第八十五章 暴君のものがたり
第八十五章 暴君のものがたり
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地下牢とは反対方向の、ちょうど王家の寝室がある側の地下。そこには今や彼しか知らない小部屋がある。
かつてその部屋で、彼は実の父親から虐待を受けていた。どんなに泣き喚こうが、許しを乞おうが赦されず、悪意と憎悪でぬりかためられた烙印を押された場所。
愛されていないと思い知った場所だった。
彼はその部屋を壊すことはせず、まるで戒めのように当時のままにしている。鞭も手錠も黒い檻も、それから肩を焼いた烙印も……すべて部屋には転がっている。――否、ただひとつ当時とちがうのは、壁にかけられた絵画。かつて第一王子フィリップの部屋にあった、海と人魚の絵画だった。
彼が――第六王子が、どうしてその兄の遺品をその忌まわしき部屋へ飾ったのか知るよしはない。だって彼本人ですら、わからないのだから。
ただ、思い出はすべて宝箱へ……鍵をかけてしまっておきたかったのかもしれない。
第一王子の母親と第六王子の母親がともに事故死したのち、王は狂ったようにだれかれ構わず女を抱き、債務を投げ出し、そして人知れず息子である彼を罵った。
元来、冷徹だといわれる国王であり、やさしさなどカケラも持ち合わせてはいなかった。腹心の部下などはいないに等しい。そんな彼の后はすべて領地を広げるための政略結婚、同じく娘もみな他国へ嫁がせていた。
カスパルニアの冷徹王と恐れられ、戦も厭わない姿は暴虐で、民からも臣下からも距離を置かれるのは至極当たり前のこと。
彼の名を、ソティリオといった。
若いころから眉間に深いシワを刻み、人を拒絶するのが常であったという彼は、若干十九にして育ての父を蹴落とし王座についた。
明るい茶色の髪に、神秘的な葡萄色の瞳は、たとえ彼がどんな冷酷さを秘めていようと世の女性陣の魅力となったにちがいない。大国の覇者として名を轟かす彼のもとへは、婚約を望む者が多かった。
そんな彼が、恋をした――遅すぎる、初恋だった。
結局ソティリオは他国から充分すぎる姫君を娶った。彼はまるで義務のように娶った姫を抱き、子を孕ませて世継ぎを産ませた。
黙々と。
しかしおかしなことだった。
いまだ正妃の席は空のまま、生まれた第一子のはずの赤子も『第二王子』となっていく。
妃たちは我よ我よと王の心を射止めるべく色めき立つが、ソティリオの笑みを目にする者はいなかった。まるで子をなせばそれで終わりと言うように。
結局正妃は空のまま、祖国の大きさや息子を産んだ順番から第二妃、第三妃と決められた。
事が発覚したのは、三年後。カスパルニアが不動の置を築き上げたころだった。
『隠し子か?第一王子発覚!』
その日のトップ記事はすべてこれだった。
ソティリオは静かに初恋を育んでいた。だれにも邪魔されず、そして子を身篭った女を愛していた。
やがて正式に正妃を迎え、第一王子となった赤子の名はフィリップ。父の髪色と母の眼を受け継ぎ、後の世に心やさしき賢王と謳われるはずであった男である。
だれもが驚愕し、反対をとなえた。
女の国は小さな田舎の国。とても後ろ盾があるとは思えない。他の妃もみな不満を顔に出した。
すると王は言う。
『なれば、わたしは刃向かうすべての生き物を殺そうぞ』
……実際、正妃を侮辱した下臣を死刑にしようとしていた――辛くも正妃本人の進言によって免れたのだが。
ついにソティリオはその圧倒的な力で周りを納得させた。正妃のエレンディアがすばらしい女性だったこともある。加え、すくすく育った第一王子は申し分ないくらい立派な美丈夫へと成長を遂げていたことも拍車をかけたのだろう。
ソティリオの他の妃に対する非情な態度ははじめから変わらない。ただエレンディアとフィリップに向けるまなざしだけが、慈愛に満ちていた。
だから、彼女を失ったソティリオは、もはや正常に生きていけなくなったのだ。
エレンディアとソティリオがどのように出逢い、愛を育み、そしてどんな心境で王宮での生活を過ごしてきたのか……語れるものはだれもいない。
ただ、まことしやかにささやかれるのは――。
冷徹王ソティリオは、ラベンダー畑の妖精に心を奪われた。彼女は海のような深い眼を持ち、彼の凍った心を溶かし打ち砕いたただひとりの女性。
どんな美貌もどんな財産も彼女を凌いで国王を射止めることはできない。欠落した王の感情を埋められたのは、ただひとえにまっすぐな彼女の心なのだから。
まさしくエレンディアは神からの使者。
傷つけることしか知らなかった王に、護ることを教えた。
拒絶することが当たり前だった王に、受け入れ欲することを覚えさせた。
彼女を愛するとき、彼の眉間からシワが消える。その顔には微笑が浮かぶ。
まさしく彼女は天使。
暴君・冷徹王がただひとり愛した女性――。
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アル王子は燭台に灯る火を消し去った。沈黙が部屋を支配する。
瞼の裏に焼きつく、剣と茨の奴隷の印。従属し、一生消えない証。
これを彼に押しつけた人間は、彼を『悪魔』だと言った。自分の『天使』を殺した『悪魔』の息子だと。
せせら笑うように、アルは口元を歪める。
(似ている……ばかな……)
