第九十七章 光の奪還
第九十七章 光の奪還
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目が覚めたとき、スーが混乱したのは言うまでもない。
耳は水音を拾い、鼻は潮の匂いを嗅ぐ。肌はざらりとした独特の風を感じ、喉は異様に乾いていた。
起き上がって全貌をながめる。驚きは頂点を極め、混乱はさらに増した。スーの目は、青緑の大きな海を映していたのだから。
自分が海の上、船の上であると認識できると、今度はなつかしさを感じ取れた。
まさか、と半信半疑に思いながら、自分の直感がまちがっていないことを悟る。
背後に人の気配を感じ、ふり返る。そこには目を見開いた人物がいた。
「兄さま!」
周りなど見えていなかった。スーはただただまっすぐに大好きな存在へと向かって走り出し身を投げた。
離れたくなくて、半面夢ではないかと疑う自分がいて、スーは彼に抱きつく腕に力を込めた。
こんなにはやく再会するなどだれが思っただろうか。
けれど彼は、スーのそんな不安など吹き飛ばすように柔らかく笑うのだ。安堵に包まれる、やさしい笑みを浮かべてくれるのだ。
大きな手が落ち着かせるように背をなでてくれた瞬間、スーは心からほっとして、同時にすべてが大丈夫だと思えた。
理由などないのに。不安など抱えるほうがまちがっていると、そんな気がしたのだ。
そして結局は、その呑気ともいえる漠然とした考えがまちがいではないと確信できる。
――彼は、カスパルニアの第一王子。フィリップ王子、その人なのだから。
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それは三日前の出来事だったとフィリップ――ウィルは語る。
ドロテアのお腹も大きくなってきて、赤子が元気に腹を蹴るなどの反応を見せはじめていたころだ。一通の手紙が届けられたのだ。
『赤毛の少女を助けられたし』
そんな内容の書かれた手紙をたずさえていたのは、一匹の小猿だった。
それだけでドロテアはすべて理解したようで、ウィルも了承しすぐに極寒の海に出た――。
つまり。ティティが届けた手紙はデジルからで、『自分は動けない。だからスーに手をかしてやってくれ』という内容。ウィルが探りを入れたところ、カスパルニアは周辺の国と険悪な雰囲気になりつつある。すぐさま戦の匂いを嗅ぎつけた彼は、とある国に確実な情報と援助を申請するため向かったのである。
スーはそれを聞いたとき、一度にいろんな感情に呑まれた。
デジルが生きているという喜び。ドロテアやウィルはこどもが生まれそうな大事な時期なのに動いてくれた。
ウィルは大切な弟や妹のためなのだから当たり前だという。それでも、うれしかった。
迷惑はかけられないと思っていたのに。まさかの再会に心がいまだついていけないけれど。
ただ、うれしくて、同時にいいようのない安堵感に包まれた。
ウィル率いる海賊の精鋭部隊と自称する活気あふるる少人数の若者たちで航海し三日目、ことは起こった。ドン、という小さくはない音が船体を揺らしたかと思えば、すぐにしんと海は静まり返った。様子を見に甲板へ出たところで――ウィルはスーを発見したわけである。
驚きはしたものの、ウィルには受け入れ態勢ができていたようだ。曰く、「ドクターの気配がした」らしい。そういえば、レオも以前同じようなことをぼやいていた気がする。ヌイストから『治療』や『魔術』を施された者はすくなくともなにかしら影響を受けるのかもしれない。
スーも意識を失う前のことを思い出す。最後に目の前にいたのがヌイストだ。ともすれば、スーをウィルの海賊船へよこしたのも彼なのだろう。
こんな摩訶不思議なこと、ふつうならば信じられない。相手がドクター、魔術師と呼ばれるヌイストでなければ、信じられるはずがない出来事なのだから。
船員たちが突然のスーの登場に、次々に目を丸くして仰天しているなか、ウィルの紳士的なエスコートを受けて船長室へと案内された。以前と変わらずあたたかな色合いのある、『フィリップらしい』部屋だ。
陽気さが取り柄の大柄な男――カインがウィルから事情を簡単に聞き、それを甲板へ集めた他の船員へ説明しはじめたころ、スーはやっと落ち着いた。ウィルを見て安堵したものの、どこかまだ頭が混乱していたのだが、ココアを出され数口飲むうちにようやっと冷静さを取り戻す。
「なにがあったか、聞いてもいい?」
こんなときでも取り乱すことなく、スーが落ち着くの待って話を聞き出そうとしてくれるウィルの小さな心遣いに感嘆しつつ、スーは頷いた。
甲板ではカインがなにやら声をあげているのがかすかに聞こえるが、それも雑音として遮断する。部屋ではふたりきり。久々のそれにわずかに緊張しつつ、スーは今までの出来事をなるべく詳細に説明した。
アルがベルバーニから婚約者を迎えたこと、城を追われたこと、城下町での再会や出来事、ユリウスのこと、イライジャのこと、薬草学のこと、ヌイストからの記憶のこと、舞踏会のこと……その夜に起こった悲劇――。
それから決意したこと。アルの隣にいたい。
ベルバーニへユリウスとともに向かったこと。その後の、ヌイストとの出来事。
ヌイストからみせられたアルの記憶に関しては、勝手に話すことは憚られたため、『記憶』ではなく『出来事』として事件を述べてみた。なんとか今までの全貌を語りつくしたスーは、知らぬうちに喉がからからに干からびていた。
