第4章:逃走ー001ー
勉強、勉強と言われなくなったことはマテオとしては有り難い。
でもだから良しなど出来ない大きな問題の発生である。
姉が、アイラが出奔したらしい。
リモートの画面で涙ぐんで報告してくるソフィーに平静ではいられない。
「母上のせいではありません。どうか気なさらないでください」
ソフィーの自ら濡れた頬を拭うハンカチの手が止まった。
「あら、マテオ。やっとママって呼んでくれたわね」
ぱっと顔を輝かせてくれば、マテオを観念した。今後ソフィーに他人行儀な呼び方はしないでおこう。
何か判明次第に連絡を取り合う旨でソフィーとの会話を終えれば、さっそくだ。マテオはサミュエルへ電話をした。繋がり次第だ。
「サミュエル様、酷いじゃないですか、わかっていたくせに」
ああ、マテオか、と答えるサミュエルは頭をかいている仕草が浮かんでくるような響きであった。
いきなり不躾すぎた、と反省するもののマテオは止まらない。
「僕とサミュエル様だけが知る姉さんのウィークポイントだったじゃないですか」
「でも凄く腕を上げてきたんだぞ。ソフィーも付いていたことだし。張り切っているアイラを見ると、やっぱりな」
「張り切る姉さんなんて、ただのヤバい女ですよ。特に調子に乗ったら、ろくでもないにもほどがある」
「弟よ、けっこう容赦がないな」
サミュエルはそう言うが、マテオからすればである。
毒耐性の体質にしたマテオと優男風ながら頑健そのものの肉体を持つサミュエルを一発で倒す。それがアイラの料理だった。
契機はサミュエルが外出ばかりと諌めてくるアイラへ帰宅したいほどの料理が出来るか訊いたことだった。いつもの半分冗談な提案であった。
姉のアイラは真に受けた。さぞや張り切っただろう、とマテオは想像する。自力でやってみせるなどと、宣言された際は嫌な予感しかしなかった。
アイラはマテオと同様に裏の世界で生きていくよう訓練してきた身だ。
食事とは生存に必要な糧でしかない。楽しむはなく、毒性に慣らす訓練も兼ねてきた。
少々常人とは違った味覚をしている自覚が、マテオにはある。
ところが姉のアイラは自分と比べものにならないほど酷いくせに自覚がなさそうだ。あまつさえ毒耐性にある己れの体質を基準に健康を図る。今回もまた独自性を出そうと張り切って何か混ぜたらしい。食事がすみ次第、健康増進にもなるスパイスを効かせた種明かしをする予定だったそうである。
「どうして姉さんって、ああ余計な真似をしたがるのでしょうね。僕とサミュエル様の件で、すっかり懲りたと思っていましたよ」
「あの時は大変だったな〜。バカ親父がどこぞの暗殺団の手先にやられたと思い込んで、組織の連中を駆り出したくらいだからな。勘違いした親父の姿が見られなくて、ホント残念だった」
サミュエルが愉快そうに述懐するが、実際は相当やばかった。ケヴィンの慌てふためく姿を確認できなかったのは、生死をさまよっていたせいである。マテオと共にこれまでの人生で最も生命の危機に曝された逸話なのである。真実を言いだせなかったアイラが泣いて詫びる頭に手を載せ、三人だけの秘密にしようと言ってくれたサミュエルである。
アイラだけでなくマテオにとっても、心許していい人となった。
立場の違いはあっても、気持ちを取り繕わず話せる相手だからこそ訴えずにいられない。
「サミュエル様だけが頼りだったんですよー。料理に挑む姉さんのヤバさを監視して欲しかったです」
「悪い、悪い。でもな、マテオ。我が家に馴染んだアイラの姿を見れば、ちょっと考えてしまってな。俺やマテオなんかより、ずっとウォーカー家に相応しい生活態度を見たら大丈夫と思いたくなるもんさ」
「だけどサミュエル様は口を付けなかったと母……ソフィー様から聞きましたが」
ははは、と誤魔化し笑いが受話口を通じて響いてくる。
お人が悪い、とマテオは思う。どうせサミュエルはかつて自分が味わった地獄を父ケヴィンにも、とする悪巧みに違いない。ただし今回はやりすぎである。
姉のためにこの生命はあるが、姉のせいで食毒死をさせるわけにはいかない。
ところで、とサミュエルの声がする。はい、と返事すればである。
「そろそろ兄さんでこないか。様付けは、さすがにそろそろ止めてだな」
「あ、はい。そうしようって思ってはいるんですけど……」
「アイラなんて、お兄様って呼んでくるようになったんだ。こっちは呼び捨てでいいって言ったんだけど、家族になったからにはきっちりしたいらしいな。一度言い出したら、もう聞かなくなるからなー」
ですよね、とマテオがしみじみといった口調で返せば、今度は心からの笑いが立った。
サミュエルの笑いを耳にすれば、そろそろ『兄』付けで呼ぶべきだろうと考える。
兄さんに当たる人だから、知らせておくことにした。
現在、マテオが住む部屋の玄関モニターに、姉のアイラが映っていることを。