第九十二章 処決
第九十二章 処決
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スーは走っていた。肩にデジルの腕を回し、支え、走っていた。走っているつもりだったが、その歩行はのろのろしていることを彼女自身は知らない。頭のなかが混乱してぐるぐる回り、記憶がごちゃごちゃしている。
自分がどんな状況でなにをしているのかはっきりわからない。加えて、涙でぐしゃぐしゃのせいで視界が悪い。
ただ、走った。呪われた足のように、止まることはしなかった。
セルジュを刺し殺した王子は、そのままこちらを見ることなく「行け」と告げた。冷たい声だった。いや、むしろ感情などなかったかもしれない。
しばし呆けるように動かないスーを気配で悟ったのか、やはりアルは顔を背けたまま、「牢に投獄されていたはずの犯罪者と罷免された召使がいるのはまずい」という旨のことをしゃべっていた気がする。生憎スーは目の前の惨状に言葉を失くし、感覚は鈍り、うまく言葉を理解できなかったのだが、そんなことを言っていたような気がする。
残されたのは、セルジュと、そしてすこし離れた場所に倒れたシャルロ姫の亡骸。ふたりはすでに、事切れている。
わずかばかりだが息があるのはデジルだけだった。スーは彼女を死んだものと覚悟していたが、生きていたのだ。アルに言われ、指先が震える。
それからよくわからない。気づけば、急き立てられるようにデジルを支えて走っていた。たぶん、アルに命じられたような気がする。だから足は止まらないのだ。
気を抜けばすぐに崩れてしまいそうだ。涙腺は崩壊している。足に力が入らない。徐々に細々としていくデジルの息が頬にかかり、さらに急き立てられた。
どくん、どくんと心臓が鳴る。
「……っとに……ばか、ね」
「デジルさんっ!」
はっとして、それでも足はとめずに傍らの女に顔を向けた。首をすこしだけ傾け、デジルが口角をあげたような気がした。
「コッチが、お荷物に……なっちゃって……」
「しゃ、しゃべらないでくださ――」
そのときだった。
突如首筋をびりりとした空気が刺し、次の瞬間空間を貫く音を耳がとらえる。と、同時に、スーはデジルに突き飛ばされた。
(……え……)
驚愕に見開く。放心状態に近い。頭が理解するより先に、心が悲鳴をあげていた。
小さく呻く女。足首に、弓矢が突き刺さっていた。
「デジルさん!」
かすれる悲鳴をあげるスー。その足元にも、矢がドド、と突き刺さる。
くいと顔をあげれば、城のほうで人影が動いたのが目についた。怒りがどっと込み上げる。
だれが、やったの。
しかし、ひゅんと空気を切り裂く音とともに、さらにデジルの肩を矢がかすった。
これは怒りか悲しみかなんなのかわからない。しかし、恐怖ではなかった。
ぐいと奥歯を噛みしめ、スーは転がるようにデジルのそばまで戻ると、強引に腕を引いて、とにかく隠れられる場所へと移動する。幸い近くには大木があり、その影に入ってしまえば矢の的にはなりえまい。
敵は光を背負っていたため、その顔もなにもわからなかった。しかし、確実にこちらを狙っていた。
衛兵とは思えない。だが、城の人間であることは動かしようのない事実。
ひゅんと飛ぶ矢の音を聞き避けようとするも、普段のスーにも、ましてデジルに肩を貸した状態のスーには到底できない所業だ。なんとか身体を傾けたことで二の腕をかすった程度だ。
木の影に入り幹にデジルを預ける。止血をしなければ、と自分の着ていたドレスの裾を破り割く。
彼女の顔は真っ青だ。血が足りないのだ。
城の庭園を抜け、裏口までもうすこしのはず。衛兵に見つからなかったのは、たまたま運がいいのか、それとも最初から配置されていなかったのか……。
ふいに、涙をぬぐったスーの視界に、冴えわたるオレンジが見えた。ぶわっと、止めたはずの涙が散る。
「ユリウス!」
スーの悲鳴のような呼び声を聞きつけ、オレンジ頭の青年は電光石火のごとく駆けつけた。剣を抜き、敵を見つければ今にも切り殺さんばかりの勢いである。
がたがたと震え、もはや気を失いそうな少女はなんとか嗚咽を堪えてユリウスに訴えた。
「助けて」
片眉を器用にあげ、ユリウスはすぐさま状況確認をする。
流れ出ている血はスーのものではないことに内心ほっとし、それから真っ青な顔をしている女のそばへ屈み込んだ。
どうやら彼女が大怪我をしているらしいと把握する。足首に一カ所、肩に一カ所矢傷を負い、右脇腹を刺されているのを見つけ、ユリウスは眉間のしわを深めた。
「はっ、アンタさぁ」
ずるずると手を伸ばし、女はユリウスの肩をつかんだ。声はひどくかすれ、ひゅ、ひゅ、と雑音が混じる。
ユリウスは聞き取るように耳を傾けた。目の前の女がスーを庇ったのは一目瞭然だった。
「この、お、嬢ちゃん……頼んだ、よ」
血の気の失せた蒼白な顔で彼女は言う。若いのかそれなりに歳をとっているのかわからない、けれどうつくしい顔を歪め懇願する女。
ユリウスはぐっと力を入れて「わかった」と頷いた。
