第七十八章 妄動千々
第七十八章 妄動千々
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今日何度目かもわからないため息をはき、男は知らず知らずに肩を落とした。
「おい、しゃんとしろよ。グレイクさまに見つかってみろ、コレだぞ」
舌を出して首を切られる動作をしながら隣の男が言う。彼のふざけた表情を見ても、どうも気が晴れない。
新調された彼らの紅蓮色の制服は朝日にきらきらと輝いていたが、反対に気分は重々しく沈む。カスパルニアの衛兵として三年目になる彼だが、こんなに不安に駆られるのははじめてだった。
「たるんでいるって言いたいんだろ。わかってるさ」
「なら、私語を慎め。それともなにか?おまえ、門番っていう仕事がいやなのか」
贅沢な奴だと勝手に解釈しふんと鼻を鳴らした同僚を軽くにらみつけて、男は再度ため息をつく。
「別に不満なんてないさ……仕事にはね。ただ、ちょっと気になってるだけだ」
「もしかして、例の赤毛の娘か?」
声をひそめて尋ねてきた同僚に、男はかすかに頷く。
そう、下っ端の彼らにも、亡き兄王子の忘れ形見とも思える緑の瞳をもった少女――スーの解雇の話は聞き届いていたのだ。
「俺は応援してたんだぜ。あんなおっかねぇ王子さまに仕えてさ……あんな女の子がさぁ」
「だからおまえは言葉に気をつけろって。本気で首飛ぶぞ。……そう言えばたしか、おまえ赤毛の娘を最初に案内してたよな?」
「ああ。緊張に震えてて……可哀相だったなぁ」
かつての記憶にしみじみと言葉を発して、男は眉と肩を落とした。
「解雇なんて……ショックだったろうな」
「いや、むしろ晴れて自由の身になったんじゃないか?俺はそれより、ランスロットさまのほうが心配だね」
「遠征か。なんで騎士が国際問題に行かなきゃなんないかねぇ」
「王子さまはなにを考えてるんだか」
今度はふたり同時にため息をつく。見えてきた門の見張りという仕事をながめつつ、思いは別の場所へと飛んでいった。
時を同じくし、また別の場所で。騎士訓練所の休憩室にはふたりの男がうなだれ、落胆している姿があった。
「覇気がねぇ。これじゃあ、志気もあがらねぇ」
マイルドな声音で唸る男――グレイクは、声とは反して非常に恐ろしい形相だ。
腕組みをして壁に背を預け立っているもうひとりの男、ロイは、ゆっくりと頭を振った。
「たしかに。今この現状でランスロット殿の不在は痛いですね。兵士のなかでも困惑が広がっていますよ」
他国からのやってきた正妃、その彼女がもたらした国との関係は、今や小さな問題ではない。新しい大臣らは、彼女の祖国の力に魅了され、もはや手を組もうという動きになっている。ついこの間、時の大臣ルドルフによる暴動が起こったばかりで、新体制に入ってから日も浅いというものだ。刻々と復興に向かい、はた目からは頑強なカスパルニアに戻ったと見えていても、その実中身は伴っていないというものだ。騎士らの体制もできあがったばかり。攻め込まれれば、一年ももたずに攻め滅ぼされるかもしれない。
外の戦力の騎士と、内の支力の大臣たちは、お世辞にも仲が良いとはいえない。こんな状況で、騎士をまとめる主軸となるランスロットが抜け、左遷されたような形で地方へ向かわせられたことは、グレイクらにとっても信じられないことだった。
騎士に国と国との交渉をしろ、というのか?たったひとりで?
