第七十七章 あたらしい日常で
第七十七章 あたらしい日常で
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チチチ、と小鳥のさえずる音がする。まぶしい光がまぶたを照らし、チカチカした痛みでスーは目を覚ました。
最初に目に入ってきたのは、見慣れぬ低い木製の天井。隅には蜘蛛の巣がかかっており、いくぶん暗さがぬぐえない。
それでも気持ちよく目覚めされたのは、窓から差し込む陽の光があたたかで澄んでいたからだろう。
(起きなくちゃ……それにしても、いい匂い)
鼻をくすぐったのは、甘ったるい蜂蜜をかけたパンを焼いている芳ばしい匂いだ。スーは気分が高揚し、急いで着替えはじめた。
彼女に自室として与えられたのは、物置としていながらもめったに使われていなかった屋根裏部屋だ。それなりに広さはあり、きちんと部屋の役割をなしている。昔だれかが生活していたのであろう、今は使われていないベッドや木の棚など、簡素ながらもものが置かれていた。
その場を提供してもらい、スーの寝室としたわけである。
ぎしぎしと軋む梯子を下りていくと、すでに朝食は用意されていた。
「おはよう、お嬢さん。いい夢はみれたかい」
柔らかい笑みを浮かべた老人が声をかけてくれる。
はじめて彼に会った時、あせっていたこともあり気にしてはいなかったのだが、どうやら一発でスーが女であるとバレてしまったらしい。黒髪にし、男装していたのにそれも無駄になった。
ユリウスはスーが女であることに驚いていたようだが、今ではもう慣れてしまっている。スーは赤毛だけを隠し、黒髪の少女として過ごすことに決めたというわけだ。
「おはようございます、老師さま」
あいさつをかえし、できたての朝食の並ぶ席へとつく。
「あいつなら、今さっき出かけていったよ」
「あ、はい」
朝から見当たらないオレンジ頭を捜してきょろきょろとしていたせいか、老師がくすくすと笑みをもらしながら教えてくれた。恥ずかしくてうつむき返事し、それでもスーは気を取り直して食事にとりかかる。
「これはユリウスのお手製でねぇ」
老師は楽しそうに顔をほころばせ、朱く熟れた甘酸っぱい匂いのジャムをパンへべったりとぬりたくる。
「シマワジという木の実なんだが、凍らせれば苦い健胃薬になる。潰して砂糖で煮れば目覚めのよくなるジャムとなるんだ」
ほらお食べ、とシマワジ特製パンをスーへ手渡し、子供のような笑みで彼はつづけた。
「これも知識のひとつ。日常生活のなかで知識はたくさん転がっているんだ。ちょっとしたことが大きな成果となることもある……いいね」
こくんと頷き言葉を心にとめ、スーはパンを頬張る。鼻を満たすのは甘酸っぱい匂いで、けれど味は甘さが強かった。それでいてさっぱりとした後味。一気に眠気も吹き飛ぶというものだ。
老師の名を、イライジャといった。彼こそ、クリスの前任であり賢者と名高いカスパルニアの前医術師だ。
彼は城での勤めを終えたあと、ユリウスとともにひっそり城下で暮らしていたという。
住んでいるのは、イライジャとユリウス、それから一匹の犬だ。焦げ茶色の毛をしており、細身ですらりとした犬種で猟犬に相応しいらしいが、耳が垂れており威厳に満ちているとはいえず、どちらかといえばかわいい面構えだ。人懐こく、ぱたぱたと尻尾を振って走り寄ってくる様は実に癒される。
「リードル」
と、名を呼べば機嫌よくやってきて手や顔をペロペロと舐めるものだから、スーはくすぐったいような心地よさに包まれる。
彼らと過ごして、はや三日。スーにとってこれらの日々は新しいことだらけで非常に有意義であった。
朝は井戸へ水汲みに、朝食は意外なことにユリウスがつくってくれる。腹を満たしたあとは後片付けはスーがして、それが終わるとイライジャとともに森や山へ薬草を摘みに行ったり、または地下にある彼の実験室で図鑑をながめたり。ユリウスはリードルとともにどこかへ出かけていく。彼は夕方まで戻って来ず、また戻って来てもリードルだけであったり、逆にリードルの姿が見えないこともあった。
