第九十三章 混沌の足音
第九十三章 混沌の足音
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自分の口から淡々と言葉が出て、アルは内心ほっとした。小刻みに震える手がばれないようきつく奥歯を噛みしめて、決してふり返らずに「行け」と命じた。
背後でスーがデジルを抱えて去っていく音を聞く。気配も離れていく。
しばらくして、ようやくその場に自分ひとりだと確信できたころ、アルは深く息をついた。
恐ろしかったのだ。
緑の瞳がこちらを見ているのがわかった。我にかえって己の手が赤く血で染まっているのを目にし、一気に絶望の淵に叩き落とされる。
見られた。封じたはずの殺しの剣を。汚れた手を。
何度か彼女に触れた手。今は血にまみれている。
彼女が戦いを、命のやり取りを知らないことくらいわかってた。亡きフィリップの権威に守られ野蛮な情報とは皆無の世界で過ごしてきたのだ。ある意味温室育ちだったのだから。
怖かった。恐ろしかった。
拒絶されるのが、怖くてたまらなかった。
そんな想いとは裏腹に、頭の冷静な部分ではまずいという考えも浮かんでいた。だから咄嗟にスーを逃がし、これから自分のしなければならぬ裏工作を頭に巡らせる。
遺体がふたつ、ある。
ひとつはまるで眠るように横たわるシャルロ姫。もうひとつは、自分が手にかけた少年のもの。
賊か刺客が押し入りシャルロを攫おうとしたところをセルジュが見つけ応戦したが間に合わず殉死。駆けつけたアルが賊に怪我を負わせるも取り逃がしてしまった、もしくは捕えたが情報を引き出されることを恐れ自害した、というシナリオでいいだろうか。
眉間のしわを深め、アルは赤毛の少女が去っていった方向へと目を向ける。
デジルのものだろう血痕がぽつぽつとつづいている。辿られ見つけられれば、彼女が『賊』ということになってしまう。
だが。
(きっと大丈夫だろう)
アルの冷淡な部分がそう悟る。デジルはきっともう長くはもつまい。されば、きっと賢いあの女のことだ。自分を見捨てて逃げるようどうにかするだろう。それにスーがいるということはイライジャかユリウスもいるはず。うまく逃げてくれることだろう。
スーは、きっと彼女は、見捨てることを拒絶する。助からない命などわからないのだろう。
たとえ自身の首をしめることになっても、自分だけが助かるために人を切り捨てることはできないだろう。そういう考えを嫌悪するだろうことは、容易に想像できた。
そう、今のアルのような考えを。
バタバタと、衛兵たちの足音が遠くから聞こえてきた。もうすぐ駆けつけてくるにちがいない。
警備の穴をわざとつくらせたのはだれか?わかっても証拠がない。変に勘ぐることもできない。
まったく、うまくいかない。いつになれば、思い通りに事が進むのか。
ぼんやりと、アルは赤く染まった血だらけの自分の掌を見つめていた。
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仮面舞踏会は、何事もなかったかのように終えた。裏庭での出来事も、だれもなにも知らない。
事件は、アルのシナリオの通りに説明し、衛兵たちは賊捜しに駆り出され、同時に警備の緩みを叱責される。
王妃になるべき姫が、殺された――傷一つない、けれどたしかに息のとまっているシャルロ。死因はわからない、されど彼女が亡くなったことにかわりはないのだ。
責任はだれがとるのか。
大臣たちは緊急会議をひらき、話しあう。そして、アルは。
「こちらです」
クリスに連れられ客間へ入る。
いまだ落ち着かない城内に、舞踏会が終わってから一台の馬車が到着を告げた。リオルネだった。
至急の取り次ぎを、ということで、アルは大臣らの反対を押し切り彼と会うことに決めた。