相手の国にとっても、侮辱を受けたようにはなるまいか。普通、国の大臣が数人を連れて行くのが、和睦を協定する際の習わしであった。それなのに今回は外交官も連れず、第一騎士とはいえ、単身でランスロットが赴いたというわけだ。
小さな不満が、広がっていた。アル王子に対する不信感とともに。
「それに城のお偉いさん方ときたら、兵力をここぞとばかりに集めているらしいぜ。そこいらで傭兵を見かけるしな」
「我々には情報もこないし……いったいアルさまはなにをお考えなのか……」
どちらともなくついたため息は、空虚なものに消し去られた。
しばし無言の時が流れる。ややあって、厳めしい顔をそのままにグレイクがつぶやいた。
「スーも……生きていればいいが」
眉間のシワを自分でのばしながらつぶやいたその言葉は、彼のシワをさらに深めただけだった。
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木の枝から葉が落ちた。すでに纏う色を失ったそれは焦げ茶色の土の上へと還る。風は冷たさを増し、庭園の花々は来春まで咲き誇ることをやめている。
まっすぐ庭園までのびた石畳の道を歩みながら、少女はにこにこと空を仰ぐ。しかし彼女の心持ちは表情とは裏腹で複雑だった。
いつからだろう。顔に心が現れなくなったのは。まごうことなき人形となってしまったのは。
ヌイストに声をかけられてから?それとも愛しい者たちを失ったから?いや――己の薄情と醜さを知ってからだろうか。
とにかく、彼女は心のどこかで喜びながら悲しみに泣いていたのだ。
しかし、咲かぬ花たちをながめ、ふいに興味を失ったのか彼女は途端に踵をかえした。
「……声くらいかけてくれてもいいのに」
「それは失礼。いささか無粋かと思いましてネ」
つぶやくようにこぼした彼女の声に応えたのはひとりの男。いつの間に現れたのだろう、彼女の隣に並びながらごく自然に歩き出す。
「ヌイスト、あなたって、とっても楽しそうね。そんなに蜜なのかしら……あの人の不幸は」
無表情に言った少女。ヌイストはくすりと声をたてて顔を覆い隠し、さも悲劇的だというように言った。
「まさか!こんなに悲しみに暮れているというのに……」
それともあなたは、あの娘が憎らしいのですか?――男はひくりと肩を揺らし、指の隙間から少女の表情をうかがう。
「そうね……そうかもしれないわ」
快調に進んでいた足を止め、少女は緩いウェーブの髪を振って男を見上げる。
「わたくしの名がシャルロとなってから、様々なことが憎らしくなってきたのかもしれない」
ヌイストを見つめる彼女の緑の瞳は空虚で、うつくしすぎて、生気がまるで感じられない。それでもその緑になにかしらの光を感じるのは、彼女の念が生半可なものではないからなのだろうか。
どちらにしろ、ヌイストにとってはどうでもよいことだった。
「アルさまは好きよ。時々あの人を思い出すから。だからわたしは、あの女の子がきらいなの――悲劇のヒロインぶっている、あの娘がね」
にこりと笑みをもらし、少女は再び歩を進めた。
「どうしてかしら。わたくしはあの娘が好きになれないの。たぶんね、たくさんの人から無条件で受け入れられているからよ」
「かつてのあなたみたいに……?」
「いいえ……いえ、そうだわ。そうかもしれないわね。みんなから愛されて、きっと……」
シャルロは手をかざし、笑みを深めた。
「いいわ……もうすこし、あなたのお芝居に付き合ってあげる」
人形劇は、まだまだ序盤。
ヌイストは満足そうにワインレッドの目を細めると、その場で軽く腰を折った。
そしてそのまま少女と反対方向に歩みはじめた彼の姿は――もはや先ほどまでの、『彼』という原形をとどめてはいなかった。
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王子の第一騎士がカスパルニア城をあとにしたと同時に城から姿を消した少女の噂は、水面下で波紋を広げるようにささやかれていた。
なぜ彼女が姿を消したのか、解雇されたのか――噂好きの侍中などは恋愛の三角関係のもつれではないか、はたまた第一騎士と駆け落ちしたのではないかなどと討論を繰り広げている。
そんな噂はどういうわけかなかなか消え去ることはないようで、騎士や大臣たちの耳にもいくらか脚色されて届いていた。
