第八十三章 忘却のかなた
第八十三章 忘却のかなた
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「仮面舞踏会?」
城のなかで、侍女たちの明るい声がした。
「そうよ!冬でなんだかしんみりしていたけれど、黄金に輝くライトを浴びた舞台で――仮面舞踏会なんて、素敵だわ!」
「フィリップ王子さま以来かしら?以前は恒例行事だったのにねぇ」
「あの行事のあと、しばらくしてフィリップさまがお亡くなりになられたからなぁ……それが、今年に再開か」
従僕のひとりも、休憩がてらに彼女らの話題へと入る。
「しっかし、アルさまも困ったものだね。大臣たちといざこざがあったって、城下にまで噂されているよ」
「まぁ、本当?」
「随分まえには、メディルサ大軍帝国に宣戦布告しなさったって噂もあったのでしょう?お母さまのお国なのに……戦になんてならないかしら」
「さあ。でも、大丈夫じゃないか」
「そうよ。なんていったって、お妃さまはベルバーニのお姫さまよ」
「ああ、きっと舞踏会ではおうつくしく飾られてくるのでしょうね」
「アル王子さまとのダンス、楽しみだわ」
うっとりと、侍女のひとりが言う。アルの外見は、やはりいつでも特別なのだ。
「でも、仮面舞踏会よ?もしかしたら、わたくしたちも……」
「ばかなことを!」
「ええ、でも、以前の舞踏会では、たしか王子付きの召使も踊っていたじゃない!」
「それはただの、アルさまの気まぐれよ」
明るい笑い声が響く。
「そうよね。だって今、その彼女は城を追い出されちゃったわけだし……」
「ああいやだ。わたくしたちは、王子の逆鱗に触れないようにしなくっちゃ」
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アルは、暗い部屋で身体を横たえていた。
カーテンで光を遮り、掌に顔をうずめる。なるべく、深い闇を欲して喘いだ。
仮面舞踏会をしよう、と言ったのは、シャルロ姫だった。
最近はしめっぽいものだから、すこしは活気をつけたほうがいいと。それに大臣らも大いに賛同した。貴族らとの連携もはかるほうがいい、と。
苦手だ。あの華やかさは、苦手だった。
舞踏会は、彼の母も好きな行事であった。きらびやかに飾られた母・ナイリスは、とてもこの世のものとは思えぬほどうつくしく、人々の脚光を浴びた。それでも、王の目を独り占めにするのは、いつも第一王子の母親であったのだが。
アルは気づいていないのだが、華やかな行事が苦手なのは、実は王も同じだった。だから一通り曲を聴き、時たま気まぐれに正妃・エレンディアと軽く踊ると、すぐに奥へ引っ込んでしまう。そんな変わった王だった。
(仮面、舞踏会……)
舞踏会は、フィリップ亡きあともちょくちょく行われていた。しかし、仮面をつけ、だれかわからずに相手をして踊るのは数年来になる。
仮面があるならば、抜け出すことも可能だろう。それが不幸中の幸いだった。
(……ぶとうかい)
以前、それを行ったとき、自分は踊るのがいやではなかった。彼女の着飾った姿は、今でも瞼の裏に焼きついている。
(ばかな)
アルはふるふると頭を振り、思考を遮った。
先ほどヌイストから受けた報告に、自分でも驚くほどアルは参っていたのかもしれない。胸を引き裂かれるような――いわゆる、嫉妬、というものなのだろうか。
(あいつと、いるのか……)
細くあけた視界には、闇しか映らない。それなのに、赤毛の少女とオレンジ色の髪の青年が楽しそうに笑いあう光景が、幻となって現れた。
ふと、過去の記憶が頭をかすめる――。
『仲良しごっこで命をかけるなんて、世話ねぇよな……』
その言葉が、彼に衝撃を与えたのはたしかだった。
だから決めたのだ。解放してやろうと。
アルの思考は、遠い、忘れたい、それでも忘れられない過去へと誘われた。
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*
そこは紅であふれていた。
「……ッ」
地に伏せている、数々の人間たち。長身のスキンヘッドの男は血だらけで喘いで、長髪のひょろりとした男は虫の息で、それぞれ意識も命もたしかではないまま、赤に染められ転がっていた。
そこからすこし離れた場所には、ハニーブラウンの髪の女性が同じく倒れていた。しかし、彼女の場合はぴくりとも反応がない。そのうつくしい顔はいまや真っ蒼になりはて、腹からはどくどくと血が流れ出していた。そして、なにより――彼女の横には、身に纏っているものと同じ騎士の制服が……それに袖を通したはずの腕が、転がっていた。
「……ぁ……」
彼女の足元に、ふたりの人物が立っている。いや――立っていた。
ひとりは、呻くようなかすれた声をあげると、ずるずると力を失い地へと倒れた。漆黒の髪が、血の色で赤黒く濡れている。
アルは、倒れた少年から剣を抜いた。銀が、鮮血でてらてらと光っている。
「……ふ、ぅ」
彼は、剣を取り落とす。そうして、自身も力なく地へ膝をついた。両手は真っ赤に染まっている。
そのとき――。
「な、なに……してんだ……?」
オレンジ頭の男が、目を見開いて立っていた。きっと騒ぎを聞きつけたのだろう。
彼は、血だらけで、瀕死の状態で倒れている同僚や上司から目が離せないのか、しばし硬直していた。しかし、すぐにその場でひとりだけ無傷の男へと目を向ける。
「これは……おまえが……?」
「そうだ」
その答えに、緑がかった灰青の瞳がさらに見開かれる。