喧騒とした雰囲気から一転し無音の道をひたすら歩いてきたわけだが、アルの胸中は落ち着くことなどできなかった。会議で責任がどうのと無駄な話をするよりはとリオルネと会うことを選んだわけだが、足を止めれば今にも震えて座り込みそうになる。叫び出したい気持ちをなんとか抑えて部屋へ入り、アルは客人と向き合った。
リオルネは小さな明かりの下、プラチナブロンドの髪をふって面をあげた。
瞳には真剣な色が宿り、前回会ったときより随分大人びて見える。少年はきゅっと小さな唇を引き締めると、頭を下げてから口を切った。
「無礼を承知で参りました。至急お知らせしたいことがあったのです」
「良い。話せ」
もはや『にこやかな王子』の仮面をつける余裕はなかった。厳しい表情のまま先をうながす。
リオルネは小さく頷くと、緊張した面持ちのまま本題へ入った。
「手紙を預かって参りました」
手渡された紙はざらざらしている。アルは表情を動かさずに受け取ると、差出人の名前を見やった。
目がこれでもかというくらい見開かれる。驚愕の声をあげない自分を褒めてやりたいほどだ。
急いで封を切り内容に目を走らせる。ぞわぞわと背筋を冷気が通り抜けたような気がした。
また、邪魔が。
どうして王になる道はひどく険しくややこしいのだろう。すんなりと通してくれない。
アルは駄々をこねたくなる自分に苦笑した。
「これは、本当に彼女から……?」
「はい。アルさまは、彼女の――ベロニカの推薦人が我が公爵家の者だと知っていますか?」
彼の女騎士の後見人は知っていた。昔から孤児の彼女と高貴な公爵家にどんな繋がりがあるのかと噂好きな人間たちの種にされていたからだ。アルも使用人らが口にしていたのを聞いたことがある。
結局彼女と公爵の関係ははっきりしないままだったが、ベロニカの実力もあり妙に勘ぐる噂は徐々に色あせ消えていった。
それにアルにとっては噂などどうでもよいこと。他人の口から広がる言葉ほど信用できず尾鰭をつけていくことを知っていたし、おとしめるために囁かれた話題に飛びつくほど愚かでもなかった。
なるほど、女騎士と公爵家はただならぬ繋がりがあるらしい。
アルはひとつ頷くと、リオルネに詳しく話すよう先をうながす。
「僕の父は昔、孤児を何人か屋敷へ招き仕事を与えていたことがあります」
アルは小さく頷く。リオルネの母親は身体が弱く、こどもに恵まれることはないだろうと言われていた当時、公爵がこどもへの愛を他へ向けていたことは聞いている。きっと自分のこどもの代わりとして孤児を養子としたかったのかもしれない。
「そのうちのひとりがベロニカです」
淡々とリオルネは語る。公爵に拾われたベロニカはそこで剣の腕がたつ素質があることが判明し、女という性別でありながら公爵は目をかけ一人前の騎士へ恥じぬ技を身につけさせた。
リオルネが生まれてからはその護衛とさせたこともあるのだとか。周りの予想を裏切りこどもを産んだ彼の母は今だぴんぴんしているという。
ふつう、貴族のなかではどこの生まれともしれない孤児を拾った場合はそれこそ奴隷とするのが常だ。国では禁止するかたちとなっているが、うまく裁けないのが現状であり、あしき風習はいまだ黙認されているともいえる。
しかし公爵家ではむしろ彼らを雇い能力があれば手をかけてやることで優秀な人材を育てあげている。
そういえばクリスもそういう過程だったなとアルは思い出す。
権力にしがみつき孤児など毛嫌いしそうなルドルフ元大臣が連れ帰ってきたことから強烈に記憶にあった。公爵家で仕えていたクリスをルドルフは優秀な人物だとして城で働かせることにしたのだ。そして彼は若いながらもアルの側近にまでのぼりつめた……。
なるほど、クリスはルドルフに泥酔していたが公爵家にも多大な恩義を感じていたのかもしれない。だからリオルネを王とさせたかったのかもしれない……。
「ですから、ベロニカは公爵家には連絡のツテがあります。何者にも邪魔されずに無事に手紙を送れたのはそのためかもしれません」
「そうか。貴公自ら出向き届けてくれたことに礼を言う」
アルは再び手紙の文字を追った。