オーウェンはこれ幸いとアルに耳痛く小言を言い、アーサーなどは困惑を隠せそうになかった。アルの不機嫌はいつにも増していっそう際立った。
今日とて例外ではない。日常になった大臣らとの会議での論争に飽き飽きし、さっそく自室へ戻った彼は、肩を怒らせてベッドへ身を投じた。
カーテンもしめきり、光を遮断した部屋は音もなく彼を受け入れる。やさしい闇は彼を包み、彼の明るく輝くブロンドの細い髪をいっそう目立たせていた。
瞼をとじてしばし動くことを拒絶していたアルであったが、ややあって控え目に響いたノックの音に目をあける。
ノックはさらに二回つづき、それでも無言を貫き通す部屋の主に狼狽したのか、最後には軽い咳ばらいが聞こえた。
「あの……アル王子……ロイです」
いらっしゃるのでしょう?とつづけたノックの主の声にはいささか不快さが滲んでいた。居留守はやめておとなしく部屋に通せと暗に言っている男にやっと苦笑じみた笑いをもらすと、アルは重たい身体に鞭うって起き上がった。
「随分と幸福そうな顔をしていますね」
「貴公も厭味を言うようになったな」
開口一番にそう言って肩をすくめたロイに、アルもゆどみなく言いかえす。ひょろりと優男に見える彼は、アルの招きに応じて薄暗い闇の部屋へ躊躇なく入ると、自然な動作で明かりを点した。
「また引きこもるおつもりですか」
不満げに顔をしかめたアルに動ずることなく言ってのけたロイ。彼の纏う軍服の衿元にはきらりと光るバッチがある。
「今度こそグレイクも黙っていないでしょう……」
「そんなことより、なぜアイツがいるんだ?」
ロイの言葉をばっさりと遮り、アルは話題を変えた。しかしそれはありがちなどうでもよい内容ではない。アルにとってはずっと燻っていた解せない――いや、正確には触れたくなかった――話であり、ロイにとっては必ず尋ねられるだろうと予期していた質問であった。
「アイツ、とは?」
わざとロイは知らぬふりをしてみた。
「セルジュのことだ」
きっぱりと言い切ったアルの瞳には冷たく熱い光が灯っていた。
ロイには予想外のことだった。王子がこんなにも性急に疑問をまっすぐにぶつけてくるなど、予想だにしなかったのだ。
目を見開き一瞬言葉を失う騎士だったが、すぐにいつもの柔らかい笑みをたたえる。
「問わずともわかっているはずでは?」
アルはわずかに眉間のしわを深めた。されどそれとて、ロイの口を割らせるには至らない。
結局ため息を盛大にこぼした王子は額に手をあて、静かに肩を落とすことであきらめた。
それから彼らは当たり障りのない話をすこしばかりして別れた。ロイはグレイクのもとへ報告しに、アルは大臣たちのもとへ論争しに。どちらも気が重く、そして互いを羨むのだ――自分ならばずる賢い奴らを一掃し言いくるめることができる、自分ならば気が知れた相手に有無を言わせず納得させられる――向こうのほうが、自分には性にあっている、と。
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どうなされたのですかお坊ちゃま。
そんな声が口癖のようにささやかれる。屋敷内では公爵の息子付きの侍女たちがみな一様に心配の表情を浮かべていた。
辺境の地から便りをもらった公爵が息子を呼び、あることを告げたのはついこの間のこと。病に伏せっていた父が眉間にしわを寄せながら説明した事柄に、リオルネは表情をくもらせた。
「まだはやいとは思う。心苦しさもある……だが」
「いいよ父上。うまくやるから」
リオルネは強く頷き、弱々しい父の手を包み込んだ。
「僕に任せて」
大人になるのは、突然なのだ。いつの間にか、そうならねばならぬ時が向こうからやってくる。準備などしている暇はない。
本当は自分も責められるはずの立場だった。けれどカスパルニアではリオルネを、公爵家を許し罪を問おうとはしなかった。
リオルネには詳しい事情がわかっていない。ただクリスが今も冷たい地下牢に閉じ込められているということだけはわかっていた。
父から託された手紙を大事に懐へしまい、リオルネは唇を噛みしめる。
部屋を出るなり、「どうなされたのですか」とすれ違うたびに心配されるほど、彼の表情は固かったにちがいない。
それでも。
「馬車を出せ――カスパルニア城へ向かう」
従僕へきっぱりとそう命じたリオルネの眼には、もはや迷いはなかった。