最近の夢は、いつも暗い檻に閉じ込められる子供の自分。泣き叫び、無様に許しを乞う姿がありありと浮かぶ。それでも、男は――父は憎しみに歪んだ笑みで『悪魔』と呼ぶのだ。
たぶん、一生、抜け出せない――。
幸せになど、なれない。己にはわかっている。わかっていた。
アルは軽く息をはいて、目をあけた。闇が広がる。
(似ているのかもしれない。ああ、似ている……)
残虐で、他者を拒絶する自分は。
ふと、数ヶ月前の記憶がよみがえる。まるで何十年も前の出来事のように色あせた記憶になってしまった。
『アルーは、自分の目指す王になればいい』
兄は、柔らかく笑ってそう言った。それに応えたい、と思ったのも真実。
別れる数日前、兄・フィリップとふたりで話をしたときのことを思い出す。つい、口走るように「俺は父親がきらいだ」ともらした声を、兄はきちんと聞いていた。
なぜ、そんなことを言ったのか自分でもわからない。だけど、知って欲しかったのかもしれない。自分がどれだけ、闇を憎み、母を捨てた男を忌々しく思っているのか。反対に、どれくらい兄を慕っていたのか。
フィリップはすこし観察するように弟の青い瞳を見つめていたが、やがて静かに口を切る。
「あの人は悲しい人だったんだよ。……アルーは、父上を好きではないの?」
彼が『きらいなのか』と聞けばすぐに頷いた。けれどフィリップは、わざと『好きではないのか』と尋ねた。アルは顔を歪める。
「あいつのせいで人生を狂わされた女はごまんといるだろう。俺は、そんな奴になりたくない」
母を娶り子供を産ませたくせに、愛さなかった、そんな男には……声に出さず、アルは心のなかで叫んだ。
フィリップはエメラルドグリーンの瞳をわずかにふせた。
「父は……はやくに両親を亡くし、育ての親となった叔父からは疎まれていたんだ。若くして王になったあの人は、戦の才能から周りから期待され、重圧に押し潰されそうな日々だったそうだ。そんなとき母と出会った」
母、とはエレンディアのことだろう。フィリップと同じ、深い緑の瞳をもつ、ソティリオの『天使』。
「あの人は愛する人はひとりでいいと言ったけれど、周りはそれを許さなかった。母ははじめ身分を隠していた――ラベンの国の家柄では、とうてい許されないと確信していたから。母と父は引き離された――けれど数年後、運命的な再会をはたし……結ばれた」
はじめて聞く、父の物語。そのとき、アルは耳をふさぎたい衝動に駆られた。
なんとか感情を押し殺し、兄の声に耳を傾ける。
「再会当初の父は荒んでいたと僕の母は言っていた。寄ってくる女は権力目当てか刺客かであり、だれも信じられなくなっていたらしい……」
ぐ、とアルの指先に力がこもる。つくった拳が震える。
そんなこと、知らない。父は、母・ナイリスのうつくしさに虜となり娶ったのではなかったか?
「たしかにあの人は完璧な父親ではなかったかもしれない。子供に対して愛情が希薄だったかもしれない……けれど」
聞きたくない、とアルの心が悲鳴をあげる。
フィリップは父に幻想を抱いている。本当はもっと残虐で――。
「それでも僕は彼を父親だと思うし、このカスパルニア大国を築き支えてきた人間であるとも思う……アルーだって、本当はわかっているんだろう?おまえはあの人の――カスパルニア前国王・ソティリオの息子なんだから」
そのあと、どうやって兄とわかれたのか知れない。ただ、このときの記憶に蓋をした。なにも考えたくなかったから。
フィリップは知らない。アルが虐待を受けていたことを。奴隷の烙印を押されていることを。
そんな父の行為を知っても、フィリップは先ほどと同じ台詞が言えるのだろうか?
闇に、身をうずめて。アルの思考は過去から帰還する。
どうして父の本当の狂気を話さなかったのか。どうして兄に助けを求めなかったのか。
『アルーだって、本当はわかっているんだろう?』
蓋をして封印したはずの記憶。その言葉が、胸をしめる。
きつく握りしめた拳。噛みしめた奥歯がきしむ。
言えなかった。父の姿に愕然とする兄が見たくなかった。
(ちがう……ちがう!)
すぐにアルは頭を振った。
(ちがう、俺は、ただこの痕が見られたくなかっただけだ!)
代弁するように。さらに唇を噛みしめて。
暴君、冷徹王と謳われしカスパルニア前国王・ソティリオ。一目置かれたのは、ただ単に力で抑えつけていたからではない。彼は身分を問わず意志のある者を騎士に迎え、貴族との連携を怠らず、結果領土を広げていった。外から見れば覇者であっても、カスパルニアの土台をしっかりと築き上げた王なのだ。
……されど、本当の姿を知る者はほとんどいない。
臣下には手をつけられないと恐れられた王。女との享楽に目がないふしだらな男だと噂され、領地を広げるためにはどんな手段も厭わない。妃はよりうつくしい女を選び、国土を得て、頂点に君臨する男――。
けれど、実際に彼が心から惚れたのは彼女ひとり。領地の拡大も他に妃を娶ったのも、すべて愛する人を護るため。
力があれば、たとえ小国の女を正妃としようと文句は言われない。他に妃をとれば臣下は責めることができない。
だから、ソティリオは忠実に孤高の王を貫き、絶対的な力を得たのち、エレンディアとその子供の存在を明かしたのだ。
ソティリオが手段を選ばず躍起になったのは、すべてエレンディアのためだけ……。
外伝短編集【つどいし夜の宴の譚】にて、
ソティリオとエレンディアの一幕(?)あります。
『あなたをてらす』です。
気になった方は是非……という宣伝。
失礼しましたー!