第七十章 仕組まれた罠
第七十章 仕組まれた罠
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裏切られた――そうと言うには、いくぶん語弊がある。けれど、アルはたまらなく胸が引き裂かれそうだった。
彼女にキスをしようとしたのは、はじめてではなかった。だが、避けられたのははじめてだ。そのことが、ひどく自分を動揺させる。
だれにでも口づけをするわけではなかった。随分勝手であろうが、アルはその行為をスーが拒まなかった――というより、アル自身は気づかないのだが、実際は避けることができなかっただけのときもあったのだが――ことによってどこか安心していたのだ。
(ああ、なぜ、俺はこんなにも苛立つ)
裏切りなど、どうでもいいことではないか。最初から自分はひとりだったのだ。あんな娘に惑わされるなど……。
(でも、あいつは俺の奴隷だ。なのに、勝手にランスロットと……)
よく見えなかった。しかし、アルには彼女らがキスをしているように見えたのだ。
拳を握る。胸が、張り裂けそうだった。
自室へ戻ると、当然のようにソファに座る男がいた。モノクルをかけ、悠然と足を組んで、彼はこちらを振り仰ぐ。
「やあ、おかえりなさい」
それから眉をひそめる王子に、男はくすくすといやな笑い方をして口をひらく。
「ね、言ったとおりでしょ~?」
「……どうでも、いい」
そう。アルがスーたちを見つけたのは、偶然ではなかった。
書類整理に追われる最中にヌイストがやってきて、何事かと思えば「王子さまの赤毛ちゃん、浮気してますよう?」なんて言ってきたのだ。一瞬頭が真っ白になったが、アルはすぐに立ち上がると、ヌイストが示す場所まで早足で部屋をあとにしたのだった。
自分でもよくわからない衝動であったが、抑えることはできなかった。
ヌイストはしばし押し黙る王子を無遠慮にもじろじろながめていたが、やがてクスリと声をてて笑みをもらすと、ゆっくりと立ち上がる。なんだと顔をあげたアルのすぐ目の前までやってくると、彼は白い陶器のようになめらかな王子の頬に手をかけた。
「その顔、すごくイイですよ?やっぱり、人形はこうでなくちゃね?」
「さわるな」
ばっと腕をはらって距離をとり、アルは警戒の色を強める。目の前にいるこの男の考えていることはよくわからない。
いつから、自分はこんなにも弱くなったのだろう――ふいにアルは思う。
以前はそれなりに恐怖を家臣に植え付けることで、威厳のようなものを保っていた。それこそ形でしかない王子だったのかもしれないが、ひとにらみすれば衛兵はびくりと肩を縮めて目をそらす。母親譲りの美貌もうまく働いて、家臣と彼の間には壁のようなものがあり、王子という存在は近づきがたいという印象を与えて、それこそ地位に守られていたのだ。
しかし、今は。
オーウェンたちの横暴に頭を悩ませ、ヌイストの言葉に惑わされる。はては召使の娘ごときに困惑し――。
(俺は、こんなことで心を揺らしていいわけじゃないのに)
わからない。自分のことが、なによりわからなかった。
今まで政治をないがしろにし、ルドルフに任せていたツケが回ってきたのだろうか。自業自得だと言われればそれまでである。
王になるのは、簡単ではない。地位ばかりの王ではなく、本当にこの国に君臨する覇者になるのならば、自分はこんなに弱くてはいけないのだと、痛感した。
ヌイストは再び黙り込むアルを見ていた。彼の青い瞳が揺れるのを見とめると、口元に孤を描いて目を細める。
「……あなたは、本当に似ていますね」
アルは怪訝そうに顔をヌイストへと向ける。似ている、という言葉は昔から言われてきた。母親・ナイリスに生き写しだと……。
ヌイストはワインレッドの瞳をアルへよこしたまま、口をひらく。
「ワタシに地位をくれませんか。大臣というより、あなたと、そしてあなたの妃の秘書――宰相をしたいんですよー」
唐突な申し出に、アルはさらに眉根を寄せる。それにも関わらず、ヌイストはつづけた。
「ほら、お妃さまだって不安でしょう?新しい環境に慣れるのって大変じゃないですか。それならワタシが味方についてあげたいし、いっそのことその味方に地位があったほうがやりやすいんですよね~」
