第1章:ある被検体の記憶【エピソード楓】ー004ー
逃亡を勧められた。
楓はまず驚き、それから疑う。
罠ではないか。
本気の行動を観察したいか、はたまた逃げようとした事実を糧に今後忖度なく扱える布石としたいのか。
どちらにしろである。
楓は力なく首を横に振った。
「いいよ、もう。あたしはナニされてもしょうがないんだ」
性交がどのような影響をもたらすか。
次の実験内容を告知された際、楓は久々に抵抗の意をぶち上げた。
もういや! と目から溢れてこなくても泣き叫ぶ。
すると、ある一室へ連れて行かれた。
広く無機質な部屋をガラス越しに見渡せた。
食事も排泄も必要ない身体となった楓が、しばらく眺めた後に胃から込み上げてくるような気分にさせられる。
初めは、どうってことのない光景だった。
様々な年齢の人たちがいる。
一様に揃えられた服装から、患者かと当てを付ける。
あまり時間を経ずして、異様に気がついた。
ゆらゆら、いずれも緩慢な動きをしながら、目が死んでいる。だらしくなく口は開けっ放しで、声を出しても言葉は発していなさそうだ。
意志があるとは思えない者たちが取る、唯一の行動があった。
無秩序な動きのなかで、接触が起きた場合である、
お互いにぶつかった相手へ噛みついていく。
喰いちぎれば、むしゃむしゃ食べだす。
父と母が自分の身体を噛み切って咀嚼する姿を楓に甦らせた。
血で塗りたくられた顔が上げられれば、吐き気を催しそうだ。もし不老不死と目されている身体になる前であったら、堪え切れなかっただろう。
気分が悪くなった楓に、連れてきた主任格と思しき研究員が告げる。
まずはあの者たちのいずれかが相手になる、と。
楓は返事しなかった、というより出来なかった。代わりにこれ以上ないくらい顔は悲痛で歪んだ。
けれど冷徹な説明の続きはさらに為された。
「彼らは皆、昔宮博士の指示よって生み出された結果だ。キミの父上のせいなんだよ」
それを聞いてどんな反応を示したか、楓に記憶はない。
ただ部屋に戻ってからしばらくして「お父さん……」と呟きはした。
もう全てを諦めた瞬間だった。
ところがやってきた太めの職員がひっくり返そうとしてくる。
逃げろ、と来ただけではない。
楓が拒否したらである。
「いけませんね。子供が明日を見なくて、どうします」
などと説教じみたこと言ってくる。
子供といった部分が、楓の目を逆立てた。
「なによ、まるで人間みたいな言い方しちゃってさ。あたし、化け物なんでしょ。あんたたちがそう言ってたじゃない」
「私は言ってませんよ」
しれっと述べてくるから、楓は余計に腹が立つ。
「おんなじ研究しておきながら、よく言うわ。あんただって、一緒よ。実験、実験なんでしょ。結果のためならどんなことだって出来るんでしょ。あたしのお父さんみたいに……」
楓の目に、ただただ生きているだけの失敗サンプルとされた人たちの姿が浮かぶ。
何十と知れない数のうち、楓より年下とする者も多数あった。
あんなの酷い、あんな酷いことをお父さんが……。
すみません、と太めの職員がなぜか謝ってきた。
「私は、こう見えてもスパイなんです」
楓は反応するまで、やや時間がかかってしまう。
突拍子もなかったし、ジョークかもと考えた。ようやく一言、口から吐いて出た。
「……ウソでしょ」
「やはりスパイなら、見た目もスマートで格好良くないといけなさそうですね。でも私は生まれつきのデブであるせいかダイエットごときでは体型改造もままならない。悩ましい限りなのです」
「ちょ、ちょっと、待って、待っててば。あんたの見た目が問題じゃないの」
どこかピントのずれた相手に、楓は続ける。
「なぜ助けようとするのか、意味が解らないの。だって、あたしは……あんな酷いことをした人間の娘だよ。なんかされてもしょうがないじゃない……」
「それは違いますね。親の罪科を子が背負うとしたら、世の大半の未成年者は払わなければならなくなりますよ」
「でも、あたしのお父さんがしたことは……」
「特別なことではありません。あれだけの非道を行う者は数多くいます。例えば戦闘を画策し実行へ移すため兵を動員する者などと較べれば、数的にも規模的にもまだまだかわいいものです」
そう言われても納得までいかない楓はうつむく。
だけど空気を全く読まない太めの職員である。
「さて、では行きましょうか」
逃げることを決定とした意志は言葉だけでなく行動でも示された。
楓の青白い手を体格通りの太い指がつかむ。
もはや屍人同様の身体に体温はない。冷たく、未だ得体の知れない肉体だ。
楓を触る際に手袋は必須とされてきた。直になどあり得ない。
太めの職員は、あっさり素手で取る。
伝わってくるものなどないはずなのに、楓は掴まれた手に暖かさを感じた。
どうせと自棄になっていた。ならば目前にいる相手へぶつけようと決意した。
手を引かれた楓は立ち上がりざまに訊く。
「名前。名前が都合悪ければ、呼び名を教えてくれる」
「そうですね。ではファーストネームの『アーロン』でお呼びください」
「そんな紹介だと、あたし、呼び捨てるわよ」
「ええ、望むところです。私のほうは『楓さん』と呼ばせていただきますか」
自分のほうが丁寧に呼ばれるなんて居心地悪さを感じる楓は、自分らしさを取り戻しつつあった。化け物とされる身体になって以来、初めて訪れた気分だった。
楓が呼び名について検討の申し出をしようとした矢先である。
近づいてくる複数の足音を耳にした。
急ぎましょう、とアーロンが手を取ったまま駆け出す。
爆発音も加われば、楓が口を動かす暇などなかった。