第七十九章 オレンジに染まれ
第七十九章 オレンジに染まれ
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「なにやってんだよ、スー!」
「そ、そんなこと言ったって……ユリウスが悪いんじゃない!」
朝からさわがしいのぅ、とほほえましく赤毛とオレンジ頭をながめて、老師・イライジャは言葉をもらした。こんな朝は、通例になりつつある。
「おまえなぁ。普通、食事つくるところでそんなもん煮込むなよ!」
「だ、だって……鍋が必要だったんですもの」
がみがみと頭ごなしに叱ってくるオレンジ頭の青年に、スーはしゅんと肩を縮ませるも、すぐに勇ましく眉間に力を入れてみた。無論、やはり怖くて、すぐに視線を床へ戻したのだけれど。
老師からはたくさんの知識を得ている。薬草の種類にとどまらず、その使用法や保存法、投与法、どれくらい価値があるのか、どの国で重宝され、どんな地域では忌み嫌われているのか。それから怪我をしたときの応急処置法、はたまたちょっとした護身術まで習っている。
スーはやはり、耳がすこぶるよい。そのため、どの方向から攻撃を加えられるのかはわかる。それで一発目は反射的に避けることができても、彼女本来は鈍くさいために次の攻撃をされればどうしようもなく、手も足も出なかった。
たしかに、思い出してみてもそうかもしれない。ランスロットにまちがって切りかかられたときも、避けることはできたが、まぐれに近い。城で衝突があったときも、兵士に交じってはみたが役立たずだった。そう考えると、スーは幾度となく危機を幸運だけで切り抜けてきたのだろう。
いっそ、幸運でこれからも乗り切れるのではないか――そんな安易な考えすら、彼女の鈍い頭には浮かんでいた。
そんなこんなで、日々忙しくも充実していた。
「この薬草は採取後すぐに煮込まなければならないんです!」
「だから!なんで食い物と一緒に煮込むんだよ!」
「それは……き、気がつかなくて……」
「馬鹿か。もう食べられないじゃないか……この愚図」
ユリウスの言葉はぐさぐさと胸に突き刺さる。けれど、反撃できない。だって正当なのだ。
場所がなかったから、台所で嬉々として煮込んでいたが――それはもう、お伽噺の魔女のように――気づかぬうちに、食物も一緒に混ぜていたらしい。まったく、自分の愚鈍さにはあきれかえる。
落ち込みそうだ……気分が沈み、頭を垂れたスーに、ユリウスははぁ、と深くため息をつく。
「仕方ねぇな……ほら、行くぞ」
スーの手首をいきなりつかむと、ぐいぐいっと引っ張って歩き出す。変な悲鳴をあげそうになるのを堪え、スーはよたよたと足を動かした。
「あの、どこに」
「薬草、だめにしちまったんだろ。採りに行くぞ――リードル!」
掛け声に、犬はワン、とひとつ大喜びで応えてつづく。スーはただ、なにがなんだかついていけなくて、「あの、あの」と言葉にならない疑問を口にしていた。
たしかに、食物と一緒に煮込んでしまったため、あの薬草はもう使えない。だが、どうして――。
「暇だから。ついてってやるよ」
振り向きざま、そう言ったオレンジの髪の男。めずらしいことに、口元には小さく笑みが浮かんでいた。
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日が暮れるのがはやくなってきた。気がつけば空は朱を通り越して、紫紺色に染まっている。寒々とした空気が満ちており、おもむろにはいた息は白くのぼってゆく。
「もうすこし経てば雪が降り出すかもなぁ」
ぼそりとつぶやいたユリウスは、寒さで赤くなった鼻先をこすり、空を仰いだ。つられてスーも天を見る。
雲が闇にとけはじめている。遠くのほうでは、すでに星のちらつきもうかがえた。
雪が降る。季節がめぐってゆく。
昨年の今ごろ、自分はなにをしていただろう?
