第六十八章 動き出す歯車
第六十八章 動き出す歯車
†▼▽▼▽▼▽†
「こんにちは」
そう言ってスーに話しかけてきたのは、ちょうど歳ころの同じ少女だった。
「ここ、素敵な庭園ね。いろいろな種類の花があるんでしょうね」
ちょこんと首を傾げて笑いかけてくれる少女に、ようやっと我にかえったスーは、あわてて頷く。最近では同じ侍女仲間で話しかけてくれる者などいなかったため、驚きに反応が遅れてしまったのだ。
「ええ。いつも庭師の方が手間をかけて育てているんです。わたしも、よくここへ来ては癒されています」
そういえば、まだ王宮にあがったばかりのころは、アル王子の態度に激しく戸惑い、この庭に立ち寄っては考えていたものだ。スーは懐かしい気分で思いながら、笑みを浮かべる。
「わたし、今日からこのお城で働くことになったの。アル王子さまって、とてもうつくしいのでしょう?」
少女の口が、孤を描く。
スーはアルの、きらきら輝くブロンドの髪や、ガラス玉のような明るい青い瞳を思い出し、くすりと笑う。たしかに彼は、うつくしい――。
「でも、あなたでは無理ね。恋をしても、かなわないわ」
「えっ」
唐突だった。急に少女の声音が変わった気がして、スーは顔をあげる。
「だって、身分がちがうじゃない――」
そう言った彼女の口元には、やはり、うれしそうな笑みが描かれていた。
「あ、やっと見つけた」
言われて振り返れば、額に軽く汗を浮かべたセルジュがいた。
「どこ行ってたんだよー。見失っちゃったから、焦った」
ふう、と息を吐いて彼は言う。こんなことははじめてであったのだろう、その表情は若干硬い。
そう言えば、彼はいつも自分を護衛しているようだと、スーは気がつく。けれど姿は見えないので、いるのかいないのか、本当のところスー自身にはよくわからない。
「庭園で休んでいました。それから……侍女の方とお話をして……」
「へえ。侍女仲間がねぇ?」
ズキリと痛んだ心を無視し、スーはセルジュに目を向けた。
「赤毛ちゃんと会話しようとするなんて、貴重な人材だね。どんな娘なの?」
まったく失礼だ。そう思いながらも、彼の嫌味に閉口し、さきほど話していた少女のことを思い出そうとする……しかし、どう頭をひねっても、彼女の容姿が浮かんでこない。
(あれ……?)
おかしい。どんな少女に話しかけられたのであっただろう。
「思い出せないの?変なの」
セルジュは苦悶するスーにも構わず、肩をすくめ、引きつづき護衛してやるからと、姿を消した。
どうせなら、姿は見えたままでもいいのではないかと疑問がよぎるが、しかし、スーは再び少女のことで頭を悩ます。
顔が思い出せない。声も、よく思い出せない。
霧が、靄がかかってしまったように、おぼろげで、頭のなかがはっきりしないのだ。
(だけど――)
思い出せるものはある。彼女の、口元だ。
孤を描いた、その、口。
たしかに彼女は、笑っていた――。
†+†+†+†+
スーは夕餉の時間がくるまで、部屋に戻って習慣になりつつあることをした。茶色い、ひどく分厚い本だ。それを広げて、ただ一心にひたすら読み耽る――それが最近の日課である。
はじめは意味がわからなかった。どこになにが書いてあるのか、薬草の名前すらもちんぷんかんぷんで頭に入ってこない。それでも、フィリップから一通りの知識を習い、その後も勉学だけはと地道にやってきたかいはある。日を追うごとに、スーは本の内容を理解していった。
理解できればおもしろいものだ。さすがは、とでも言うのだろう、クリスの持ち物であっただけあり、複雑な内容が多いが、それは薬草が薬や毒にいたるまでの経緯や関連のあるものまでも事細かに記載されているからだ。
(リズ草……麻薬性アリ、用途は解熱剤。加熱することで毒を抜く)
指を文字へ滑らせ、同時に小脇にかかえた植物図鑑をめくる。本書には草のイラストがあったが、図鑑のほうがカラフルで見やすいのだ。
(えっと……アカハダナ花……夏に咲く花。アカイナと似ているが猛毒性アリ。キネマシ草の蜜とまぜると整腸剤となる……なるほど)
おもしろい、と思う。新たな知識は快感で、加えて自分も役に立てるかもしれないと思うと、無意識に口が緩む。
(……あっ!)