「嘘、だろう……おい、なあ、アル!」
もしかしたら――ユリウスが彼の名を面と向かってきちんと呼んだのは、このときがはじめてかもしれない。
カッと頭に血の上った彼は、唸るような叫び声をあげてアルへ切りかかった。
反射的にだろう。先ほどまで手足のどこにも力をなくしたようなアルであったが、すぐに手元の剣を拾い上げるとユリウスの怒涛の一撃を受ける。あまりの力の勢いに体制を崩すが、咄嗟に身を引いて立て直した。
ユリウスの剣の筋に迷いはなかった。彼は、仲間を殺そうとした目の前の男に、容赦なかったのだ。
「なんでだ!どうして……どうして!」
「俺は――」
「なにをしている!」
そのとき、ようやっと城の衛兵が駆けつけてきた。アル王子を襲うユリウス――その場の人々は愕然とし、あわてて止めようとする。しかし、怒り心頭の、それもかなり腕のたつユリウスに敵う者はいない。止めに入ろうとした衛兵は次から次へとはらわれ、倒されていく。
アルも手一杯だった。もとより、もはや彼に殺気はなく、我を忘れて襲いかかってくるユリウスを止めることもできない。
「見損なった!なにがあったって、仲間を傷つける奴だなんて、思わなかった!」
ガガガ、と連続で撃ちながら、ユリウスは吠える。
「あいつらは、いつもおまえを心配していたのに!」
元来力技で押していくのが得意なユリウスだ。アルはみるみる追いつめられていく。灰青の瞳には、強い意志が垣間見える。チラとのぞく八重歯が、猛獣の牙のようだ。
「おまえは、たくさん拒絶するけれど、だけど――」
――そのとき、アルが見たのは、今にも泣き出しそうな――はじめて会ったころのような、気弱な瞳をたずさえた少年だった。
「だけど、俺たちはちがうと、信じてた!」
ついに、アルの剣が払い落された。みなが、息を呑む。
吠え、勢いを殺さず、一気にユリウスは剣を振りおろす――。
次の瞬間、オレンジ頭の男は、なぎ倒されていた。
「ランス、ロット……」
ほとんど喘ぐように発したアルの声。ユリウスの攻撃を剣ごと払いのけた彼は、主のかすれた声にもきちんと応えていた。
「お怪我はありませんか」
黒髪の騎士は無表情のまま、ぴしりと直立し、己の倒した男を見下ろす。
「頭を冷やせ。おまえは、今、だれに剣を向けた」
「……ランス、俺、は――」
「血が上って冷静さを欠くなど、あってはならぬこと。衛兵!」
冷たい騎士のまなざしに一瞬で我にかえったユリウスは、それでも複雑な表情で言い淀む。それにぴしりと言い放ち、ランスロットはうろたえる衛兵に声をあげた。
「はやく救護班を。怪我人の手当てを!」
彼の声に、一気に人々が動く。
「絶対に――だれも死なすな」
王子のピンチにきちんと間に合い、だれひとりとして止めることのできなかったユリウスを一撃で倒し、なおかつ的確な指示を出すランスロット。その場にいただれもが、思わず彼という人間に見入った。
騒然とした現場は、すぐに動き出した人々であふれかえる。
ユリウスは、暴れることなく衛兵へと捕まり、連れていかれた。
「……俺は、許さない」
最後に、つぶやいて。
「仲良しごっこで命をかけるなんて、世話ねぇよな……」
清々しいまでにも、皮肉的に笑ってみせて。
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たとえば、暗闇で思い出すのは記憶のなかの少年だったり。
たとえば、朝日を浴びて頭を過ぎるのはなつかしい彼女の言葉だったり。
たとえば、それはあまりに輝いていて、まぶしくて。真っ正面から直視するには、今の自分はあまりに汚れているように思えた。
ただまっすぐに、彼に忠誠を誓った。
ただ漠然と、彼らと過ごすのが心地よかった。
ただ純粋に、彼女に恋してた。
「暑……」
ランスロットは、じりじり身を焦がす太陽に手をかざしてつぶやく。木陰で馬を休ませているが、さっさとこの道のりを終わらせたいものだ。
カスパルニアから馬を走らせ、一ヶ月近く経ったはずだ。相棒が力尽きぬよう、スピードを調整するのが難しかった。
祖国では、もう雪が降りはじめているだろう。
(……必ず)
彼は伸びた黒髪をはらい、飲み水を口へ含んだ。
『アンタはそれでいいんだ』
『アルさまの傍にいてやりな』
目をとじれば、彼女の声がする。
『兄貴ってば、ホントに闘うの好きだよね〜』
『おい、俺と勝負しろ!』
『なに言ってんだ。おまえにゃランスロットは倒せん』
『そうですよ。まずは僕らに勝てないと』
浮かんでくる彼らの笑顔は、いつも鮮明だ。
(俺は――)
『ランスロットさん』
赤毛の少女が、不思議そうに問いかける。
『本当のアルさまって、どんな方なの……?』
(……アル)
『騎士なんていらない』
宝石のような、明るい青色がこちらを見つめる。
はじめて会ったあのときから、自分はこの瞳に捕われていたのかもしれない。
『今度はおまえが、傍にいてくれるんだろう……?』
――騎士なんていらない。
――どんな感情でもいいから。
――僕を、見て。
『ランスロット』
――ひとりにしないで。
「アル」
騎士は、ゆっくりと目をあけた。
(おまえをまたひとりにしたけれど……だけど)
指笛で馬を呼び、脚を止まらせることなくその背に飛び乗る。
(だけど、もう俺もおまえも、あのときとは違う)
駆ける馬。風を切って進む。
(おまえが傍にと望むのは、俺じゃないんだ――)
鳶色の瞳に、消えない決意の色が浮かぶ。
(それなら俺は、おまえのために走るよ)
遠く、砂漠の国までも。
(俺は――おまえの騎士だから)