あわてて口に含んだココアの熱は冷めている。
「スー」
しばらく沈黙を守ったあとで、ウィルの手がふいに頭にのっかる。
「アルーのそばに、いようとしてくれたんだね」
ありがとう、という言葉とともにウィルの匂いに包まれた。彼の服の裾をぎゅっとつかみ、ふるふると頭を振る。
ちがう、と思った。「ありがとう」と言われることはしていない。
だってウィルに頼まれたからアルのそばにいるわけじゃない。自分から求めたんだ。
まだ確固たる、形ある希みではないかもしれないけれど、でも、自分自身で決めたのだ。
口をひらけば嗚咽がもれそうで、ただ頭を振って否定することに心血を注いだスーであったが、察しのよいウィルにはすべてお見通しなのか、軽い笑い声をたてる。
「ごめん、そうだね。スーは、自分でそばにいたいと思ったんだものね」
大きな手が、赤毛をすいた。
「でもうれしかったんだ」
今度は、スーもこくりと頷いた。ウィルの気持ちもわかるような気がしたから。
苦労性で、だれよりも他人を考える彼は、やっぱり弟が気がかりだったんだろう。大切な大切な、家族なのだから。
「兄さまは、どこへ向かっているの?」
今のところ、スーには行動手段がない。どうにかするにも、ユリウスの無事もたしかめたい。
とりあえずの行き先を尋ねれば、ウィルは険しい顔をしながらも、自身の考えを聞かせてくれた。
「行き先は、シラヴィンド」
「シラヴィンド?」
知らないか、と問われ、スーは素直に頷く。
「つい最近まで、争いの絶えない国だとされていたんだ。カスパルニアでは蛮族の国だと差別的に見る者もいるんだけど……」
「兄さまはそうは思わないのね?」
ああ、とウィルは柔く笑みを見せる。
「彼国はレオの庭といってもいいかもしれないね。ある意味、正しいな」
くすりと苦笑まじりに話す彼に、スーはぴんときた。
レオとはじめて出会ったとき、たしか『砂漠から旅をしてきた』と言っていたことを思い出す。それに記憶が正しければ、ウィルとレオの出会いも砂漠の国だったはずだ。
ほとんどひらめきに近く、衝動的に「砂漠の国?」と口にすれば、それは正解だったようだ。ウィルはすこし目を見開いてから、頷く。
「そのとおり。よくわかったね」
砂漠の国は、ある意味未開拓の地だ。カスパルニアは蛮族の国として見向きもしなかったから、いまだどのような体制で人々が暮らしているのかわかっていない。けれどそれは他国とて同じだろう。
他の国から浸食されていない、未知の国。野蛮な国とされるが、真実はあまり知られていない。
レオと繋がりがある国らしいが、メディルサと繋がりがあるわけではない。よってウィルはシラヴィンドへ目をつけたのだ。
「でも……でも、兄さま。カスパルニアは砂漠の国へ出兵したって……」
イライジャから聞いた話を思い出し不安に問えば、杞憂だとばかりにウィルが目を細める。彼にしてはめずらしい、せせら笑いだった。
「聞けばオーウェンとかいう新しい大臣が張り切っているらしいよ。砂漠の野蛮な国の民を従わせてやろうと躍起になっている、とか……」
スーも嫌悪に顔をしかめる。なにより、柔らかい笑みが常な兄から嗤笑を買った大臣の株は大暴落である。もともと最低下だったのがさらに落ちただけなのだか。
「噂では王子から直々に許可が出たと鼻高々らしいよ。……まったく、アルーの本意もくみ取れない馬鹿が」
ぼそりとこぼした後半の言葉とともに、ウィルの拳がきつく握り締められる。彼の背後から見えぬはずの黒々とした毒々しいオーラがあふれ出ているような気がする。
スーは悟る……オーウェンに明るい未来はないと。なぜなら、彼は決して怒らせてはならぬ人の逆鱗に触れたのだから。
結局、スーはウィルとともに砂漠の国・シラヴィンドの国境を超えることにした。
スーが「わたしも一緒に行きたい!」と意気込めば、ウィルは意表を衝かれたように目を見開いたあとで、「うん」と目を細めて笑い、頭をかき撫でてくれた。
そうしてユリウスのもとには手紙を携えた『レオン』が飛ばされることとなり、スーは自分の無事とこれから味方とともに動くつもりだということを匂わせる文章を頭をひねって書き切った。青い鳥・レオンはとても優秀な伝書鳥である。
ウィル曰く、「借りた」らしいが、どうもレオンを見ていればなついた故に近くにいたいような素振りだ。恐るべしフェロモンとでも言うのだろうか、ウィルは昔から動物に好かれやすい。本人が無自覚なのがたまにある意味恐ろしい事件へと発展することもあるのだが、それはまた別の話。
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それからの航海は、スーにとって非常になつかしいものだった。
カインもダリーも相変わらずで、船員たちはみんなスーを妹分のように可愛がってくれる。以前のときより乗組員はすくないものの、たくましい男たちはきらめく海のなか、自由自在に船を操り目的の地へと帆を張らす。
心強い味方にスーの顔はほころんだ。
レオンが旅立ち、ユリウスとの合流を胸に抱きながら、そしてウィルとのささやかな時間を過ごしながら、あっという間にスーの航海は終わった。
シラヴィンド――彼国へ、到着したのである。