第1章:ある被検体の記憶【エピソード楓】ー008ー
東の空はすっかり明るくなっていた。
眩い太陽の陽を背に一艘の船が、楓たちがいる海岸へ向かって航走してくる。
「ねー、ホントにあんなので国まで帰る気?」
楓が可笑しそうに訊けば、アーロンは至って真面目に答えた。
「飛行機に乗るよりマシです」
でもさ〜、と楓は承服しかねている。
豪華まではいかなくても客船ならばともかくだ。小型漁船と言っても差し支えない規模である。とても太平洋を横断するなんて、楽な船旅にはなりそうもない。
「ちょっと変わった能力を持つ者がおりまして。楓さんが想像するよりスムーズな帰り道になると思いますよ」
「なんかさ、アーロンのほうも期待が入った言い回しなんだけど」
「さすがは楓さん、御明察です。実は私も快適であって欲しいと願うところなんです」
困った様子を隠さないアーロンと、楓は顔を見合わせた。
込み上げてきた感情を抑えきれず、二人で笑い合った。
「おーい、そろそろ準備はいいかい?」
ひらり、楓の間近にあるテトラポットへ冴闇夕夜が降り立つ。
お願いします、と答えるアーロンが太めの身体を折る。どうか、どうかよろしくお願いします、と繰り返した。
頭を下げる姿に、楓はやはり待ち侘びたい気持ちになる。
確かに先ほど夕夜の口から、アーロンの目的が楓の身柄拘束と知らされはした。
「そうです。私は楓さんを連れていくつもりです。一人になどさせられません」
暴露に対しても怯むことがないアーロンだ。
夕夜は相変わらずの笑みだが、少々苦味を含んだかのように見える。真実に苦笑いしているのかもしれない。
「彼女は今や世界中が垂涎とする成果を体現した身だ。なにせ『不死』を叶えたかもしれない肉体であれば、いずれも解明のため容赦のない行為へ及ぶだろう。それこそモルモットのごとくにね」
「私がそのような真似など許しません」
「そう言うけどさ。ウォーカー一族のトップと従兄弟であり、また組織運営において右腕とされる地位にあるからこそ、その意志を通せるものかな。アーロン、キミが意を唱えても彼女がキミの立場を慮って、自ら被験体として進み出る可能性を否定できるかい」
反駁は上がらなかった。
アーロンの銃を構えた腕が震え、残った手は握り締められている。
さらにトドメとばかり夕夜がその意志を伝えてくる。
「自分は研究施設の処理で赴いた今回だけど、逢魔街で生まれた世界を揺るがすような出来事を外へ出さない使命も帯びているんだ。だから昔宮博士の実験成果を海を渡って持ち出そうと言うならば……」
「どうするって言うの?」
楓の問いに、夕夜の顔から笑みが消えた。初めて見せた表情だ。
「昔宮博士の研究自体を跡形もないまでに消す」
「あたしを消すってこと」
「と、その存在を知る者もだね」
ガチャリ、撃鉄を起こす音がする。
今にも引き金を引きそうなアーロンの手に、楓は青白い手のひらを添えた。
「銃くらいで倒せるような相手じゃないでしょ」
「解ってますが、しかし……」
「あたしは残る、この街に。お父さんとお母さん、伸治と暮らしていた場所だし、ここは」
アーロンはしばし楓の目を見つめた後だった。
ふぅ、と息を吐いては銃を降ろす。
冴闇夕夜、と呼んでは今一度、黒衣の青年へ向き直った。
「楓さんを一人にしないと約束していただけますか」
「それは無理だね。自分は誰かへ特別に干渉する気はないし、彼女の場合は放っておいても野垂れ死しないようであれば尚さらだ」
「まだ年端のいかないお嬢さんが、たった一人で生きていくのです。そこは曲げて、フォロー願いませんか」
「ずいぶん彼女に肩入れするね。それは家族に対する贖罪のつもりかい?」
アーロンは楓から顔を背けながらだ。
「そうです」
「でも、それだけじゃない。だろっ?」
にこりとする夕夜だ。
アーロンは苦虫を噛み潰す表情で、笑みを浮かべた黒衣の青年を睨む。
「なかなか嫌なヤツですね、貴方は」
「それは酷いなぁ〜。いちおう彼女を特別視はしないけれど、その身に害が及ぶようなら手を貸していいと思っているんだけどな」
まったく翻弄されるばかりのアーロンに代わってである。
「あんまりバカにしないでくれる。あたしなら、ちゃんと一人でもやっていけるから。ナニよ、さっきから二人してさ。子供じゃないんだからねー」
威勢よく楓が憤然とぶち上げてくる。
「そんな強がらなくてもいいのに」
笑み混じりで憎まれ口を叩いた夕夜に較べ、アーロンは生真面目な態度で言う。
「さすがです、楓さん。そう、そうです。貴女のそんな姿が私に勇気を与えてくれました」
「アーロンがそう言ってくれるから、あたしも頑張ろうと思えるんだ」
いつの間にか向き合っていた楓とアーロンは互いに微笑を浮かべていた。
「楓さん。今すぐというわけにはいきませんが、逢魔街へ出向となるようにしたいと思っています」
「なに、今度は仕事として来るってこと?」
「はい、楓さんとの間柄を探らせないほど立場ある役職へ就いて、堂々と乗り込む形にします。つくづく私はスパイに向いていないと考える所存なので」
そうだね、と楓が笑いながら返した時だ。
間近に迫る一艘の船影が認められるのであった。