「デジルさんっ!」
いやいやと首を振り、スーは縋り付く。彼女の言葉の意味がわかったのかもしれない。
デジルはそっと笑むと、やはりかすれた声で、しかし力強く声を発した。
「あのこに……伝え、て。わたし、は、わたしの、道、を……い……く……って……」
力無い腕を伸ばす。スーはそれをしっかりと握りしめた。
と、そのときどこからともなく赤い小猿が現れた。主人の危機を敏感に察知したのか、デジルの傍らにやってくると、小さく鳴く。
ふ、と軽く微笑し、「ティティ」と彼女は小猿の名を呼んだ。そして、まなざしをスーへと向ける。
わたしはひとりじゃないから大丈夫、と。
「……っ、いって」
「い、いや!デジルさん!デジルさん!」
半ば強引にユリウスはスーを引っつかみ、引きずるように歩き出す。それでも暴れる少女。このままでは声を聞きつけ衛兵たちが集まってくるのも時間の問題だ。
「ユリウス、戻って。デジルさんも――」
あとの言葉は継げなかった。
首が打たれた、と思う間もなく暗転する世界。
スーは意識を失い、ユリウスに担がれる。
涙がひとつ、少女の頬をつたった。
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どろどろと溶けだした闇。その漆黒は、少女の足を容易に捕えて引きずり込む。
やめて、と叫んだ。けれど闇はとめどない。
デジルが赤い唇を笑みの形にして叫んだ。
『アンタのせいよ』
セルジュが現れ、コバルトブルーの瞳を怒らせた。
『死にたくなかった』
アルが、こちらを見ぬまま口をひらく。
『俺に殺しをさせたのは、おまえだ』
レオが笑みなくにらみつけた。
『君を殺すかもしれないよ?』
シャルロが、水色の瞳でこちらを見つめる。
『あなたは、滅びを、持ってくるのよ』
『みんな不幸にしてしまうのよ』
『覚悟もないくせに』
『おまえなんか、いらない』
『おまえなんか、いなければ――』
スーは、自分の悲鳴で目をあけた。
そこはイライジャの住処、スーに与えられた部屋だった。見慣れた天井がある。
は、は、と荒い息のまま首だけを動かす。ユリウスが部屋に入ってくるのが見えた。
あれから時間はそれほど経っていないらしい。スーを抱えたユリウスは人目を避けてイライジャの小屋へと戻った。そのままスーをベッドへ横たえ、イライジャに状況説明を軽くしてからすぐに様子見にやってきたというわけだ。
つまりスーは着替えもせず、血のついた衣服のままだ。鼻先にこびりついた血の臭いが、悪夢を再びよみがえらせる。
正直、感覚がどこかぶっ壊れていつような気がした。涙が出ない。夢に捕らわれたような感覚だ。
上半身を起こし、ぼんやりと、スーはユリウスの話を聞く。
イライジャはこれから城へ行き詳しい情報を探ること。今夜ユリウスが集めた情報では、近いうちに国境が閉鎖されるであろうこと。ベルバーニが不穏な動きを見せ、きな臭いらしい。
城でなにがあったか尋ねられ、スーは淡々と話す。
シャルロ姫が亡くなったこと、デジルが「はめられた」と言ったこと。そのあとすぐにセルジュが現れたこと。彼が身体の自由を失くし襲ってきた、そこでアルティニオス王子が駆けつけたこと……。
そのまま、スーは無感情のままで己の垣間見た記憶を口にした。
ユリウスには酷だろうか、などという考えは浮かんでこなかった。ただ機械のように、尋ねられた詳細を語る。
話し終えてから見上げた、緑がかった灰青色の瞳とかち合う。揺らぎ、戸惑う色が見えた。それをやはり、スーはぼんやりと見やった。
つまり彼はアルを誤解していたわけで。しかし今夜、ついさっきアルはセルジュを殺した。そのことに変わりはないわけで。
様々な感情がその瞳のなかを飛び交う。スーはそれをなんの感情もなく見つめていた。
やがて、ハッと息を吐き出したかと思うと、ユリウスは屈み込んでスーと視線を合わせた。
「越えろ」
唸るように、ユリウスは言う。
「越えてみせろ」
それは責めていると思わせるほど威圧的で、空気が震えた。
スーはじっと彼を見つめる。堀の深い顔はまっすぐにこちらを見つめかえす。
(なんて、まっすぐなんだろう……)
眉間に刻まれているしわを、当初は虫の居所が悪いせいなのかと訝ったのもなつかしい。がなるような声に、そっけない態度にちらとやさしさが垣間見えたときは驚いたものだ。
靄のかかったような思考が、ゆっくりと晴れていく。同時に、封じたどろどろしたものが首をもたげた。
自分の不幸を嘆いたことはない、といえば嘘になる。
親を亡くし国を失い、見つけたと思った光のような兄すら消えてしまった。過去に縛られ、面影を求め、自分の立ち位置に困惑し、居場所を探した。
どうしてひとりにしたの。みんないなくなるの。
幼いころからずっと胸にひしめくのは、卑下というより自惚れだったのかもしれない。大事な宝物のような存在はすぐに消え去る。だからわたしはカワイソウな存在なのだと。
健気に生きてきた?むしろ自分の不幸に酔ってはいなかったか?
