第七十三章 別れと再会
第七十三章 別れと再会
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「スー!」
ふいに背後から声がかかった。振り返らずともだれだかわかってしまい、スーは一瞬戸惑ったが、しかし、すぐに気まずさを飲み込んで声の主のほうへと顔を向けた。
黒馬が駆けてくる。乗っているのはもちろん、王子の第一騎士のランスロットである。
彼は少女の隣まで馬を進めると、さっと地におり立った。そしてそのまま、勢いを殺さずに赤毛の少女を抱きしめる。
「ランスロットさん……?」
驚きと戸惑い、そしてキスされかかったときの記憶が思い起こされ、自然に声が震えた。だが、ランスロットはそれすらも包み込むように、強くやさしくスーを抱き、声を発する。
「すまない……俺のせいだ」
彼の表情はうかがえない。
「俺は、スーのことが好きだ。でもそれは妹に抱くような感情だと思ってたし、今もそう思ってる……あのときは……どうかしてた」
俺が俺じゃないみたいだったんだ、と彼はつづける。
「スーのことが大切だ。アルのことも大事だ。だから……」
「ランスロットさん」
抱きしめられて、ランスロットの匂いが鼻を満たす。つんとした、けれど安堵に包まれる匂い。
スーは力をすこし込めて身体を離し、騎士の瞳を見つめて言った。
「わたし、ランスロットさんのことが好きです。……フィリップ兄さまとはまたちがった、兄を持った気分です」
不安に揺れていた鳶色の瞳が、徐々に定まってゆく。スーはゆっくりと、笑みをつくりながらつづける。
「アルさまって不思議な方だと思うんです。わたしはあの方に自分がどんな感情を抱いているのかはわからないけれど……でも、『どうでもいいや』とは思えない」
スーは言いながら、自分の思いを知った。
わからなかった。アルに冷たくされて悲しくて。必要とされないならばと振り切ることもできた。それでもアル王子と関わっていたかった。
居場所がほしいと、ここしかないのだからと王宮へあがったはずだった。それがいつしか、ここに居場所をつくりたいと思った。
(居場所をつくるのは難しい。望むところを居場所にするのも難しい)
今はなにも考えられない。これからどうするかもわからない。
ただ、これでアルとすっぱり縁を切ることは、嫌だった。
ランスロットはしばし黙っていたが、やがて軽く笑みをもらして口を切った。
「城下街に、おまえの知り合いがいる」
言うなり、彼は一枚の紙切れをスーへ押しつけた。
「ここに居所が書いてある。すぐに見つかるはずだ」
驚く少女に、ランスロットは笑みをもらすが、次の瞬間には真面目な顔つきでつづける。
「俺はこれから他国へ赴く――アルの命令だ」
冷たい風が、ひとつ吹いた。
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王都・スリラガナ――カスパルニア王国でいちばん栄えている都市。南には東にかけて長い川が流れ、さまざまな店が連なり活気だっている。しかし、北西の奥まった、森に近い郊外は廃れ、どちらかといえば仕事のない人間や貧しい人間たちが住んでいる。幼いころ学んだ地理歴史を思い出し、スーは頭に反芻した。
以前、牢獄に捕らえられたとき、ランスロットともに逃亡する道に選んだのは、鬱蒼と繁る森だった。そこは簡素であるが整備された道があり、やがて海へとつづいていた。
今、スーは正反対の方面へ足を運んでいる。ランスロットから渡された紙に記された場所――スリラガナの街へ向かうために。
林を抜け、しばらく歩くと見えてきた街。どこからか愉快な音楽が流れ、商品を並べて人々が声を張り上げている。
たしかにそこは賑やかであった。
スーはしばし足をとめ、街の入口に佇む。正確にいえば、なかなか勇気がなかったのだ。これからの新しい生活に、不安しかないのだ。城とはまったくちがう人々のなかで、果たして自分は生きていけるのだろうか?
(だけど……)
目をあげる。城の人間とはちがう、どこかがさついた雰囲気。豪快に笑い、声を出している様は、荒々しいようなこの賑わいは、まるで海賊の宴のよう……。
スーは気合いを入れ、軽く息を吸い込んだ。
(わたしは、大丈夫)
落ち込むまえに、なにかしよう。このままずっと暗い気持ちでいることは、自分の望みではないのだから。
(それにしても……わたしの知り合い?)
ランスロットが言っていた、『おまえの知り合いがいる』という言葉を思い出す。が、城下に自分の知り合いがいるとは思えない。
これからどうしようかと考えなければならないし、とりあえずランスロットから渡された紙の示す場所へ行こうと決めた。
(城下といえば)
そして、ふと、スーの記憶をかすめた言葉。彼女の海馬が憶えていた内容――「前任にかなり腕のいい医師がいました……賢者と呼ばれる男でしたよ」
暗い空間で、赤い目がささやいた。
――「知識を得るには師をもつのがいいでしょう。彼は今も城下でひっそりと暮らしているはずです」
(その方も……いるのかしら……?)
