第七十一章 開幕・愛憎の人形劇
第七十一章 開幕・愛憎の人形劇
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スーは戸惑っていた。どうしてだろう。
そして同じようにまた、愕然とした。なぜ、なぜ、なぜ。
そこは白と黒を基調とした部屋だった。床には真っ白な羽毛の絨毯、丸い小さなテーブルは黒く磨きがかかり、カーテンには白と黒のレースがあしらわれている。二色の世界に思わず衝撃を受けた。
アル王子の妃がお披露目されるのは、三日後のパーティーで、ということになっていた。その話を侍女頭から聞いたのは昨日の夜。城のなかはどんな女性なのかと噂で色めきたっていた。
スーは戸惑う。自分の感情がよくわからないのだ。
『妃』という単語を耳にするだけで、胸の内にもやもやと吐き気をもよおすような気持ち悪さが襲ってきて、気がつけば眉間にしわを寄せている。たぶんこれは独占欲なのではないかとは思うが、それでも信じられなかった。
だから、スーは独自の結論を探すのだ。フィリップのときは、相手がドロテアという人だと、彼女が好感のもてる人間だと知っていたから、きっとこんな感情を覚えなかったのだ。アルの相手はわからない。だからこんなに、苦しいのだ、と。
(だめよ。アルさまの召使だからって、主を取られた気分になっちゃいけない……)
どんなに言い聞かせても、沈む気分はどうしようもなかった。
そんな彼女が、『お妃さまが到着なされたら、おもてなしをしろ』と命じられたのは今朝のことだ。お披露目パーティーまでは内密らしく、出迎えも派手にはしないらしい。そこでアル王子の召使という役柄の彼女があてがわれたのだ。
幾分の緊張と不安を持ち、されど挑戦的なまなざしをして、スーは歩みを進める。
そして――白と黒を基調とした部屋に入り、そこにたたずむただひとつの異色を目にしたのだった。
赤、だった。
白と黒のなかに、激しい色がいた。血のような真っ赤なドレスに身を包んだ、小柄な少女がいた。ふんわりとした髪を優雅にはらい、彼女は振り返る――。
愕然と、した。衝撃的だった。
「コンニチハ、スー?」
アル王子の婚約者、シャルロ姫は謎に包まれている。出身国もなにもかも、明かされるのはお披露目パーティーで、だそうだ。実際、王子にすらまだ会っていないらしく、この城へ来てまともに話したのはスーであると言われた。
彼女は赤いドレスから水色の淡いドレスへと着替え、今は紅茶をすすっている。
部屋に入るなりスーが衝撃に硬直しているのを満足そうに見やった彼女は、すぐにほほえんで自己紹介をした。スーもなんとか名を名乗ったものの、目の前の彼女が信じられなかった。
そんなスーにもお構いなしに、彼女は「着替えるのを手伝って」と言う。なぜだろうと首を傾げると、彼女はうれしそうな声音で、「アル王子にお会いしたいから。『赤』色なんて、気味が悪いわ」と柔く微笑を浮かべて答えた。
ぐっとスーは唇を噛む。
『赤』は自分の髪色なのに。それはアルにとっても『気味が悪い』ということなのだろうか。
もやもやは増す。なんとか耐え、着替えを終えたシャルロ姫に紅茶をすすめ、今は彼女の脇に控えている、という状態である。
それにしても、スーは落ち着かない。
それもそうだろう。アルの妃として迎えられたシャルロ姫は――彼女の瞳の色は、深い緑であったのだから。
見間違えるはずがない。なぜなら、その緑はスー本人が持つ瞳の緑と、まったくといっていいほど同じものだったのだから。
(この瞳の色は、血族の証……)
けれど、とスーは思う。そんなはずはない、と思う。だが……シャルロ姫はラベンの国の王族なのだろうか?
