第八十七章 劣情
第八十七章 劣情
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口ずさむのは、故郷の唄。それから、ずっと胸のなかで流れているもうひとつの歌。
赤い本に書かれた悲劇の物語を思い出し、すこしだけシャルロは幸福な気分になる。燃やしてしまった証拠は、もう形となってはいないけれど……。
「もう十分だわ。たくさんだわ」
ぽつりとこぼれた声は、いくらか憤りが含まれていたのかもしれない。シャルロは軽く息を吐く。
もうそろそろ、時間だった。
窓から見える外の景色には、白がちらついている。彼女はそっと赤い花々の花弁に指を這わせ、ほほえんだ。
「もうすぐ、わたしはあの人たちの元に逝ける」
幸せだ。これ以上の至福がどこにあろう?
立ち上がり、シャルロは淡い茶色の髪に薔薇とアネモネの花をさす。鏡に映ったそれは、紅い血の色に似ていた。
緑の瞳が、邪魔で仕方がなかったけれど。
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地下牢で死体が発見された。
薄暗いそこでなにが起こったのか知る者はいない。見張りの兵士はいつの間にか眠るように気を失っていて、気がついたら辺り一面が赤の海と化し、強烈な血の臭いが充満していたという。薄暗い地下。そこでなにがあったのか。
たったひとり、真実を知る者にはすでに息がない。口を永遠に閉ざしてしまった。
彼の遺体は静かに葬られた。彼の者の死を知るのは、関わった兵士と権力を握る上方の人間のみ。そして彼の死を悼む者はほとんどいなかった。
ルドルフ大臣の死――それはカスパルニアを震撼させた。彼の命が消え失せたからではない。どうせ謀反の行為により処刑されるはずだったのだ、さして変わりはないと考える者が多い。
カスパルニアの上方部が震えあがったのは、彼が何者かに殺されたからだ。
なんのためか、と考えれば、口封じと思いつくのが常だろう。
ルドルフ大臣の死は、彼が反逆を独断で行ったわけではないのかもしれない、という考えに結びつけた。
ベルバーニか、ラーモンド家か……または、他の裏切り者か。
とにかく、彼の死は一種の恐怖を植えつけていた。
そして同時に、アルを窮地へと追いつめようともしていた。
ルドルフはなんと言っていたか。『アル王子の母君に命じられた』と言っていなかったか?
つまりは口封じ――
そう考える者もすくなくないのだ。
けれど王子は沈黙する。知りぬ存ぜぬを繰り返し、そのまま日は流れ、仮面舞踏会当日となっていた。
「アル王子、準備ができました」
いつかのように、クリスが背後から主へ声をかける。アルもまた、いつかと同じように、振り返りもせず暗闇から応えた。
「貴族らは?」
「はい、ハンリー家やマラドット家など、みな集合したようです……もちろん、仮面はつけておりましたが」
「そうか……」
アルも仮面をつけるつもりだ――だが、髪色のことも考えれば、自分の正体を隠すことは難しいだろう。
無意識のうちにため息がこぼれる。前回開いた舞踏会同様、対応に追われることだろう。
「あいつは――」
そして知らぬうちに、気づけば口走っていた。あわててアルは口をふさぐ。
「え?あ、お妃さまですか?」
シャルロさまならご加減が優れないようで、遅れて参加なさるそうです――とクリスが素早く説明する。取り繕うように、アルはただ「そうか」と頷いた。
(また俺は……なにを馬鹿な)
背後でクリスが退出する気配を感じながら、アルは突如表れた頬の熱に戸惑う。
今、自分はなにを聞こうとした?だれを思い浮かべた?
(あいつはもういないのに――)
もしかすれば大臣らに手駒にされる可能性があるかもしれないと、彼女が城を去ってからすぐに後を城の衛兵に追わせた。しかし行方はつかめず、同時にやはり大臣らも赤毛の娘の身柄を拘束しようと躍起になっていることが知れた。
アルに反抗する組織があることは、王子自身知っている。そしてアーサーが抜けた現在、その反抗グループは目立った動きは見せない……はずだった。それが水面下でじわじわいやな雰囲気を醸し出していることを感じとってはいるものの。組織の上層部は顔を公開せず、いつどこでこちらの様子をうかがわれて弱みを握られるかわからない。
だからアルは目立たぬよう、しばらくしてからヌイストに命じてスーの状況を探らせたのだ。幸い彼はアルの下についている。そういう役職を与えたのだから。
ヌイストが持ってきた情報は、ただ彼女が無事だということばかりではなく――オレンジ髪の青年とともにいる、というものだった。
それからヌイストは「では、ワタシはしばらく養生に参りますのでー」と言うなり姿を見せない。自分勝手もいいところだが、アルはあまり気にかけはしなかった。というよりも、それどころではなかったのだが。
思った以上に、堪えていた。赤毛の少女が、あの緑の瞳を他のだれかに向けている――ということに。
自分の情けなさに失笑し、しばらく王子は暗闇に身をうずめていた。
(俺はどうかしている)
最近はよく夢をみる。それは幼き日の思い出であることが多く、記憶がごちゃごちゃに揺さぶられているような気がしてならない。
たとえば母の癇癪であったり、父から受けた暴力であったり、それから――。
アルは目をひらき、そっと掌を見つめた。
夢のなかで、この手が真っ赤に染まっていた。
いや、夢ではない。あれはたしかに記憶だった。
オレンジ色の髪をした、笑うと八重歯が見えるのが特徴的な少年とのいざこざも、その原因も……。
