第八十六章 これを恋と呼ぶならば
第八十六章 これを恋と呼ぶならば
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落ちつかない気持ち。震え出す手足。そんな自分を叱責して、スーは深呼吸を繰り返す。
ユリウスの記憶を垣間見た。時を同じくし、彼もまたスーの王宮での日々を知った。
こんな魔法のような不可思議なことをできるのは、スーの知るなかでただひとり。ヌイストだ。
彼の真意をたしかめるためにも、今回の行事――仮面舞踏会はありがたいかもしれない。
それに、とスーは唇を噛みしめる。
ユリウスはひとつの噂を教えてくれた。それは、戦争が起こるかもしれないということ。そして、アル王子の孤立が目立ち、クーデターが起きるのではということ。
スーがまだ城にいたころ、そういえば『メディルサ大軍帝国に宣戦布告した』と噂があったはず。それに、お世辞にもアルは大臣たちと折り合いがよいとはいえなかったことを思い出した。
城下にまで出回っているのか、と尋ねれば否、と答えられた。『そういう』雰囲気はあるものの、『噂』として手に入れられるのは貴族や城で働く人間のみ。今回の噂はイライジャやユリウスだから手に入れられたものらしい。
仮面舞踏会。それに招待を受けたのはイライジャだ。しかし連れの人間や代理の人間ならば入城が許されるため、ユリウスやスーも参加できるというわけだ。
また、仮面をかぶることによって素顔が隠せる……スーにとっては願ってもないルールだが、しかし、もし刺客がいればなんと危うい決まりであろう。
(でも……もう、わたしには関係のないことなんだ)
アル王子の召使でもない、自分には。
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舞踏会を翌日にひかえた夜。なかなか寝付けず、何度も寝がえりをうつ。
イライジャが秘かに準備してくれたドレスは、いったいどうやって手に入れたのだろうかと思われるほどうつくしいものだった。濃紺のそれは、少女の燃える赤毛とは対照的であるが、しかし着てみると思いの外しっくりくる。当日は黒髪の少女として身に纏うものの、スーは赤毛でも似合うドレスにむずがゆさを感じた。
彼女の勘が正しければ、きっとシルヴィやローザが準備してくれたにちがいない。離れていても、どんなときでも、味方でいてくれる。スーのことを考えてくれる――こんなことでも目頭が熱くなる。心のなかで、スーはやさしい彼女たちに礼を言った。
眠れぬ夜に、ふと窓から空を仰ぎ見たくなることはあるだろう。ぼんやりと霞む月をながめ、ふいにスーは金色のロケットを思い出した。
いつか、返さなければ。
(あのロケットがある限り、わたしはアルさまを忘れられない……断ち切ることができないんだわ)
どうして忘れたいのか、などとは考えなかった。ただ、すこしでも思い出すだけで、胸の奥から焼けつくような、迫りくる苦しみがあるのだ。
もし、ロケットを返すならば、舞踏会はチャンスだ。最後のチャンスかもしれない。たとえ直接渡さずとも、どうにかできるかもしれない。
持っていこうと思いつき、スーは戸棚にしまっておいたロケットを取り出そうとした。しかし。
(――ない?)
どんなに奥を探そうと、目を血眼にして探ろうと、金色に光るものは見当たらなかった。
(うそ。いったいどこに)
ぶわりと冷や汗がつたう。なくしてしまった。そんなばかな。
泣きたくなるのを必死で堪え探すうちに、唐突に思い出したのは、大掃除の日のこと。もしかすれば、あの日にどこかへ落としたのかもしれない。家具をごちゃごちゃ動かしていたことだし、可能性はある。
夜分だということも忘れ、スーは勢いよく立ちあがり、すぐさまユリウスのもとへ聞きにいこうとした。
そのとき、ちょうど窓の外、影が映る。目の端で捕えたのは、オレンジ色の髪の毛だ。
彼は真夜中だというのに、外にいるようだ。スーと同じで眠れないのだろうか。
これ幸いとばかりに、スーは階段を駆け下り、外へと飛び出した。
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「ユリウス!」
闇のなかでも目立つ頭だ。スーはいくらか遠慮して声を出す。
怪訝な顔で振り返った彼は、どこか機嫌が悪そうだ。
「あの、ね、眠れないの?」
「ああ、まぁ……で、おまえは」
ギロリ、とやさしいとは言えないまなざしを向けてくる彼であるが、これはきっと目つきのせいだ。スーは胸の前で手を組み、なんとか自分を落ち着ける。
「聞きたいことがあって。あの、ね……わ、わたしのロケットを知らない?」
金色のロケットなのだけれど――そう口にしている間、スーはびりびりと空気が変わるのがわかった。あきらかにユリウスの機嫌が急降下したのだ。
真相は、聞かずとも知れた。
彼の懐から取り出された、金色に輝くソレによって。
「ユ、リウス……まさか――」
「そう、俺が隠してた」
目を見開きこわばる少女に構わず、彼は自嘲的な笑みを浮かべて、戸惑うことなく彼女の手へとロケットを押しやった。
隠していた、というわりにはやけにあっさりとした返却だ。スーはおろおろと戸惑いの表情をそのまま彼へと投げかける。
「悪かったな。でも、おまえはこれがなくなっても、気にもとめてなかったから」
どうして、というスーの疑問には触れない。ユリウスは目をそらし、ため息をこぼす。
「そのロケット、あいつのだろ」
「ち、ちが――」
ちがうわけ、ない。
パッと自身の口を押さえ、スーはうつむいた。
今、自分はちがうと言おうとした。なぜかアルとの関わりを隠したかった。秘密にしたかった。
相手がユリウスだからか、と自問する。
(そうじゃないわ……わたしは、だれにも触れてほしくなかった)
胸が重圧に耐えきれないとばかりに震える。ひらめきのように自分の気持ちを悟ってしまったから。
「どうして、そのロケットをもっているんだ」
ユリウスの声がする。その声は、スーを恐怖させた。
「あいつのだから、だろう?」
「ち、ちがいます……」
認めたくない。認めることなどできないのだから。
「どうしてだとか、考えたことあるのかよ」
ぶっきらぼうに放たれる言葉。なぜユリウスが怒っているのかだとか、なぜそのようなことを質問されねばならないのかだとか、今はスーに考えている余裕はなかった。
どうして?
