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アレーナ  作者: かのこ
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「すまんな。こんなことになって」

「いいえ」

 マルケラを帰すのに、家内奴隷をつけただけでは心もとないと思ったのは確かだ。アントニアだって異父姉を案じて、自分のことどころではないだろう。

「良ければ今度、俺がアントニアを連れて伺うが。お二人もわかっていらっしゃるから、形式ばらんでもいいのなら、そこでお主から話を切り出してもいいと思う」

「はい」

 今日だって、両親に自分たちから意思を伝えたかったからで、ユルスにアウグストゥスと仰々しいやりとりをして欲しいわけではなかった。

「まったくお主は出来すぎだな。若いのに堪え性があるというか、がっついてないというか」

 ユルスが感心したように言った。昔から人には勝手にそう思われていて、たまに自分を神格化する気か、と頭にくることがある。

「別に僕は――」

 言うべきなのかな。いいか。うまく説明できる自信もない。

 あせってはいない。アントニアは自分のものだからだ。彼女は同意してくれているし、自惚れていないとしたら、ちゃんと愛されている。

 急に彼女が心変わりをしたとしても、問題はない。周囲は自分の味方だし、最終的には義父がどうにかしてくれる。その程度のことはわかっているから、強行的な行動をする理由がない。性急に馬鹿なことをして、ことあるごとに掘り返されるような、みっともないこともしたくない。

 それに別に、自分がアントニアを幸せにしたいから、その自信があるから、彼女と結婚したいと言ってるわけじゃない。もちろん努力はする。最大限のことはする。

 それでも完璧ではない部分は出てくるだろう。自分たちの仲を大人たちは「若いから」「今のうちだけ」と見ているだろうけれど、それくらいのことはわかっている。完璧であり続けるなんて、不可能だ。

 だけど。――ここからが説明しにくいのだ。


 もしも彼女が他の男に嫁いだとしたら。彼女の愛情でも、事実でもなく、何よりも彼女に関する権利が自分にないことが、許せなくなると思う。

 自分以外の誰かが彼女を不幸にしているかも知れない、と心配し続けるくらいなら、自分が不幸にした方がまだ気がすむ。する気はないけど夫が浮気をしたとか、つまらないことで彼女を侮辱したとか。彼女をそういう目にあわせる男がいるとするなら、それは自分であるべきだと思う。

 アントニアが彼女の母親のように、いつか寡婦になるのなら、彼女が失って涙を流す夫は、自分であるべきだ。自分が別の女と結婚する人生をおくっていたとしても、アントニアを一人残して死去するような男を恨むだろう。

 伯母が未亡人になって以後も、あの「最低男の元妻」という肩書きを背負い続けるのを見ると、アントニアにはそんな結婚なんてさせたくないと思う。生きている限り、どこにいても誰と結婚しても、彼女を案じ、思い続けるだろう。

 自分にとってアントニアとは、そういう女なのだ。今だって、彼女を困らせているのが兄だろうがなんだろうが、ユルスであることに納得がいかない。それが自分でないことが、全く不愉快だ。


 そういうことを、説明するのは難しい。周囲からいい子だとか言われ続けると、自分でもそうかなと勘違いしてしまいそうだけれど。条件が揃わないから特に誰かと反目することがないだけであって、状況によっては親も兄弟も巻き込んで、やらかしていた可能性だってある。

 と、ユルスに言ったところで、ひかれてしまうだろう……。ユルスが慌てて反対しだしたとしても、今さら遅いからどちらでも構わないけど。

 ユルスのことは好きだし、彼が異母妹の幸せを考えていて、その上で自分を認めてくれているから、信用に応えようと思う。

 けれど彼がアントニアの件を含めて自分に不利な決断をしていたなら、当然友好的ではなかったろうし、今後も自分とアントニアとクラウディウスにとって邪魔になるのなら、相応の対応はするはずだ。ユルス・アントニウスの人柄がいいとか昔馴染みだからとか、義兄になるから、信頼するのではない。今のところは、一応無害だからだ。

 まあそれはユルスにとっても同じことだろうけれど。



 彼女が早く自分のものになればいいのに。けれど誰にも責められず、誰もが納得するような形でなくてはいけない。あからさまな政略結婚ではなく、アントニアに「どうせアントニウスの娘だから」と肩身の狭い思いをさせるのでもなく。

 もしも彼女の父親が生きていたら、こんなに悠長に構えてはいなかったかも知れない。小アントニアはとっくに政略結婚の犠牲になっていたことだろう。

 自分が、実父から母を奪い取った義父を恨めないのは、彼の行動力に惹かれるものがあるからだ。もしもアントニアがよそへ嫁がされていても、気に入らなければ自分だって今頃は、略奪でも何でも考えていたかも知れない。それしか手段がないのなら、今こだわっている無駄な我慢だってしない。義父と同じことをしただろう。幸い、そういうこととは無縁で平穏な人生をおくれそうだけれど。

 義父だって母と出会わなければ、あんなに激しい一面がある男だと、本人だって知らないままだったかも知れない。常識だの世間体だの、そういうことで彼を非難できる人間は、ある意味幸せで、ある意味不幸だと思う。致命的な出逢いをした人間にしかわからないことだ。

 ……ま、そういう、ちょっと尊大なことを頭の中で考えてはいても、実際にアントニアを眼の前にすると、挙動不審で情けない男になっていたりするのは、やっぱり「いい子」でしかない証拠なのかも知れないけれど……。


「それと、ティベリウスには礼を。助かった」

 珍しく、ユルスが兄を認めた。どういうわけか、彼らは昔からそりが合わない。昔から優等生すぎた兄に、ユルスは苦手意識があるのだろう。兄も兄でユルスを見下すものだから修正がきかない。

 進路を決める度に、アウグストゥスの命令に対して「興味ないし、面倒だから嫌です」とお約束のやり取りをしては、アウグストゥスに笑いながら首根っこをつかまれて放り込まれる……という印象のユルスと、無言で指示に従う兄だが、明らかに義父が話していて楽しそうなのは、義理の甥で敵対者の息子であるユルスなのだ。……ちょっと弟として複雑なのだけれど。

 「……はい」



 帰りのローマ市内(ポメリウム)への馬車の中、少し憂鬱になった。

 兄は危機を察してああいう行動をしたわけではない。本来なら女の諍いなど、無視しているだろう。単純に、あの場にいたくはなくて席を立ったのだ。

「母がわが子を思うのは当たり前だ」と言ったマルケラの言葉が、兄には不愉快だったのだろうなと思う。

 いつまで幼い子供のように、拗ねているつもりなのだろう。兄の頑なさを思うと、泣きたくなる。

 兄さん。

 母上の手に、古い火傷の痕が残っているの、気づいてる? あれは内乱の逃避行時に火の手があがって、兄さんを必死に守っていた時に出来たものなんだよ。

 

 それから、アントニアのことを考えた。彼女にはああいう思いは――マルケラや、ユリアのような辛い思いはさせたくない。離婚も再婚も、今の世の中では珍しくもないことだ。もっと彼女たちは堂々としているべきだと思うけれど。

 何があっても自分はアントニアを守ろう。彼女だけは。今の平和がいつまで続くかは、この先、義父の政治がどれだけ通用するかにかかっていて、だからこそ今、自分は彼の将軍になるための経験を積もうとしている。

 いつまた内乱が起こるかはわからない。だとしても、彼女だけは守り続けよう。大げさだけれど、たとえローマを敵に回しても。



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