しばし沈黙がつづいたあとで、静かにリオルネが口をひらく。
「裏切り者の容姿ですが……公爵向けに書かれたベロニカからの手紙に仔細がありました」
はっとして顔をあげる。少年はひどく緊張をにじませていた。
「……王子への手紙が他に渡ることを恐れ……口で伝えてくれとありました。……聞きますか?」
もちろん、と答えた声は、わずかにかすれていただろうか。
裏切り者がいる。
アルに渡された手紙にはそう書いてあった。カスパルニアの印象を悪くし、他国を攻め込ませようとしている動きがある、と。裏切り――それは問わずとも、内部にいる存在であろうことは容易に理解できた。王子の遠くない位置に、裏切り者がいるのだと。
リオルネはやや遠慮がちに目をふせたが、頭をひとふりして再度口をひらく。
「仔細といってもすこしですが。ただ、男だと。顔立ちなどは省かれていました。向こうも伝えるだけで精一杯だったのでしょう。とにかくはやく王子へお伝えすることを望んでいるような書き方で……」
「他には」
拒否を許さぬ声でアルは言った。少年には耐えきれぬ圧力をかけて。
冷ややかな瞳はまっすぐにリオルネを見つめる。王子は少年の違和感を、その遠慮と戸惑いを正確に感じとっていた。
リオルネは一瞬臆するようにおののき、されどアルの冷めた厳しいまなざしを前に、口走るように告げた。
「その、う、裏切り者の容姿は――く、黒髪の男です」
はじめは消え入りそうな、けれど最後にはきっぱりと言い切ったリオルネ。アルはその瞳を見つめる。
遠からず血のつながりのある少年だが、自分はここまでまっすぐで純粋な眼を持ち合わせていないことを思い知らされ口の端が引き攣る。
しかし、またちがう頭の冷静な部分では『黒髪の男』を考えていた。
「はっきりとした容貌は知れません。騎士の格好をした黒髪の男……とだけ」
黒髪の、『騎士』――はじめに連想したのは、第一騎士。みな、短絡的に考えればそう思い当たるだろう。
その『男』がだれであるという確実な情報ではないためか、いくらかリオルネの瞳が揺れた。もしかすれば、王子の第一騎士を疑うことに戸惑っているのかもしれない。先ほどの『遠慮』もこれが原因だろう。
リオルネはまだこどもだ。けれど公爵の嫡男で、いずれはその地位を受け継ぐだろう。だから、すでにこの混沌とした道でも戸惑いはすれこそ目を逸らさないのだ。覚悟があるから。
「裏切り」
思わず震えてしまった自身の声音に苛立つ。
ランスロットを遠のけ、セルジュをこの手で殺し、赤毛の彼女を手放して……己は今、ひとりで。
リオルネのなにかを孕んだ緊張にさらされたせいかもしれない。先ほどまでのむせかえる血の臭いにあてられたせいかもしれない。もしくは……甘美で残酷な彼女の残像に毒されたのかもしれない。
ともかく、アルはこのとき、自分自身でも確信するほど動揺していたのだ。
黒髪で騎士を名乗る男――それが指し示す人物はひとりしか思いつかない。そしてその人物はちょうどカスパルニア城をあとにしており、加えて直前には王子といざこざを起こしている……。
だれが考えたとて、やはり裏切り者の姿がその人物に重なる。
アルは気圧されたかのように首を振った。いや、否定したかったのかもしれない。
「ランスロットか」
口から出た声は思いの外かすれていた。情けない。
リオルネは苦しそうに顔を歪め、「わかりません」とうつむく。
城にいないランスロット。時を同じくし現れた黒髪の男……。
アルの記憶のなかで、最後に別れた際、お世辞にもいい雰囲気とはいえなかった。
鳶色の瞳をもつ、黒髪の騎士……噂の男が彼だというのだろうか。
「……わかった。貴殿も疲れたであろう。今夜は城でゆっくり休むといい」
アルは言ってから、ふと付け足した。
「クリスをやろう。久しぶりに会うといい」
側近へ返り咲いた彼は、今も部屋の外でおとなしく待機しているはずである。
次に目をあわせたとき、リオルネの瞳はきらきらと、年相応に輝いていた。