第9章:逢魔街の大厄災日ー007ー
いきなりの急制動にはつんのめった。
マテオも道輝も頭をぶつけそうになったくらいである。
「センセイ。なんだよ、急に」
マテオの文句にも反応せず瑚華はステアリングを握ったまま前方を見据えている。さすがに尋常でない様子が傍目からも伝わってくる。
瑚華殿、と道輝が呼びかければ応答はあった。
「もう一度、作戦を練り直しましょう。ちょっと急ぎすぎたわね」
快活に返してくるものの、前を向いたまま目を合わせない運転手だ。
後部座席にあるマテオは思わず立ち上がる。
「センセイ。どうしたんですか、そんな時間ないですよ!」
「でもアナタたちを危険に曝していいわけではないわ。もっと何かいい方法がある……」
瑚華殿! と遮る道輝だ。
「解っておるはず。このままでは鬼となった陽乃殿が病院へ至るまで、そう時はかからぬでしょう。ここで引き返しては多くの動けない者たちが犠牲になりますぞ」
「それにあの陽乃さんが意識がなくても自分の手でたくさんの犠牲者を出していたなんてなったら、耐えられるわけないじゃないですか」
マテオも必死に説得へかかった。
それでも瑚華はステアリングを握ったままだ。「でも……」とおよそ普段からは想像し難い、ぐずぐずぶりである。
瑚華殿っ、と道輝が再び呼ぶ名は前より力強い。
「私は瑚華殿を勧誘するため通っているうちに、病に打ち勝とうと必死な人々を多く目にしました。このまま陽乃殿の進行を許せば、あの方々が間に合わなくなりますぞ。例え止められなくも時間稼ぎくらいはしなければなりませぬ」
「だからイヤだって言ってるの!」
マテオが驚く瑚華の激昂だ。
なぜか道輝が柔らかい笑みを口許に湛えた。
「そんな瑚華殿に、この道輝、むしろ意が固まりました。瑚華殿が救おうとしている生命をここで失うわけにはいきませぬ」
「勝手なこと、言わないでよ。あんたがいなくなるのはイヤだって解らないの!」
「瑚華殿。全ては叶いません。どちらか選ばなければならない時なのです」
ならっ、と瑚華が横を向いて身を乗り出す。
ここは私がやらねばなりませぬ、と泰然に答える道輝だ。
センセイ、とマテオが呼ぶ。
「僕、道輝さんを抱えていこうと思います。今回の作戦において、最後までタッグでいきたいな、と」
「それはなりませぬな、マテオ殿。事の遂行において情は無用ですぞ」
言葉を向けた相手に代わって応えた道輝に、ふっとマテオは軽く笑う。
「いえいえ、麻酔弾を陽乃さんの口に放り込むまで、道輝さんを同行させたほうが成功の確率が上がりそうじゃありませんか」
「わかりました、マテオ殿。ならば撃ち込んだ後は、どうかこの道輝に構わず離脱していただきたく……」
「たぶんですけど離脱時においては、ちょっと僕の身体は能力発現に厳しめへなるかもしれないです。だから作戦成功! だけど陽乃さんに最後のひと暴れされたら、どうにもならなくなるかもなので、そこは了解してください」
「つまりマテオ殿と私は最後まで一蓮托生というわけですな」
はい、とマテオが気持ちいい返事をすれば、「よろしくですぞ」と晴れやかな道輝だ。
瑚華だけが承服からは程遠い。
「あんたたち勝手に話しをまとめないでよ。麻痺弾が効き目あるって言ったって、すぐその場じゃないの。撃ち込んだ直後には、絶対に攻撃されるわよ。そう絶対にっ」
「でも、センセイ。絶対にやられるとは限らないじゃないですか。僕がよろよろでも、もしかして道輝さんのおかげで助かるような感じになるかもしれない」
「そうですぞ、瑚華殿。一人ではなく二人で向かうことで、無事に済むかもしれない可能性も増えましたしな」
ステアリングを握り締めた瑚華に発進させる様子はない。
ふぅー、と息を吐いた道輝が後部座席へ顔を向ける。
「では、マテオ殿。ここから私と二人で行きますぞ。瞬速の能力を発現させるタイミングはお任せします」
わかりました、とマテオが返した。
あーもぉー、と瑚華がステアリングから離した両手を降参とばかり上げた。
「あんたたち、変なところで息を合わせないでくれる。わかった、わかったわよー。だから車に、もうしばらく乗ってなさい。なるべく身体に無理させない位置まで運ぶから」
「センセイなら、そう言ってくれると思ってましたー」
「すみませぬな、瑚華殿」
調子のいいマテオと、改めて頭を下げた道輝だ。
仕方なしの瑚華が腕を伸ばす。助手席に座る墨色の裳付姿の胸ぐらを掴んでは、後部座席へ視線を向けた。
「いーい。無茶してでも生き残りなさい。どんなになっても生きてさえいれば、このスーパードクターが何とかしてあげる」
「了解です、センセイ。約束までは出来ないですけど」
「約束しなさいよ。いくらスーパードクターだって、死なれたらどうにもならないんだから」
ムチャ言うなぁ〜、とマテオが肩を竦める。
道輝は嬉しそうに胸ぐらを掴む横顔を見つめた。
「そんな瑚華殿だからこそ、この道輝、命も厭わずいけますぞ。瑚華殿だけではない、瑚華殿が守る人たちもこの生命を賭けて守りたいです」
「だーかーらー、死ぬなって言ってんの。この坊主は、まったくー。魔法使いのまま、逝こうとしてんじゃないわよ」
瑚華のセリフに、はて? とマテオが立てた人差し指をこめかみに当てた。
「あれ、道輝さんって能力者でなくて魔法使いなんですか?」
無邪気な質問に、慌てる道輝と、にやりの瑚華だ。
「ち、ち、違いますぞ。これは、そのぉ、拙僧が修行の身ゆえに禁欲な生活を送ってきてましてな」
「要は、いいオッサンの歳なくせにまだ男でないってことよ。マテオにはまだ難しい話しかもしれないけどねー」
やたら愉しそうな口振りのおかげで、マテオは当てが付けられた。
そう言えば当初、瑚華と道輝の間で艶っぽい会話が交わされていたのを思い出す。
いい歳のオッさんである道輝が真っ赤っかで「やめてくだされ」と抗議している。
私が相手してやるって言ってんだから、さっさとすればー。それが瑚華の言い分だ。
この二人を見遣るマテオは帰って来ようとする想いをさらに強くしていた。
これから死地へ向かう寸前に、ぽっと生まれた暖かい空気だった。
いきなりだった。
ジープに乗車するマテオたちへ、巨大な影が覆った。