スーの指がとまる。マヤナヤ草――聞いたことがある薬草だ。
たしかクリスが苦しむアルのためにワランの猛毒の解毒薬として集めにいってくれたものだ。
しかし、あのときのクリスは自作自演だったのだろうか?
ふいに顔が歪み、スーはそれ以上本を読むことができなくなった。
(今日はこれでやめよう)
外を見れば、ちょうど空が赤く色づいてきた。夜の時間が長くなった近頃では、空の色も闇に呑まれるのがはやい。
スーは部屋を出て、アルに夕食を届けるため、厨房へ向かおうとした。
外から剥き出しになっている廊下を歩いていると、ふと前方に人影が見える。最初はよく見えなかったのだが、近づくにつれはっきりしてきた姿は、最近よく見かける男だ。
大臣のひとりである彼、オーウェンは葉巻をぷかぷか吸いながら、スーに背を向け外の夕暮れをながめている。こちらに気づいていないのか、目を向けることはしない。
スーは会釈をするように、頭を下げたまま通り過ぎようとした。
「おまえがアルさまの召使か」
いきなり声をかけられ、一瞬なんのことかわからなかった。それでもハッとして足をとめ、こちらを振り返る男に顔を向けた。
「はい……」
「……名は」
男はじろじろと無遠慮にスーを見ながら問う。
こういうとき、シルヴィやローザならば礼儀がないと怒りを覚えたり、もしくはにっこり笑みをたたえながら失礼だと嫌味のひとつでも言ってやれるのかもしれない。しかし、そんなたいそうな根性も覇気も持ち合わせていないスーは、びくりと肩を縮ませ、怯えるように目をふせた。
「……スー、でござい、ます……」
声が軽く裏返り、カアァと頬が赤くなるのが自分でもわかった。
オーウェンはそんな少女に、吸っていた葉巻の煙を吐きかけた。
「おや、失礼」
途端に煙でむせ、ゴホゴホ咳込むスーに、男は申し訳ないとはつゆにも思っていないような声でそう言うと、口から葉巻を取り出し、柱にぐりぐりと押しつけて火を消す。
「だけれど、知っておくべきだろう。自分の身分というものを、わきまえたほうがいい」
汚いものを見るかのような目だった。あからさまな侮蔑のまなざし。
それが自分に向けられていると知り、心なしか足が震える。
「召使はだれのために働くのだ?」
「……アルさまのためです」
「なんのために?」
「……アル王子さまの、お望みのために」
咳は落ち着いた。男からくる質問に答えながら、スーは顔が歪むのをとめられそうになかった。
男の言いたいことは、よくわかっていた。
「では、召使は王子のために、その幸せのために、消えるべきではないかな?」
声は、ひどく残酷だ。
「命が惜しければ、自分から辞めることだ――ああ、それを片付けておけ」
ポイと吸い殻を床へ投げ、彼はとっとと背を向けて歩き出す。
悔しさか悲しみか、スーは拳を握りしめ、思うのだ。
ああ、自分はとことん、大臣という人と相性が悪いのだ、と。
†+†+†+†+
それから夕食をアルの自室へ運び、ノックをしようとドアの前までやってきた。ふいになかから話し声が聞こえ、思わず手をとめる。
オーウェンの声だった。
「では、いかがなさいますか」
「問題はない。なんとかする」
余裕の様子のオーウェンと、それからややくぐもったアルの声。
「ラーモンド家が敵であるという証拠がなければ、我らは反感を買うだけです。それにもし背後にベルバーニがいるならば、迂闊に手は出せないでしょうに」
言葉はたしかに的を射ている。しかし、声にどこか中傷するような嘲りを含んでいるのがありありと聞き取れた。
声はさらにつづける。
「そんなことよりも、王子はもっと内部に目を向けるべきです。妃に現を抜かすよりは、政治に気を配るべきだと思いますが?」
「……どういう意味だ」
「言葉通りです。はっきり言って今ベルバーニといざこざを起こしても、勝ち目はないでしょう。ねぇ、ルファーネ大臣?」
「う、うむ」
どうやら大臣はもうひとりいたようだ。オーウェンの問いかけにあわてて頷く声がする。
「わたしの進言は正しいはずです。身の回りに置くならば、優秀な人材を、ね」
「なにが言いたい」
「いえ、ただ――王子が毒されては、たまりませんから」
コツコツと靴が床を蹴る音がする。どうやら話は終わったようだ。