と、そこまで考えて、スーの思考はにぎやかな声にかき消された。
「どうだい奥方!この漆なんて最高じゃないか!」
「これは東南から渡ってきた珍しい代物で……」
「できたてだよ!ほら、買った買った!」
「新しい衣が入ったんだ。見ていかないかい?」
商人という生き物は実に威勢がいい。そして口がなんと達者なことか。張りのある耳に心地よい声で道ゆく人々を引き付け、どんどん品物を売ってゆく。スーも何度か声をかけられたが、軽く会釈をしてそそくさと通りすぎた。
本当はじっくりと魅力的な品物をながめてみたい。しかし、買う余裕などないのに店の前に佇むことは憚られる。だから仕方なしに、遠目からそれらの商品をながめて楽しむこととした。
あの箱はなんだろう?あの赤い果実はなんておいしそうなのだろう!ああいう衣服の手触りはどのようなのか……!
見ているだけでも、スーの目には真新しいそれらは輝いていて、ひどく興味をそそられる。
すっかり落ち込んだ暗い気持ちなど忘れ、少女は忙しく左右に陳列する出店を見ながら道を進んでいった。
もうひとつ気づいたことは、街の人々はとても速足だということだ。城の人々とはまるでちがう歩き方。
城から出たことははじめてではない。以前、海賊たちとも過ごした。だが、こうして国民の実際の生活姿をゆっくりじっくり観察することはなかったから、新しい発見も多々あるのだ。
スーの受けた印象は計り知れない。ただ、なんと明るく強いのか……そう思った。
戦争がはじまるかもしれない、と民衆が大移動されたのはつい数ヶ月前のことだ。あのときはクリスの策略であったものの、それから民らはいつもの生活にすっかり馴染んでいるようだ。
なるほど、世の中にはしたたかな人間が多いのだ。
(……すごい)
こうして見ていると、やはり自分だけが異質のように思えてくる。たとえば、物語を絵本でながめているような気分だ。絵本をながめる人間は、物語のなかの住人になったような気がしても、ふと我にかえれば決してそんなことなどできないと気づく。
スーにはすべてが現実味がなく、遠退いていくように感じられた。
しばし歩いていくと、一際賑わっている店が見えた。老若男女問わず、多くの人々が笑顔でその出店の前にいるのだ。
思わず、といった感じで興味をそそられ、スーはなにを売っているのだろうと人垣からのぞきこむ。
どうやら花屋らしい。
(それにしても、どうして花屋にこんなに人が集まるのかしら?)
不思議に思い、さらに店に近づく。客が話している声に耳を傾けてみた。
「えーっ!今日は花屋のお姉ちゃんいないの?」
「ちがうわよ!林檎を買いに行ったのよ。もうすぐ帰ってくるって、さっきお母さんが行ってたじゃない!」
「ほら、騒がないの。お姉さんが素敵な物語を聞かせてくれるって言ってたでしょう?」
「うん、約束した!」
にっこり笑う少年。会話をしていた親子は、さらに隣にいる別の親子と話しはじめる。
「そういえば、この前教えてもらった店に行ってみた?」
「ええもちろん!花屋さんの言うことは正しかったわ」
「ふふ。わたしの家の近所に住む若い娘たちなんかは、いつも恋の相談をしているらしいの」
「へえ。今度夫のことでも相談してみようかしら」
次に耳を傾けてみたのは、お年寄りの集団の会話だ。
「わたしゃ……ここのお嬢さんに手当してもらってから、そりゃあ足がよくなってねえ」
「わしも腰が痛くなくなったわい!」
「まるで女神じゃのう」
「うちの馬鹿息子の嫁にきてくれんかのぅ」
声高らかに笑う彼らは実に快活だ。
次にすこし視線をずらすと、今度は若い男衆がむらがっていた。どうやら彼らの中心にだれかいるらしい。会話の内容からして、口説いているのは明白だ。
「なあ、そろそろ俺とデートしてくれよ」
「いや、僕と!」
「そんな男より、俺のほうが財産があるんだ!」
「それを言うなら、俺のほうが……」
こんなにたくさんの人々を虜にしてしまう女性とは、なんとすごいのだろう。スーは目をぱちくりさせる。
「ああ、君は僕の天使だ!」
「うるさいおまえら!彼女は俺の……」
「いやいや俺の……」
髭を生やした男が、うっとりと歌い出す。次には前髪をかきあげた男が花束を差し出す。
「なあ、僕とデートしてくれ!」
「君のことが好きなんだ」
小太りな男が汗をたぎらせ叫ぶ。がっしりした身体の男が笑顔をふりまく。
「僕と一緒に……」
「俺がなにか買ってやるからさ!」
「そろそろ付き合ってくれよ」
「俺と出かけようぜ、ローザ!」
オレンジ色の髪が目立つ、八重歯の男が一際大きな声で言った。
(――ローザ……?)
スーは目を見開く。
まさか、そんな。
動けなかった。頭が一瞬で真っ白になり、耳も音を拾わない。
ぐるぐる回る世界で、目が、その姿をとらえた。そのとき。
ガシャンと、なにかが割れる音。そこにいた人々がいっせいに音のほうを向く。
スーもつられるように振り向けば、足元にごろごろと転がる赤い果実に目がとまった。
「……スー……?」
拾おうと伸ばした腕。屈んだ頭上に響く、声。
(わたしは知っている……この声を。あの顔を)
目があげられない。涙腺が緩む。
ランスロットが言っていたのは、『彼女たち』のことだったのだ。
「スー!」
男衆のなかから、人をかき分けるようにして必死に飛び出してきた女性。そして、持っていた袋を投げ出し、林檎が転がることもいとわず自分をしっかりと抱きしめる女性。スーは、彼女たちを知っていた。
「シルヴィ……ローザ……」
言葉がつづかない。
それは、久しぶりの安堵だった。