第1章:ある被検体の記憶【エピソード楓】ー007ー
空と海の境界線が、ぼんやり明るくなってきていた。
朝焼けも夕焼けも方角が違うだけで同じものなんて、楓は思っていた。
でも水平線を彩る朝陽は、沈む夕陽とは違う。
海岸縁を埋め尽くすテトラポッドの一つに腰掛け、波の音を耳にすれば久方ぶりに穏やかな気分へなる。
爆発によってぼろぼろになった服を気遣うように白衣をかけてくれた人も横にいる。
「すみませんでした、楓さん」
申し訳なさそうに太めの身体を縮ませたアーロンが目を伏せる。
楓は可笑しそうに元気をもって答えた。
「別に謝る必要なんてないじゃない。あんなヤバいヤツから逃げるには、あれくらいはやらなきゃ無理だって」
「しかし一歩間違えれば楓さんごと吹き飛ばしていたかもしれません。やはり感謝される謂れはないと思われます。それに、嘘も吐いてますから」
ウソ? と返す楓は小首を傾げる。
アーロンは深くうなずいては、ため息を吐くみたいな顔を見せた。
「思考を失った生者を閉じ込めていたあの部屋は、最初から爆破するつもりでいました」
一陣の海風が吹き抜けていく。
現在の楓には冷たいかどうか判らない。想像として、寒いと感じた。
すみません、ともう一度アーロンに言われれば、楓は意識した快活さを向けた。
「あの冴闇っていうヤバいヤツに言われて、あたしもしょうがないかなって思った。まずいよね、ただ生きてるだけならともかく、人を襲うんだから」
「あの研究所で挙げた確実な成果は、考えなしで人間へ向かう者を生み出したことです。そして研究費用捻出のため兵器として売り出しにかけていた。断じて放ってはおけません」
アーロンにしては珍しく口調が強い。もしかして楓の前では、初だったかもしれない。
「うん、そうだね。いつ元へ戻せるようになるか解らないし、そうしている間にも……」
老若男女問わず使い捨ての兵士が量産されるだろう。戦線を指導する者の立場からすれば、勝利に貢献すればいいだけだ。非人道的の誹りなど、後でいくらでも抗弁できるとし、目の前の結果を求めれば使用に躊躇はないだろう。
食人鬼もどきへ変貌した兵士。悪魔のごとき開発をしたのは、自分の父親だ。
身内の所業へ思い至り黙るしかない楓を、アーロンが労わるように語りかける。
「昔宮博士が本来目的としたのは、死なない身体の開発です。ただ目指した過程において、思わぬ副産物が生まれてしまった。でもそれは研究上、よくあることです。それに失敗のみだったとは言えません」
「あたしが成功例だったなんて、言わないでね」
初めてアーロンは言葉を失ったようだ。
テトラポットの頂上に腰掛ける楓は両膝を抱えては顔を埋める。
震える声を海風に乗せた。
「あたし、これからどうすればいいのよ。こんな身体じゃ、人前に出れない。ううん、その前に知られちゃいけない。知られたらきっとまた誰かが、あたしを研究しようとする、被験体にされる。そうならないよう、独りでずっといるしかないじゃない」
「まったくだ。キミの存在を知ったら、世界中が狙ってくるよ」
不意に紛れ込んできた声だった。
はっと楓が顔を上げれば、真横のテトラポットへ舞い降りてくる。
黒衣の青年は研究所で相対しており、冴闇夕夜と名乗っていた。
噂を信じれば、この街の死神である。
出会っただけで、死の報いを受けるそうだ。
ガシャッと装填音が立った。
楓のそばにあるアーロンが右手に握る拳銃を突き出している。
銃口を向けられた黒衣の青年は、にこやかに指摘する。
「おや、銃を持ち込んでいたなんて。この国では所持するだけで違法なんだけどな」
「貴方がたのような能力者もいれば、禁を破ってでも準備は怠れません」
「またぁー。能力者に対処するために用意した武器じゃないだろ、それ。違うかい、アーロン・フェイス・ウォーカー」
「ミドルネームまでご存じとは、すっかり私の正体は知られているようですね」
そうだよ、とおどろおどろしい黒衣の格好とは真逆に爽やかな顔で首肯がしてきた。
楓は思う。
この冴闇夕夜という人物は、にこやかさを崩さない。終始に渡って見せる笑みが心からのものであるはずがない。変わらない表情は貼り付けられた顔と一緒だ。
油断ならないとするのを通り越して不気味でさえある。
にっこりしてくれば、とんでもないことを仕出かしてくるのではないかと身構えた。
楓の予感は当たった。
笑みのまま冴闇夕夜が報せてくる。
「ついでに知っていることを言わせてもらえば、アーロン・フェイス・ウォーカーの目的が昔宮博士が残した最大の研究成果と言われる御息女の身柄確保だったはずだけど。合ってるよね?」
回答を求めて、視線を向ける者は黒衣の青年だけではない。
楓もまた見開いた目でアーロンを見つめた。