宗教の意義
現代社会における「救済」について。鼻につく人は御遠慮ください。
皆様はどんな宗教を信仰していらっしゃるだろうか。浄土真宗だったり、日蓮宗だったり神道だったり或いはクリスチャンであったりするであろう。でも、これだけ科学万能主義の現代にあって、人々が一つ或いは複数の宗教を信仰しているのは、どんな訳であろうか。
私自身は浄土真宗であるが、実は若い頃、特に高校・大学時代は典型的な無神論者であった。「形の無い、存在も感知出来ない神を信じるなんて馬鹿げてる」等とつい罰当たりな考え方をしていた。
でも、大人になり就職・離職・試験の失敗等挫折を繰り返す事で分かって来た事がある。人間には何か支えになるものが必要なのだ。昔は受験勉強を頑張ってきたようにひたすら知識だけを得れば世の中を渡り歩いて生きていけると本気で信じていた。でも、やがてそれは間違いだと気づいた。コミュニティ内での嫉妬、部署内での派閥意識、正規労働者の派遣社員に対する差別、金儲けしか考えない上層部との軋轢等、知識では全く現実問題に対処出来ない事を痛感したのである。こうした私の経験は、自分の無力さを痛感すると同様に、以前は信じていなかった宗教に傾倒するようになっていった。神社や寺院を訪ねたり、パワースポットに行ってみたりするようになった。肉体的に影響があったかは知らないが、少なくとも精神的には楽になった。そこで実感したのは、宗教というのは、これまで考えていた死後の救済では無く、現世での救済であるという事である。人は弱い存在である。困難や不安なると簡単に押し潰される。それからから自分を防御する為には、精神的な拠り所が必要なのだ。
外の世界でも、現実社会に絶望したエリート達が宗教にのめり込んでいった。それは救済を求めるための行動であったろうが、時に凄惨な事件を起こしもした。その際たる例が、オウム真理教事件であろう。彼らは優秀な科学者であったが、そんな彼等にでさえ上には上がいるものであり、現実社会に大きな挫折感を味わっていたのであろう。そんな彼等の前に現れた麻原彰晃は自分の話を真面目に聞いてくれるまさに救世主のような存在であったに違いない。彼等は言われるがままに化学兵器を製造し、大量殺人を行った。これは宗教の負の面である。
絶望に抗い、残酷で不自由な世界で生きていくためには、信じるに値する何かが必要である。その為には具象化された''神''が必要だった。人間はその信仰によってまとまり、''社会''を作り上げた。宗教と社会生活は昔も今も切っても切り離せない関係にある。だが、一方では、宗教は時に対立の要因になる。それは概ね他宗教に対する無理解から始まる。特に他宗教に対する不寛容さは紛争の大きな要因になる。結局、信仰はあくまで内面的な救済であり、無批判に信仰すべきものではなく、まして他人に強制すべきものでもない。現代社会における宗教とは、他者とのコミュニケーションツールとして存在しており、各コミュニティ内において助け合いをすべきものではないだろうか。