第10章:飛ぶー002ー
巨鬼の陽乃は夕夜を踏みつけ続けている。
もはや無事とは考え難い。
それでも莉音は向かおうとする。
行きかける腕を取ったのは冷鵞だ。
「やめろ、危険すぎる。巻き込まれるだけだ」
「離してよ。このまま何もしないなんて、私、私……」
「おい、莉音。陽乃がなったという、あれ。今、やべー状態だし、敵うとしたら夕夜しかいねーんだ。俺たちじゃ、どうにもならねーよ」
諦めた口調で緋人も割り込んでくる。
次の瞬間、当人の冷鵞や緋人だけでなく、マテオでさえたじろいだ。
強気の塊みたいな莉音が瞳を潤ませる。頬に涙を伝わせていた。
「夕夜に気持ちがなくたって、私はフィアンセなんだから。ずっとずっと一緒にいると思っていた夕夜がいなくなるなんて、そんなのイヤ」
マテオからすれば、いい大人が駄々をこねている様相だ。
だけど心を揺さぶられるには充分だ。
お姉さん、と声をかけた。
ん? といった感じで莉音が涙顔を向けてくる。
「これから、僕。チカラを使って、冴闇のヤツをこっちへ連れてきます」
えっ? とした表情をしたのは莉音だけでない。周囲にいる者たち、全員だ。
「だけど今の僕は、そこの人にやられたせいで能力を発現し続けられません。でも何とかこっちまでは連れてきます。それから後のフォローは、よろしくお願いします」
口を開きかけた莉音は、まず手で目元の涙を拭った。
「あんた……じゃないわね、マテオ。お願いしていい? ここまで連れて来てくれれば、後は私が命を賭けて時間稼ぎする」
「おいおい、莉音。なに勝手に話し、決めてんだよ」
おらおら調で緋人がくれば、すっかり普段へ戻った莉音だ。
「いいじゃない。私は夕夜を助けるって決めたから」
「よくねーよ。夕夜を助けるために莉音が危なくなる話しなんて、俺らがいいなんてするわけねーだろ。な、冷鵞っ」
「ああ、マテオに連れて来たもらった夕夜を莉音が運ぶんだ。鬼相手の時間稼ぎは俺たちでする」
涼やかな目元を珍しく緩ませた冷鵞である。
しょうがないですね、と新冶が近付いてきた。
「緋人や冷鵞と共に、私も鬼を迎え撃ちましょう。けれどもその前に、マテオと莉音には条件を出したい」
「なんでしょうか、おっさん」
「今さらナニよ、新冶。ジジィーの小言みたいなのはやめてよね」
渋い表情になった新冶だが、威厳を失わないようきちんとした態度は保っていた。
「マテオと莉音には年長者に対する敬意というものを抱いていただきたい。おっさんだの、ジジィなど、そう言った呼び方を今後はしないと約束していただけるならば、私は全力をもって緋人と冷鵞に協力するでしょう」
そそっと莉音がマテオに近づいては耳打ちする。
「笑っちゃダメよ」
「ダメですか」
「あれはあれで使い所いいから、ここはご機嫌を損ねちゃもったいないじゃない」
酷いなぁ〜とさらに笑いたくなったマテオだが、ここは素直に従った。内心を押し殺す意味でも、必要以上に畏まって返す。
「了解いたしました、おっさん……じゃない、新冶さん。僕たちで、冴闇の救出を果たしましょう」
満足気に頷く新冶に、ホントだと思わず微笑してしまいそうなマテオである。もっとも気持ちを緩められたのは、意外に根が単純なおっさんの覚悟が吐いて出てくるまでだ。
「では、マテオ。夕夜さんを助けたら、病院の方もできるだけでいいですからお願いします。喰い止めには命果てるまでやります。どれだけの時間が稼げるか、解りませんが」
「別に死ぬまでやらなくてもいいじゃありませんか。適当なところで離脱すべきですよ」
「そーよー。確かに私たち、頑張らなきゃいけない立場だけどさ。そこまではねー。でしょー、緋人、冷鵞ー」
マテオに続く莉音の冗談でしょうと言わんばかりの表情が同意を求めた瞬間に凍りつく。
「うそ、ウソでしょう。まさか二人も新冶と同じ気持ちだなんて言わないわよね」
「わりぃー。俺も命懸けでいくつもりなんだわ」
「俺たち程度の能力では、命を捨てる覚悟くらいで臨まないと時間稼ぎにもならないと考えている」
緋人と冷鵞の覚悟に、莉音の目が大きく広がっていく。
「なら、私も一緒に……」
「そら、ダメだ。危ないところに莉音がいたら集中できねーじゃねーか」
そう言っては、あっはっはっと笑う緋人に、「そんな……」となる莉音の肩をポンっと冷鵞が軽く叩いた。
「例え圧倒されようとも、鬼の進撃を止めるくらいの手傷は負わせたいと思っている。だけど成功は祁邑陽乃に下手すれば致命傷を与えてしまうかもしれない。そうなったら今後も含めて夕夜を、頼んだぞ」
「……それ、本気で言ってる?」
震え出しそうな瞳で訊く莉音に、緋人は明るく、冷鵞は普段の調子で答える。
「本気、本気。莉音もそうだけど、夕夜のヤローだって、けっこう大事に思っているんだぜ」
「夕夜がいれば、莉音が無茶しないだろうとする計算もあるが」
そこへ新冶の声が飛んでくる。
「さぁ、時間はありません。マテオ、緋人、冷鵞、行きますよ」
足踏みを繰り返す巨鬼へ向かいかけた背中にだった。
緋人! 冷鵞! と二人の名を莉音が叫ぶ。
呼ばれた二人が振り返った。
「二人とも、私のこと、好きなのよねー」
緋人と冷鵞は一旦顔を見合わせてからだ。
「この前、言っただろう」「確認されるまでもないことだ」
「だったらー、決着つけてよー。誰が私の旦那さまになるかさー」
恋人どころじゃない話しだな、と冷鵞が呟く。
いきなり旦那かよ、と緋人が言う。
セリフは様々なれど笑みが漂う二人の男が巡る女の目に光るものを認めれば表情が改まった。
緋人と冷鵞が再び顔を見合わせれば、ふっと以心伝心の意志を確かめて莉音へ向く。
「らしくねーぞ、決めるのは莉音だろ」
「俺たちじゃない、いつも莉音が決めていたはずだ。それはこれからも、ずっとだ」
そう言った緋人と冷鵞の二人は、くるり背中を向けた。
もう振り返りはしなかった。