「……なぜ」
「なぜと言われても。いじめとかあったら、お妃さま泣いちゃうじゃないですかぁ。死にたくなっちゃうかもしれないじゃないですか。だから、ね」
クスクスと彼は笑う。モノクルをくいとあげ、顔を王子へと近づけて。
「代わりに、ワタシが大臣たちを意のままに動かしてあげますよ?」
目を見開く。アルはしばし、彼の言葉を理解するのに時間を要した。
やがて、ゆっくりと頷く。
「いいだろう」
「取引成立、ですねー」
満面の笑顔を向け、ヌイストは肩を震わせる。無邪気そうに笑うのに、どこか裏があるように見えるのはなぜだろう、とアルは心のなかでぼやいた。しかし、背に腹は変えられない。
「ああ、本当にあなたは似ている」
踵をかえし、部屋を出ていこうとするヌイストは、しかし、ふいに顔だけをこちらへ向けて言った。つぶやきともとれるそれは、アルにきちんと届いていた。
「――ソティリオさまに、そっくりですね」
最後に目を細めて破顔する彼に、アルは愕然とした。
――父に似ていると言われたのは、はじめてだった。
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ヌイストに言われた言葉に衝撃を受け、それが収まらぬうちにも新たなことが起こる。
メディルサ第二王子――ウルフォンがカスパルニアへ訪れたのだ。
唐突な出来事だったが、アルはすぐに会見の場を設ける。オーウェンたちがなにやら納得できないなどと言うのを無視し、部屋には自分とウルフォン王子だけを残し、護衛として入口に衛兵を配置しただけで、あとは人ばらいをさせた。
金色になれなかったような茶色の髪を揺らし、ウルフォンはやってきた。その顔はどこか硬い。
どうしたのかと、柄にもなく心配に声をかけそうになったが、メディルサ第二王子はアルが口を切るまえに声を発した。
「挨拶が遅れました、申し訳ありません……父に――メディルサ国王に、しばし謹慎を言い渡されていたので」
「……そう、か」
アルは内心怪訝そうに眉根を寄せる。ウルフォンの様子はおかしい。瞳に感情がない。
いったいどうしたのだ?
「国の軍を勝手に動かしてしまい……まあ、相応の罰です」
淡々と言葉を放つウルフォンはしかし、ここで一旦言葉を切った。
アルは驚きとわずかな動揺を表に出さぬよう努めた。なぜなら、ウルフォンが怒り――だれに対するものなのかは不明だが、しかし明らかな不満を持った強い怒りを込めた瞳でこちらを見たからだ。
一瞬、自分が彼から恨まれているような錯覚に陥ったが、どうやらそれは杞憂に終わった。
「父に言われました。『まぁいい。今回はおまえにも手柄があるしな』と」
瞬間、ウルフォンの瞳には言いようのない悲しみと悔しさが浮かんでくる。
「『おまえも愚息かと思ったが、今回はあのカスパルニアに借りをつくらせた。これは大きい』……もちろん、僕にはそんなつもりなどありません。でも、父上は耳など貸してはくださらなかった……!」
今にも泣きそうな顔をするウルフォン。アルは悟る。
「そうして言われましたよ――『次期国王はおまえだ』――僕はいやだ!兄上がなるべきなのに!」
こいつの様子がおかしかったのは、このためだったのだ、と。
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外はいつしか暗くなりかけ、空には夕闇が迫っていた。最近は肌寒いと感じることもしばしばで、夏の暑さの名残もわずかだ。日も短くなり、暗闇が支配する時間が延びる。
いつもは、それに恐怖とともに安堵を覚えた。いつだって、そうだった。
暗闇は、忘れないための戒めだ。自分が生きていく上での、大事な枷だった。
(もういらないと……どうして思えたんだろう……)
部屋の窓辺に寄りかかり、暮れいく空をじっとながめて、アルは無意識に息をついた。その表情は心なしか切なげだ。
闇は、いつも囁く。おまえはイラナイ子供だ、フィリップの代わりだ、愛されないから仕方のないことなのだ、と。そして声は低く唸る。
――おまえにはこの烙印がお似合いだ……カスパルニアの奴隷よ!