彼はなにをしているのか疑問に思うものの、イライジャに尋ねても「自分で聞いてごらん」と言うばかりで教えてくれない。彼本人に聞いてみようなどとは露とも思えず、老師に学ぶことがたくさんあることも重なり、結局彼のことはうやむやだ。
しかし、帰宅時に時々野うさぎや鳥を仕留めてくることもあったので、狩りでもしているのだろうと考えていた。それに彼はローザのファンだったはず。昼間には彼女のもとへ足を運んでいるのかもしれない。もうすこし彼との距離が狭まったら、大切な侍女たちの様子も聞いてみようと思う。
そんなわけで毎日忙しく充実した日々を過ごしている彼女は、だんだんと気持ちの沈みも薄らいでいくのがわかってきた。
追われる心配も、機嫌をうかがうことも、怯えもない。劣等感に潰されそうになることもない。
知識を得て、自分のものへとする喜び……それがなんのためなのか、動機すら忘れ、少女は毎日を生きていた。
新しいことへの驚きの三日が終わると、今度は慣れはじめた安穏とした日常が訪れる。
相変わらずユリウスはちょっぴり苦手だけれど、顔を合わせる時間もすくないし、あからさまにこちらを邪魔だと言ってくる意思も見えない。きちんと朝食も夕食もスーの分までつくってくれる。
要するに適度な距離を保ち、暮らしていた。スーにとって、それは非常にありがたいことで、どこか張り詰めていた緊張感がふっと抜けていったような気がした。
いつまでもつづけばいい、この穏やかな日々が――。
(本当に?)
しかし、一方で問いかけてくる自分もいた。
本当に、望んでいるのか。このまま、何事もなく、時が過ぎてくれればいいと?
ふっと浮かんでくる青い宝石のような瞳を頭から消し去り、スーはそのたびに唇をかたく噛みしめるのだった。
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それはスーが老師に弟子入りをしてから二週間が過ぎてからのことだった。冬の風が吹きはじめ、空気に痛さがまじってきたころ。冬の衣服を買いにユリウスに街まで連れて行ってもらうことになった。
その折にシルヴィとローザの様子をうかがい知ることができた。こっそり会った彼女たちは、なにも言わずにスーへ衣服やその他必要であろう日常品をくれた。どうやらユリウスが事前に話していてくれたらしい。びっくりし、ちょっとだけ彼がやさしいのではと思った。
長く話し込む時間はなかったものの、ふたりの元気そうな姿を無事確認できて、ほっとしたのもつかの間で……。
(やっぱり……怖い……)
ユリウスは終始無言、眉間のしわは深く刻まれたままだ。彫りの深い顔だったから、余計に怖い。
そんなわけで、心休まらぬ買い物が終わり、家へ帰宅したのだった。そしてその際、事は起こった。
「ユリウス、噂は聞いたか」
家へ入るなり、穏やかな老師がそう言った。
噂?と小首を傾げるスーであったが、ユリウスは理解したのかフンと鼻をならす。
「耳にはしたがな。所詮、奴もここまでの器ってことだろう」
俺には関係ないぜ、と挑戦的なまなざしで言い切ったユリウス。イライジャは浅くため息をつき、やれやれと首を振った。
「面倒な息子をもったものだよ」
「ユリウスさんは老師さまの息子なのですか!」
つい口が滑った。会話に入ろうなどとは微塵も思っていなかったのに、思わずスーは声を発していた。
威圧感たっぷりの若者と、穏やかで刺のない老人が血縁関係だということに驚いたのだ。
しまった、と気づいたときにはすでに遅く、ぎょっとしたふたりの眼がこちらを見ていた。
「――ちげぇよ」
しかしややあって、ぽつりとこぼされた言葉。後頭部をかきながら、面倒くさ気に、しかし律儀にもユリウスが応える。
「俺ぁ、もらわれたんだ。養子、みたいなもんかな……幸い、ジジイの腕はたしかだしな」