こちらに大臣らが向かってくる。わかっていた。けれどスーは麻痺したように動けなくなり、反応が遅れ、結果扉をあけたオーウェンたちとばっちり目が合ってしまったのだ。
「おや」
「これはこれは……」
オーウェンは嘲笑を浮かべ、ルファーネはやや焦った表情でスーの横を通り過ぎる。
少女は赤毛で顔を隠すようにうつむくことしかできなかった。
やがて部屋の奥から「入れ」という許可が出る。スーはほっとしてなかに身体を滑り込ませながら、はじめのころはアルの部屋に入ることなどいやで堪らなかったのに、今では安堵してしまうなどおかしなことだと思った。
「……おまえは変なやつだな」
机の書類を脇に片付けていたアルが、ふとこちらを見てそう言った。
スーは手をとめ、首を傾げる。今彼女は夕食ののったワゴンから皿を運んでいるところで、特におかしな行為などしていない。いったいなにが変だというのだ。
変、といえばアルのほうが変だ。
スーが知る限り、自室で食事を摂る王子はいないだろうと思う。たとえば忙しい時期などは仕方がないが、普通は広間などで大きなテーブルにたくさんのご馳走を並べ、王や妃、王子や姫たちなどが揃って食べるはずで……。
そこまで考え、スーは自己嫌悪する。
アルには残された家族など、この城にはいない。前カスパルニア国王のこどもたちはすでにアル以外この城のどこにもいないのだ。姫君たちははやくに嫁いだり、養子に出されたり、また王子たちはみな暗殺されてしまった。
無意識、なのだろうか。
アルがひとり暗い部屋で食事をとることは、無意識にとった行為なのであろうか。
(そういえば、最近はアルさまのお部屋も明るいわ……)
スーはふと顔をあげ、部屋の中を照らす明かりを見つめた。
以前とはちがう。アルは変わったのだろうか――
「おい」
「え」
ぎょっとする。振り向けば、こちらをじっと見下ろす青い眼。
どうやら自分はアルに言葉をかけられたにも関わらず、しばしぼうっとしていたらしい。失態に気づき、少女の顔がサァッと青くなる。
あわてて謝ろうとした。だが、そのまえにふっ、と笑う声がもれた。
「……おまえは本当におかしいな」
目を見開く。目の前の光景が衝撃的で、言葉を失ってしまう。
スーを「おかしい」と言ったアルの笑みは、今までに見たことがないくらい柔らかだ。そう、まるでフィリップのそれだ。
(アルさまはやっぱり、兄さまと兄弟なんだなぁ……)
驚きすぎて、思考が鈍い。しかしそんな召使に構わず、王子は笑いながらつづける。
「大臣たちに怯えていたと思えば、なにやら苦笑しながら食事の準備をしはじめるし……変だと声をかければ、考え深気に泣きそうな顔をするし、かと思えばひらめいた表情をする……そしてまた声をかければ、びっくりしたあとで真っ青になる……」
くっくっと笑ったあとで、アルはその長い指を少女の頬に伸ばす。ためらいがちに、けれどそのまま頬に触れる。
ぴくり、とスーの肩が反応した。
「……驚きに……今は顔が赤い……」
するりと指を這わせ、そのまま顎、首すじへと流れていく。
「まるで百面相だな」
カチリと音が鳴る。アルの指は、スーの首にかかる金色のロケットへたどり着いていた。
スーは、動けなかった。ただ心臓ばかりが早鐘をうち、頭が真っ白になる。頬は、いや、身体中が熱を帯びる。
なにを思ったのか、アルは金色のロケットに顔を徐々に近づけてきた。目をつむることもできずにいると、彼はくすりと声をもらす。
「これは案外、いい香がするんだな」
独特の、鼻に残る、濃い、香り。
「今まで……気づかなかった」
(――わたし)
「これは、なんの花だ」
(死んでしまいそう……!)
――身体が、震えた。
「ラ……ラベンダー、の……花、です……」
――恐怖に?
「ふん……兄上らしい。おまえの祖国の花だろう?」
「は、はい」
――否――
「そう、か」
淡い、言葉にできぬ、不思議な、感覚に。
いつもありがとうございます!
外伝のリタレンティア~悪魔の微笑~が無事、完結しました!
これから先の三部を読み進めるにあたり、
こちらも読んでいただけるとスッキリしていただけると思います^^
いろいろ関連してきますので。。
では、またよろしくお願いします。