この現象は、きっとヌイストの報告ばかりが原因ではない。新しい改革のせいだとアルは思っている。新たに設置した騎士団が、あまりにもなつかしい顔ぶれだったからだ。
『誘惑の声をもつ詐欺師』と呼ばれるグレイク。彼を第六王子の騎士団・団長とし、副団長兼第一部隊長には同じく『野獣を鎮める優男』と呼ばれるロイが選ばれている。そして、『天使のような悪魔の申し子』と呼ばれる“彼”もまた、第六王子騎士団に所属しているのだ。
(あいつはもう、前に進めたのかな……)
アルのなかで、“彼”のことがいちばん厄介に思えた。『氷の騎士護衛部隊三人衆』のひとりである彼――セルジュのことが。
信頼を示す金色のバッジ。それから、王子の第一騎士であるランスロットから与えられる信頼の証の銀バッジ……『氷の騎士護衛部隊三人衆』は、その証をもつ者だ。グレイク、ロイ、セルジュがそれにあたる。
ユリウスと決別したとき、セルジュもまた城を去った。「兄貴に顔向けできない」と泣きそうな顔でそう言っていた記憶がある。
アルにとっては、封印していた過去。というよりも、もはやアルには後ろを振り返る勇気がなかった。
関わってきた人間は、みんな不幸になるから――。
父も母も兄も失い、友と呼べる者さえいなかった。ずっと隣にいたはずの黒髪の騎士も、いまや自らの手で遠くへと解き放ってしまったのだ。
(みんな、いらないって……決めたのに)
いつまでもこどもで、いつまでも弱い自分。わかっているのに、どうしようもなくて。
(俺はきっと汚れている。その方が、似合っているのだろう)
血で、汚れて。
選んだのは自分だ。あの『赤』をも手放したのは自分だ。ひとりを選んだのは、自分自身なのだ。
麻痺したような感覚のまま、アルはふと目をとじる。夢か現実か、瞼の裏には血で染め上げられた光景がありありと浮かんでいた。
(やはり、ちがうのだ)
自分は他とはちがうのだ。いつまでも前へ進めないのだ。
だからこそ、セルジュは騎士として戻ってきたのだろう。ランスロットのもとに。アルのもとに。
カスパルニアの城は、彼にとって苦痛の塊になっていたはずだった。それなのに、セルジュは自らの足でここに立っているのだ。昔の友と一緒に。
うらやましかった。アルは、自分にできぬことをやすやすとやってしまえる彼が、厄介で仕方がなかった。
(まあいい。俺は、俺の道をいくだけだから)
立ち上がる。そろそろ刻限だ。
人はどうせ、みな厚さのちがう仮面をつけているものだ。そうして駆け引きを繰り返していくものだ。だからアルは、ずっと昔からその術を学び、行使しているのだから。
仮面をつけて、舞踏会へ。
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一方、大広間、舞踏会の会場ではすでに音楽が流れ、人々が思い思いにダンスを楽しんでいた。
「イザベルさん、あちらはどなたかしら?」
「まあ、マリーさんはカイリ伯爵狙いなの」
「ふふ、わたくしはご子息さまをお慕いしているのよ」
貴族の娘たちは扇子で口元を隠しながら、ころころと笑い声をあげる。
「ああん、それにしてもアルさまはまだかしら?」
「王女さまとご結婚ですものね……せめてお姿だけは拝見したいわ」
「たしか結婚式は来年の春だったかしら」
「そういえば、ナタリーさんはアルさまにゾッコンでしたわよね?」
「でも、あきらめますわ。今はラーモンド家のご子息にゾッコンですもの」
「ルアルディ家も捨て難いですわ~」
……現金なもので、彼女たちの目的はすでに変化していたのだが。
それでも、やはり王子にパートナーができたといっても、一曲踊ってみたかったというのが彼女たちの言い分だ。もちろん、目をつけられたくはないので、だれも申し込もうとはしない。
「やはり伯爵家か公爵家がいいですわね」
「リオルネさまは随分年下ですし……ああ、彼がもう少し成長していれば!」
「お父さまと叔父さまが話していたのですけれど、最近はダーティーン家が頭角を表してきたとか」
「まあ!わたくしはラーモンド家がいいと思いますわ」
「たしかに。ルアルディの後ろ盾もありますしね」
「それにご子息はかなり……」
「ええ、素敵な方……」
ある意味、彼女たちほど権力に敏感な者はいないのかもしれない。
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ちらちらと空から降りそそぐ白い粉雪。はく息は逆らうように天へのぼる。
明かりできらめく壮大なカスパルニア城。大門も塔も回廊も庭園もみなおとぎ話の世界から抜け出したようにうつくしい。
しかし、ユリウスには悪魔の根城にさえ思えた。
彼が城をあとにして三年ほど経っただろうか。まさか自分が再びこの領域に足を踏み入れるとは。
本当はすぐに他国へ行きたかった。それでもカスパルニアの地へ残ったのは、ここが自分の祖国であり、イライジャに世話になった恩を返したいと思ったからであり、それから……彼女がいつでも戻ってこれるようにと考えたからだった。
今、かつて『彼女』が使っていた部屋には赤毛の少女が住んでいる……。
城を出て生活しているうちに、様々な噂を聞いた。もちろんアル王子の評判も。
「もう二度とくるつもりはなかったのに……」
つぶやいた声はだれに聞かれることもなく消えていく。
ユリウスは小さく息をはいて首を振った。
すでにスーは城のなかだ。自分もいつまでも感慨しく突っ立っていられない。
懐から出した仮面をつけ、オレンジ頭の青年は仏頂面に哀愁を漂わせ、賑わう広間へと身を溶け込ませていった。