あたたかい部屋で、ふたりの侍女に囲まれて、そうしてフィリップの面影を求めて過ごしていたのではなかったか。
(随分と変わってしまったんだわ)
どうだろう。今の生活を、そのころの自分は想像できただろうか。
ふと自分の手に目を落とす。すこしだけ、かさかさとして荒れていた。植物を採取する際に刺にかすってできた傷もある。なにもせず、無垢に守られてきたあのころの手とはちがうのだ。
すこしだけ……ほんのちょっぴりだけ、スーは誇らしく思うのだった。
「そろそろ帰るか」
ゆっくりと歩き出す彼の背中につづき、スーも足を運ぶ。リードルも尻尾を振ってついてくる。
ここしばらくで、ようやっとユリウスという人間に怯えなくなっていた。
一緒に過ごすうちに、スーは徐々に彼のわかりづらい気遣いを知ったのだ。
たとえば極力スーと接点を持とうとしなかったのは、彼女が自分に怯えているとわかっていたから。たとえば食事でスーの好みのジャムがわかると、絶対にそれを絶やさないようにしてくれるだとか。寝坊しそうになった朝は、不自然なくらい大きな咳ばらいで起こしてくれるだとか。
今日もそうだ。街へ薬を売りに出かけた老師に変わり、スーとともに森へ薬草を採りにくるのについてきてくれた。暇だから、と言いつつ、獣道を避けて行ける道を教えてくれた。
だからもう怖くないのだ。ユリウスが顔をしかめるのはもはや癖のようなもので、やや弱い視力を補うために目を細めているだけなのだから。
わかればかわいいものだ。スーは彼に見えないように、小さく笑った。
「明日は大掃除だからな」
「はい。たしか、半年に一度するのが恒例なのですよね」
そうだ、と面倒くさそうに頷き、ぽりぽりと頭をかきながら、オレンジ頭の青年は言う。
「ありゃ、ジジイの趣味だな」
大きな欠伸をひとつ。
「俺には苦痛でしかねぇ」
そんなことを言って、案外ユリウスも楽しいのでは――スーはなんとか出かかる言葉を抑え、代わりに口元を緩めた。
空は、闇の色を濃くしていく。その様もきれいだけれど、スー自身は燃えるような夕焼けが好きだ。
自分の赤色の髪と同じ、生きる色。激しく、華やかに、ゆっくりと、底深くから練り上げる、どろどろを一瞬でカッと燃えあがらせた、そんな夕日の朱が好きだった。
隣を歩く男を見上げる。背が高い。がっしりとした肩幅で、『おとこのひと』なんだと、唐突に思った。
彼はどこか遠くをながめながら、無言で歩きつづける。
(この人の色も、燃えた色なんだ)
スーは彼のオレンジを見やって、思った。スーがうねるような燃える赤なら、彼はその激しさと落ち着きを兼ねたような橙。まるで、彼自身だ。
見かけは激しく猪突猛進にも思えなくもない。されどその実、裏では冷静で客観的に観察することができている。
きれいな、純粋な色だと思う。
スーは自分の赤にあこがれた。赤が励みであり、鼓舞してくれる色だった。けれど、スー自身が赤になれることはなかった。
彼こそ、深紅が似合う。汚れも戸惑いもない、純粋な色。
うらやましく思う。そして、どうして自分はこんなにもずるいのだろうと、唐突に胸が塞がる思いがした。
「……あの部屋は――」
ふいに、本当に小さな声でユリウスが言った。きっと普通の人間なら聞き逃してしまうだろうが、幸いなことにスーの耳は特別によく音を拾う。自分の暗い思考を一時中断し、首を傾げた。
「部屋が、どうかしましたか」
「えっ、あ、いや。なんでもねぇ」
彼もまさか聞こえるとは思わなかったのかもしれない。目をばっちりと見開いたが、すぐに頭を振って黙り込む。それからごまかすように、リードルの頭をひとなでした。
部屋がどうしたのだろう、という疑問は残ったが、気にしないでスーは彼の背を追った。
空には白らんだ月が、細く顔を出していた。
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ドンドン、と階下からの音でスーは目を覚ました。朝だ。