(ちがうわ。だって、わたし以外に生き残りはいないはず)
スーはぐっと唇を噛み、わずかに頭を振る。幼いときの記憶が曖昧になっていることがなにより悔やまれた。
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頭がぼうっとするのは、なぜだろう。足元がおぼつかない。ふらついてしまう。
スーは自分がどうやってシャルロに接待したのか、どうやって廊下を歩いて自分の部屋まで帰ってきたのか、わからなかった。気がついて我にかえれば、彼女はすでに寝巻に着替え、窓から月をながめていた。
寂しい、などと思いたくはない。
明かりもつけず、暗闇の部屋には、ほのかな月の光だけが浮かびあがっている。ふわりとしたその光は、少女の蒼白でぼんやりした顔を照らしていた。
(ああ、そうだ――)
そこで、スーはふいに思い出す。シャルロ姫の部屋から去り、廊下を歩いていたときに起こったことを。いっそ忘れてしまいたかった。
足が自室へ赴いていた。そこで少女の目は、彼を見つけた――オッドアイの、青年を。
スーはよろこんだ。手放しでうれしかった。
冷たく、動くことをやめた彼はもういない。そこには、きちんと自分の意志で動いて、息をしているレオンハルト王子がいたのだから。
しかし――スーはよく憶えていない。彼となにを話し、どんなことをしたのか。
いや、正しくは思い出したくないのだ。受け入れたくない事実に、いきなりの状況の変化についていけないのだ。
ただ、どうしても消し去ることができない記憶に残っているのは、なにも映していない冷たいまなざしをこちらに向けて、身も凍るような声音で告げるレオの姿だった。
「気をつけて――俺は、君を壊すかもしれない」
すれ違いざま、耳にささやかれた声。その言葉は、スーを拒絶していた。
どうして。みんな、どうしてしまったの。
ランスロットの様子がおかしかった――スーにキスをしようとした、あの日。あれ以来、彼はスーに近づこうとはしない。アルにはまだ彼とのことを誤解されたままだし、なによりあの日からスーをそばに置こうとしない。
周りはスーを正妃になろうとする身分をわきまえない小娘だと称し、はたまた危害を加えようとしてくる。
そして、今回はレオだ。いったいなにがあったというのだろう。
(こんなことなら、兄さまについていけばよかった)
白んだ青白い月は、満月に近い。欠けた個所から、徐々に闇が広がり、光の月を食いつくさんとしているかのよう。
スーは窓を閉め、錠をかけるとベッドへもぐりこんだ。
(居場所なんてつくれなかった)
きつく目をつむる。あるのは、暗い闇だけ。
たしかに今、スーは孤立していた。居場所がないなら自分でここにつくるだなんて、そんな自分勝手なことなどできそうにない。
(アルさまが望んでくださらないなら、わたしにはその資格すらないんだわ……わたしは、そんな身分じゃない……そこまで強くはないもの)
どうしようもない。堂々巡り。
瞼の裏にちらつく、青い瞳。それから、自分と同じ色をした、あの、緑の瞳――。
(いやだ。いやでいやで仕方がない――)
「お嬢チャン、起きている?」
ハッとして、スーは目をあける。頭は一気に冴えわたった。
あわてて身を起こすと、そこにはにんまりと笑みを浮かべる女がいた。ランプを片手に持っているため、彼女がだれなのかすぐにわかった。
いたずらな、けれどどこか艶やかな雰囲気のある――デジルであった。
彼女は指をたてて唇へ寄せ、「静かにね?わたしは話がしたいだけなんだから」と言うと、遠慮もなくそっとベッドに腰かける。
スーは気が気ではない。デジルは今、牢獄に繋がれているはずではないのか?なぜ、ここにいるのか。まさか、捕えられた腹いせに、復讐しようとしているのではないか?
しかし、スーの心配は杞憂に終わったらしい。
「まずね、時間がないからわたしが話すから、アンタはよく聞いていて」
ニッと口の端をあげ、赤い唇が孤を描くのを、スーは頭の片隅で「キレイ」だなんて思っていた。
デジルは口を切る。
「王子さまに、条件付きで釈放してもらったんだ。ほら、今の大臣たちって能無しでしょう?だから、偵察だとか、監視だとか、そういう影っていうのかな……密偵みたいな、裏諜報員の役割をわたしがするの。そういうの得意だし、雇われるのは不満じゃないし」
そこでいったん言葉を切り、けれどすぐに彼女はつづける。
「でね、王子さまの条件は、『罪人デジルは牢獄で死んだってこと』、『どんな仕事でもすること』、『情報は漏らさないこと』……まあ、その他もろもろ。だけど、わたしは最初から雇われ稼業だし、金で動く分、裏切りの心配はないってことで……」
でもね、とデジルはスーの頬に指を滑らせた。
「わたし、お嬢ちゃんのこと気に入ったの。だってあの子も、アンタのこと気に入ってたみたいだし……ね、ティティ?」