知りたくなかったのは、相手の感情だろうか。それとも、自分の感情だろうか。
おそらくヌイストだろう者からみせられたアルたちの記憶。そのときに聞こえてきた声に、スーは涙したではないか。
求められた。『召使』という縛りは、スーにとって『居場所』だったのだ。
青い目がこちらを見つめる、それだけで心が震えた。彼のまなざしが、自分ではないフィリップを見ていたことを知ったとき、はてしない絶望に苛まれた。
なぜ、自分は薬師を目指したのだろう。なぜ、医術を学ぼうとしたのだろう。
もう城の人間ではないのに、なぜいまだ知識を得ようとしているのだろう。
なぜ、ここにいるのか。大好きな兄の誘いを断ってまで、どうしてこの地へ残っているのか。
セルジュに勧められたからか。クリスの後を継ぎたかったからか。
イライジャに出会えたからか。ランスロットが気がかりだからか。
フィリップに、頼まれたからか……?
(……わ、たし、は……)
どうして、金のロケットをもっていたのか。どうして、ユリウスに悟られたくなかったのか。
成り行きでか。ただ触れてほしくなかったからか。
――なにに?
(いやだった……アルさまと、わたしの、秘密だったから……)
たったひとつの、繋がりに思えたから。
「……あいつのことが、好きなんだろう」
声は、どこかあきらめたようにつぶやいた。小さく、小さく、かき消えてしまいそうなほど、小さく。
それでも、スーの耳に届くには充分で。だから、涙が頬をつたうのも仕方のないことだった。
(わたしは、アルさまに、逢いたいんだ)
恋焦がれてなのか、執着なのか、今のスーにはわからない。自分ではわからない。
ただ、自覚した途端に会いたい、と強く願ってしまう自分がいる。
夜空にぽっかりと浮かぶ月。
赤毛の少女が声を殺して泣いている。それを、オレンジ色の髪をした青年が、唇を噛みしめて見つめている。
知っているのは、金色に輝く、月だけ――。
†+†+†+†+
「ね、どう思う?」
人の気配がなくなると、そっと木陰から現れたひとり――否、ひとりと一匹。
軽装に身を包み、女は常人では考えられないような身軽さで木の上へと飛び乗る。彼女の肩には小さな赤毛の猿がいて、楽しげに鳴いていた。
「そうだね。うん、きっとお嬢ちゃんは城にいくってことでしょうね……」
女のひとり言に応えようと、小猿もキキ、とひとつ鳴いた。
夜の闇にまぎれ、彼女はずっと話を聞いていたのだ。今夜ばかりではない。赤毛の少女が変装してこの家にやってきてすこししてからは、常に見張っていたようなものだ。
これは女の独断だった。雇い主から言いつかった命令をこなしつつ、少女の――スーの動向を見守っていたのだ。すべて、先を見据えればこそだ。
幼い日から闇夜に身を置いていた彼女にとっては、雇い主も赤毛の少女もすべてあまさが拭えない、それこそ赤子のようなものだ。切り捨てる勇気も選ぶ努力もできない、ぬるま湯のなかで育ってきた赤子同然だった。
けれど、なぜか彼女は彼らに力を貸したいと思う。だからこそ、こうしてスーの近況を探っているのだ。
「王子さまはきっと知らないんだろうね……教えてあげる気もないけれどさ」
くすり、と紅い唇に孤を描き、女は小猿の頭をかき撫でた。
「これは一波乱ありそうだね――ティティ?」