瞬間、痛みが走る。いや、痛みの錯覚だ。それでも、アルの手は反射的に、背中から肩にかけて押された焼き痕をたどる。
――おまえなど、産まなければよかった。
つむった瞼の奥で、チカチカと光がまたたいた。先ほどとはちがう、高い女性の声が耳に響く。
――こんな子供、いなければよかったのに。ああ、なんて厭らしい容姿!
いやだ、聞きたくないと、何度耳をふさいだことか。それでも声は耳の奥から響くのだ。
――おまえなんて、いらない!
もう、イラナイ。
(……無様だな)
震える拳。吐く息は荒い。
いまだ引きずる過去に、吐き気がした。
兄の影を追うことをやめた。彼は生きている。それだけで、いい。
だから今度は、自分は自分の道を、王の道をいこうと……そう決めたのだ。
暗闇も平気になったと思った。それはただの戒めでしかなかったから。過去を引きずる枷の要因でしかなかったから。
それなのに。
(今は、わからない)
暗闇が怖い。光が恐ろしい。
光に触れたい。暗闇に包まれていたい。
矛盾して、そうしてわからなくなる自分。もはや抜け出せそうにない、迷宮のような自分自身。
メディルサ国王――それはアルの母の兄、つまり伯父である。一度も見たことなどなかったが、噂では耳にしていた。
ウルフォンの話では、彼はカスパルニアに恩を売れたと嬉々としているらしい。
それに、とアルは思う。
メディルサ国王は、ウルフォンの父……つまり、レオンハルトの父親。彼は、アルの母親に抱いてはならぬ感情を抱いてしまっていたのだ。それは果たして、過去の話なのだろうか。
どちらにしろ、自分はいい存在ではないだろう、とアルは思う。カスパルニア次期国王としても、愛する妹を奪った男の息子としても。
望まれていない存在であるという認識はある。今更傷つくこともない。
ただ。
(――馬鹿らしい)
アルは芽生えかけたなにかを押しつぶすように、ぐっと唇を噛みしめた。
なにを愕然としているのだ、自分は。
『――ソティリオさまに、そっくりですね』
(うるさい!)
シャッと部屋のカーテンをひいて、今や遠くなった夕日の赤い光を遮断する。
けれど、今まで目に焼きついていたそれがチカチカと反芻している。
(赤は、きらいだ)
忌々しい、とアルは顔を歪ませ、真っ暗になった部屋のベッドへと身を投じる。なにもかにもがいやで仕様がない。
頭のなかをめぐるのは、赤。赤い髪の娘。
彼女の拒絶がいつまでも、王子の耳に響いてやまなかった。
お気に入り登録や感想などなど、いつもありがとうございます!
今回は……は、はじめて名前を出しました、カスパルニア王!
この人の過去バナもいろいろ考えているのですが。
いつか短編で書ければなぁと。
当初は名前ナシキャラだったのに、出世したもんですね!(ぇ
なんだか最近シリアス方面なのかしら?
書いているわたしにはまったくその気がないけれど。。
もっと恋愛しちゃったほうがいいですかね?
が、頑張りたい気持ちはたっぷりです!笑
暗い雰囲気で疲れたときは、ヌイストくんのゆる~いしゃべり方に癒されてます←
なんだか軽い雰囲気になってほっとしている私です。
長々とすみません。
引きつづき、よろしくお願いいたします!^^