言うや否や、デジルの懐から一匹の小猿が這い出てきた。くるりと尻尾を揺らし、満足げにデジルの頬にすりよる。見るからに懐いていた。はじめて会ったとき、彼女はティティにひどい仕打ちをしたにも関わらず、だ。
驚きに目を見張るスーに、彼女はにんまりと笑む。
「ふふ。あの子が唄を歌うのが得意だったように、わたしは獣を扱うのが得意なの……人には向き不向きってモンがあるでしょう?」
賛同するように、ティティもキィッと声をあげる。
「お嬢ちゃんってさ、うじうじするのが得意でしょう。ノロマだし、どんくさいし、正直苛々するの」
言葉が出てくるたび、スーは落ち込みたくなった。それは仕方ないだろうが。
「でも、それでもなぜか気になる。見ていて飽きない気がする。とってもおもしろそう」
――お嬢ちゃんのまわりで、嵐が起こる予感がするんだよね――
デジルはそう言って笑う。そのままおもむろに立ち上がり、最後とばかりに笑みを濃くした。
「あの子――リア……今はドロテアかな。とにかく、あの子にもし会えたら、『わたしはわたしの道を生きている』って伝えてよ。それから、この子はもらっていくよ」
この子、と呼ばれたティティは、当然のごとくデジルの肩にのっている。そしてスーがなにか言う前に、彼女らの姿は闇にとけていた。
「なにかあったら、助けてあげる――ティティの代償にね」
そんな、言葉を残して。
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翌日からのことを、スーは忘れたいと思った。こんなに憂鬱になったのは、はじめてアルの召使として働いてきて以来だ。
アルの世話係、という名の召使として王宮へあがり働いてきたが、ここへきてついに役職名が変わりそうであった。『アル王子の』というよりも、『アル王子の妃の』にである。
朝からスーは呼ばれ、特になにも用事はないのに、傍にいるよう命じられた。時折気が向いたら話しかけられたが、すべてスーの傷を抉るようなものだった。
「アルさまって素敵ね。わたくしに笑顔を見せてくださるのだけれど……」
「ずっとあの方の隣にいられるなんて、幸福だと思わない?」
「今夜も夕食をご一緒するの。いつか仮面舞踏会を開いてくださるんですって」
いわゆる、惚気話のような類いだ。
「あの青い瞳に見つめられると、動けなくなるわね」
「すこし冷たいところもあるけれど、でも、本当はやさしいお方ね」
「ああ、はやく正式に彼の妃になりたいわ」
すべてに、スーは「そうですね」と相槌をうつ。表面的に浮かべる笑顔とは裏腹に、心はぐちゃぐちゃだ。
彼女はこれからもずっとアルの隣を歩いていくのだ。ずっと。
長い年月がある。いつか、心を完全に開くときがくるのだろう。そうして、笑みを見せるのだろう……自分と同じ目をした、しかし、自分ではない、目の前の彼女に。
スーはそう思うと、笑みがこわばってしまうのを感じた。それでも、引きつる笑顔はどうしようもない。
どうしようもないのだった。
「あら、アル王子さま」
突如シャルロはすすっていた紅茶を置き、うれしそうに声をあげた。彼女の視線を追って扉のほうへ顔を向けると、そこにはスーには久しく感じられたアルがいた。
すぐさま立ち上がり、彼女はアルへと近寄る。見るからに嬉々とし、周りには花が咲き乱れるような笑みを浮かべて。
そうして腕を絡ませ、彼女はうっとりとして言葉を紡ぐ。
「わたくし、寂しかったわ。お話したいことがたくさんあるのよ」
「ああ」
ぶっきらぼうだ。だが、それでも彼は彼女に応える。――偽りの仮面すら、付けずに。
それはどういうことだろう。アルは彼女に心を許しているというのだろうか。
「会議が長引いてしまったんだ……お詫びに、甘いものを用意させたんだが?」
「まあうれしい!」
さっそく行きましょう、とシャルロは目を細める。ふたりはぴったりとくっつきながら部屋を出て歩いてゆく。召使はそれを見送るしかない。
スーは彼女らを追うように部屋を出ると、扉の前でそのまま頭を下げて、ふたつの姿が遠ざかるのを待った。しかし、やや歩いたところでシャルロ姫が振り返った。
「スー、部屋にお茶を持ってきてね」
にっこりと笑う、人形のようにうつくしい姫――深い緑の瞳は笑う。
(なぜ!)
かっと、頭に血が上った。こんなこと、今までに経験したことがないかもしれない。
(なぜわたしが、あなたに命令されなければならないの!)
どす黒い感情が胸に巣くう。それをなんとか押し止め、スーは再度軽くお辞儀した。
「……かしこまりました」
ゆっくりと、ふたりは去ってゆく。やっとスーが頭をあげたとき、もう廊下にはだれもいなかった。
今度は途端に、苦しく寂しいような、絶望的な感情に苛まれる。
(……アルさま)
王子は一度として、召使に目を向けることはなかった。




