしやだったが、その後に続いたアイラの提案は案の定だった。
いくら身を隠したいとしてもである。
ゾンビと一緒でもいいとする姉の神経が解らない。
マテオとアイラの能力は超人的なものだが、所詮は早い移動を可能するだけとも解釈できる。普段はそれこそただの人間でしかない。
マテオにすれば姉のアイラの思考傾向は突拍子もない。昔からそうだが、この頃は頓にため息を吐かさせられるようになった気がしてならなかった。