そういえば今日は大掃除の日だ……寝ぼけ眼をこすりつつ、のっそりと身体を起こす。まだ眠い。
せめてもうすこし、目がひらくまで……と再度身体をベッドへ沈めようとしたそのとき、勢いよく部屋の扉がひらかれた。
「寝るな!」
ええっ、と目をぱちくりさせ、一気に醒めた身体を震わせる。ユリウスが部屋へ入ってきたのだ。まるで、スーが二度寝しようとしたことがわかったみたいに。
「掃除は上からやらねぇと埃が落ちてくるからな。まず顔洗ってこい!」
「え、あの、着替えは……」
「着替えもって外へ出ろ。俺はおまえの荷物を外へ出すから」
言うなり、さっさと作業をはじめる。動かせるものはすべて外へ出してしまうらしい。
スーは日頃の彼への評価を変えねばならないかもしれない、とかすかに思う。デリカシーのカケラもないのだから。
けれどこれ以上ぐずぐずはしていられないらしい。ユリウスは沸点の低い男だ。スーは着替えとタオルをもって仕方なしに部屋をあとにした。
(本当に大掃除なのね。でも……)
おかしなことに気がつく。スーがくる以前は、あの部屋は掃除すらされていなかった。人が住んでいなくとも、大掃除の折にきれいにするはずではないか?
(おかしな人……)
顔を洗いさっぱりし、地下にあるイライジャの研究室――暗くじめじめしている部屋と、電球で壁一面を覆われぎらぎらしている部屋などがあるのだが――の一部を借りて着替えると、スーはさっそく自室をきれいにするためユリウスのもとへ戻った。外にはすでに戸棚やテーブルが出されている。
今日は小屋から出る予定はないため、鬘ではない赤毛のままだ。町からすこし離れており、めったに人などやってこないので、住まいのなかでは赤髪で過ごすようになっていた。
邪魔にならぬよう長い髪をひとつに結い、腕まくりをして気合いを入れ、自室の扉をあける。
「――ユリウス?」
入ってすぐ目にしたのは、屈み込んでいるオレンジ頭だった。しかし何事かと声をかける前に、彼は勢いよく直立すると、なんでもないと頭を振って動き出す。
「いいから。さっさと掃除しちまえよ」
「えっ、でも」
「俺がてめぇの部屋掃除すんのか?」
「そんな」
「だからさっさとやれ。俺はジジイと下の部屋にいるからな!」
視線を合わせようとしない彼に疑問をもったが、当の本人はそそくさと部屋をあとにする。残されたスーはひとり、呆然と見送るしかなかった。
(やっぱり、おかしな人)
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やめてくれ、というか細い声がこだました。
地下牢。びしょびしょに濡れた地べたに、男は身体を丸め、振るわせて許しを請う。
「なんですか。ダラシナイなぁ」
ケタケタと笑って、黒髪の男は顔を青くしている男の横腹を蹴りあげた。
うぐ、と咳き込み、男はさらにカタカタと振るえを激しくさせ、頼む、頼むと呪文を唱えるがごとくすがりついてくる。今や自慢の髭や高慢な表情もは見る影もない。
「あなたが悪いんですヨ?」
彼は、くすくすと唇に指をあてて笑い声をたてた。愉快そうな声音なのに、その眼には冷笑が見て取れる。
「言うこときいてくれなくちゃ。傭兵を金でつって脱走しようだなんて、勝手な暴走しないでくれます?」
大変なんですよー、お仕置きするの――彼は間延びした独特の喋り方で告げ、小首をこてんと傾げた。
「シナリオ通りに動いて下さいね。大丈夫、今すぐにあなたを殺すことなんてしませんよ」
屈みこみ、彼は男の頭を鷲掴みにして視線をあわせた。
「彼女の血筋で遊ぶのは、あなたの特権じゃない。ワタシのです」
ニタリ、と口角をあげる。それを目にし、男は頭から水をかけられたように押し黙った。
いや、引きつり、動けなくなったのだ。
彼は満足そうに呵々大笑し、踵を返す。
「それでは、そろそろ動きましょうか」
地下牢をあとにした黒髪が、楽しげに揺れていた。