すべてがすべて、努力しなかったわけではない。必死に兄に追いつこうとした。宮廷作法も身につけた。控え目に、目立たず、害のない聞き分けのよい娘を心がけて。
それでもやはり、報われないことは多くて……。
働きもしない身分もない役に立たないあの娘は、どうしていまだ亡き第一王子の屋敷に住んでいる?彼の財産を好き放題にしているというではないか。はっきり物言わぬ根暗な女だ。
だから、世話役として城へ召されたことは戸惑い拒みはしたものの、うれしかったのも事実だ。やっと働ける。居場所ができる。
不幸だと思っていた。きっと心のなかでは不満だらけだった。
それはアル王子に仕えてからも同じで……どうして幸せになれぬのかと。
(わたしは馬鹿だわ。なにも見えていなかったのね)
そばにいたというのに。
シルヴィが、ローザが。ずっと一緒にいてくれた。
つらいときに助言をくれたクリス。純粋に好意を向けてくれたリオルネ。
身分を鼻にかけず対等にまっすぐに話してくれたウルフォン。飄々として不思議な部分も多いけれど助けてくれたレオンハルト。
だれよりも王子のために走り、そしてスーをあたたかいまなざしで支えてくれたランスロット。
愉快な海賊たち。明るくしたたかなドロテア。大好きな、いつまでやさしいフィリップ。
なんだかんだで護ってくれたり助言をくれたり、そして最期に名前を呼んでくれた、セルジュ。
相談にのってくれたり陽気に話を聞いてくれたグレイクやロイ。
心よく受け入れてくれたアーサーやイライジャ。
癒しをくれるティティやレオンやリードルといった動物たち。
敵だと思っていたのに、庇ってくれたデジル。
みんな、出会った。めまぐるしく怒涛のなかで、彼らと出会った。
これは幸福だった。幸せなことなのに。
シャルロ姫とセルジュの死が影を落とす。
デジルの荒い息が頭をかすめる。
滅びをしめすのよ。
その意味を、深く考えてしまう。
今、この手には力がない。敵を退ける腕力もなければ唸らせる知識もない。無力だ。
それなのに、どうにかしたいと思ってしまう。目の前でだれかが傷つくのを見たくない。いや、結局自分が傷つきたくないのだ。
立場も権威もない自分。フィリップならどうしただろう?アルならば……。
受け入れろ、とユリウスは言う。無力な自分を受け入れて見据えろと。己の器に見合うか見極めろと。
(でも、それじゃあわたしは、なにもできない)
スーは、自分自身の力を知っている。見ぬふりをしてきたからこそここまで駆け巡ってこれたというものだ。
弱い心はだれよりも己が知っているのだ。もし認めれば、これ以上進めない。
「見誤るな」
そ、と穴があくほど見つめていた手に、ごつごつした手が重ねられる。あたたかさにハッとして顔をあげれば、やさしさの含まれた瞳とかちあった。
「目の前にあるものを救いたいと思うのは偽善じゃねぇ」
スーの手を包み込み、ユリウスは拳をつくらせる。
「自分に力がないから無茶するなって言ってんだ。無力だからあきらめろって言うわけじゃない」
見誤るな、と再度彼はつづける。
包まれた手。そこに伝わるぬくもり。
「ひとりで突っ走るな。おまえには、味方がいるだろう……?」
受け入れて足掻けと、言うのか。頼れと。
じん、とした熱を感じた。
「ユリウス」
ぐ、と自分自身で手に力を込め、スーは顔をあげた。