そのとき浮かんだ彼の口元の笑みは、はじめて見るものだった。スーは目を見開く。
イライジャは愉快そうにけたけたと笑うと、髭をさすりながらスーへと顔を向ける。瞳はどこか悪戯を思いついたような無邪気さがにじみ出ている。
「ワシはね、これでも護衛官として城で勤めていたのですぞ?」
アーサーさまはお元気でおられるかのぅ、とまた目を細めて、老師は遠い彼方の記憶をめぐるように頷いた。
スーといえば、仰天しすぎて声も出ない。
気をよくしたのは、老師ではなくユリウスのほうだった。
「ジジイとアーサーさまはそりゃもう、騎士のなかじゃ有名だったんだぜ?アーサーさまが隊長で、騎士を外でまとめ上げる。ジジイは護衛官として、城のなかの警備に尽力する。左右の翼竜と呼ばれていたんだぜ」
まるで自分のことのようにそう語る彼は、いつものツンとした威圧的な雰囲気ではなく、無邪気で子供っぽく、きらきらとしている。スーはさらに目をまたたいた。
「いやあ、ワシはアーサーさまには遠く及びはせんよ」
こちらも楽しそうに語る老人。アーサーよりだいぶ老けて見えるが、本当はもっと若かったりするのだろうかと、スーは変な方向に思考をめぐらせ、あわてて我にかえる。
つまりイライジャは、賢者と呼ばれるほど聡明で、魔術師と呼称を得るほど医術に長けて、はては第一王子の第一騎士と名高いアーサーと肩を並べるほど強い、ということなのだ。ずば抜けて豊かな才能を持っているのだ。
スーが新事実についてゆけず、目を白黒させている間にも話はつづく。ユリウスはけらけらと声をたてて笑った。
「ちがうぜジジイ。ランスロットの親父は見映えがよかった。ジジイは見映えが残念だった、それだけのちがいだ」
「おまえと同じにか?」
「俺はちがう!」
声を大きくして否定するオレンジ頭の青年に、老師はにやりと口元を歪めた。
「大丈夫だ。ちゃーんとおまえにも、剣の腕と見映えは遺伝しているぞ。心配せずともよい」
「俺とジジイは血は繋がってねぇんだ!剣の腕はともかく、見映えまで遺伝してたまるかよ!」
ムキになって首をぶんぶん振る若者。されど老人には面白おかしく映るだけだ。結局いいようにあしらわれてしまう。
(あら……まさか、ユリウスさんも……城で働いたことがあるってことかしら?)
ふいにスーは思い当たった。
そうだ、彼は軍人のような体格をしている。それに、剣術には自信があるらしい。たぶん、イライジャが認めるくらいには。
「あの……ユ、ユリウスさんって……?」
会話から、彼がランスロットの顔見知りであることはわかる。つまり、だ。彼もアルを知っているのだ。
――アルさまを、ご存じですか――
その問いは、決して少女の口からこぼれることはなかった。
代わりに、「城で働いたことが?」という単純な疑問しか出なかった。
「ああ。まあな。最初は商人の息子だったけどな。腕っぷしがいいっていうんで、ジジイに引き抜かれてなァ。騎士なんてやってたけど、戦で親を亡くし、天涯孤独――で、ジジイの養子」
淡々と己の過去を述べる彼は、さもどうでもいいことだと肩をすくめた。
そして。
「おまえは?」
今度は、スーが尋ねられる番だった。
「ランスロットの紹介って言ってたけどよ、実際、城でなにしてたんだ?」
急に、目の前が真っ白になる。
イライジャにも、詳しく聞かれはしなかった。彼にとって身元はどうでもいいことらしかったので助かったが、しかし。
今、スーはカスパルニアの大臣に追われている身だ。変装しているとはいえ、その実は追い出された身だ。それを口にしていいのか?
「わ、たし……わたし、は」
切れ切れになる言葉がもどかしい。まっすぐな視線が痛い。
スーはやっとのことで、言葉を口にした。
「わたしは、その……看護、見習い、で……」
どうしても、言えなかった。言いたくなかった。
追われている、それだけが理由ではない。
アルの、召使だった――その言葉が、出てこなかった。