第六十六章 険呑のはじまり
第六十六章 険呑のはじまり
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馬車に揺られながら、男は窓の外から連なる山脈をながめていた。荒涼とした大地は剥き出しの岩肌が目立ち、夏の終わりにふく冷たい風が小石を転がしている。
ぼんやりと外をながめていた男だが、彼の目にはなにも映ってはいなかった。彼の思考は遠く彼方、いつかの記憶へと遡っている。
「あなたは」
夢のなかではいつも彼を責めていたが、記憶のなかの彼女はいつも、安らかな笑みをたたえていた。
「ヌイスト、あなたは」
耳が甘美な毒に侵されていく。残酷だ。もう二度と触れることなどできないのに、記憶のなかはさめざめと輝きをもって彼女を魅せ、彼女の声によって彼を蝕んでいく。
呪縛のような、恋だった。
「あなたはわたくしに不幸を与えることはできても、幸せを奪えやしなかったわ」
彼女は微笑を浮かべていた。
その表情があまりに衝撃的で、彼の記憶は混乱している。
あのとき彼女はどこにいたのか。どこの城の部屋だったのか。はたしてそれはいつだったのか。
ただ憶えている。彼女の腹には子供がいた。その命を宿した身体を撫でながら、彼女はとても幸福そうに笑ったのだ。
「わたくしは、幸せなのよ」
そう言ったのは、本当の彼女だったんだろうか。
彼女の青い瞳に捕われた。きっとずっと前から。逃げるすべなど、はじめからなかった。
――呪縛のような、恋だったから。
「なにを考えていたの」
不意にかかった声は、彼をからかっていた。ヌイストは窓から目を離し、声の主にほほえむ。
「あなたと同じようなことだと思いますよ」
「嘘ばっかり。わたくしはただ、ひどく悲しくて幸せなだけなのよ」
彼女の表情はとても穏やかだ。緩くかかったウェーブの髪を指で絡めとり、クスリと笑っては、悪戯をする前の眼を彼へと向ける。
ヌイストはモノクルをくいと上げ、再び目を窓の外へと映す。きっと信じないであろうが、やはり自分と彼女は同じようなことを考えていた、と思う。
馬車は揺れて道をどんどん進んでいく。はじめてこの道を通ったときの感情を、彼はあまり覚えていない。
もしかしたら幸せだったのかもしれない。そしてもしかしたら、ひどく不幸だったのかも。
ただわかるのは、現在自分はとても愉快だということだ。手のなかで躍りはじめた人形劇を弄べることが、なによりもうれしかった。これこそが求めた享楽にちがいなかった。
「そうですねぇ~」
「あなたはなにを微笑っているの?」
頬杖をついてつぶやく彼に、彼女はすこし首を傾げて問う。
ヌイストは相変わらず視線を外へ向けながらも、その声はどこか楽しげだった。
「それはきっと、悲しくて寂しくて、心がズタズタに引き裂かれてしまいそうだからですよ」
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スーが昼食を食べ終わって自室でひとり休息していると、部屋の扉がノックされた。彼女の部屋を訪れる者などそうそういない。どうせアルからの伝言を携えた従僕であろうと思い、扉を開けた。
開けた途端、ドアノブを離してぽかんと口をあけて立ち尽くす。
「……ぅ、ぁ、あ、ら、らら……」
「……すまない。部屋に入ってもいいだろうか」
「う、は、はい!どどど、どうぞ!」
あわてて身体をどけ、スーはランスロットをなかへと入れた。
黒髪の騎士は、相変わらず表情を崩していない。しかし、部屋に入った彼は咳ばらいをし、チラと少女を見やった。その頬がかすかに赤らんでいたので、スーはさらに驚愕した。
「あの……」
「薬草を学んでいるのか?」
ふと落とされた彼の視線の先に茶色い本を見つけ、スーは微笑して頷く。
ランスロットは「それは賢明だ」とつぶやいたが、しばし沈黙した。
なかなか口をひらかない彼がわからず、とうとうスーが言葉を発しようとしたそのとき、大きな咳ばらいがした。
「世話をかけたな」
きょとんとするスーに向き直り、ランスロットは言う。
「訓練所まで足を運んでくれてただろう。アルとのことを心配してくれたんだろう?」
スーが軽く頷くのを見て、騎士はかすかに笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「いえ……」
こうして改めて言われるのはなんとも気恥ずかしい。スーはしかし、珍しい様子のランスロットにわくわくした。
「……ところで、王子の妃の件だが」
ふいに、ランスロットが何気ない調子で話しはじめ、にわかに部屋の空気が変化した。
「スーから、なにか言ってやれはしないのか?」
「わ、わたしですか?」
思ってもみなかった言葉に目を丸くすると、ランスロットはそうだと頷いて言った。
「俺がどう口出ししたとて、アルはなにも言わないし、婚約を破棄することはないだろう。だけど、アンタなら――」
スーはぎょっとした。自分のどこをどう見て、『此の者は王子の意思を変えられる』と判断できるのだろう。
あわてて頭を振り、両手をあげて口をひらいた。
「む、無理です!わ、わたしなんかがどうこう言える話ではありません」
「そんなことはない」
ずいっと一歩近づき、ランスロットはスーの手を取り上げる。
「スーは気づいていないのかもしれないが、アルはアンタを随分気に入っているはずだ」
騎士は少女の緑の瞳を見つめて言う。
「その瞳はアルにとって存在の大きいもののはずだし、なによりあのアルから逃げ出さなかった。そして、アンタは女だ」
さらにつかむ手に力を込め、ランスロットは少女の顔をじぃっと見つめた。
「それにしゃんとしてれば、見映えだって――」
スーはおろおろと泳がせていた視線をそろっとランスロットへと戻した。悪い予感がする。目の前の人間は、まさか、自分に色じかけでもしろと言うのか?
スーだって、自分の容姿は痛いくらいわかっている。とくに目立つ要素もなく、薄幸そうな顔だと思う。強いていえば緑の瞳や燃えるような赤毛は気に入っていたが、それはフィリップとの繋がりであったり、ただ単に自分が好んでいるだけで、赤毛は上品ではないと悪く見られることもあるのだ。だから人から見つめられるのはあまり好きではない。
とにかく断ろう……そう思いランスロットを見つめかえして、ふいに頭を捻る。
「……ランスロットさん?」
黒髪の騎士は、少女の手をつかんで顔を近づけたまま、言葉をなくしたように彼女を見つめつづけていたのだ。
スーは首を横に傾け、どうしたのかと彼の顔をうかがった。
「あの……」
「あっ、いや……そういうわけだ」
ハッと我にかえったランスロットは、途端に目をそらして、軽く咳ばらいをした。
「あの、わ、わたし……」
「周りに気をつけろ。引きつづきセルジュに警戒させるが、アンタ自身も気を引き締めろよ?」
突然ガッとスーの肩をつかんだランスロットは、激しい口調で告げる。まるで先ほどの自分の動揺を揉み消しているかのようだ。
「新任の大臣らは厄介だし、味方もすくない……アルがその頭に王の証を載せるまで、スーも……なんとかしろ」
非常に歯切れが悪い。はじめ勢いよく言葉を発していた彼も、次第に尻すぼみになり、最後のほうは目を泳がせる。
「あ、セ、セルジュといえば。あいつ、スーに『名前で呼んでもらえない』と拗ねていたぞ」
話を変えようと、半ば無理やりランスロットが明るく言う。
「それは……セルジュさんが、わたしのことを名前で呼んでくださらないからです。それになんだか……ちがうような……」
「ちがう?」
怪訝そうに眉根を寄せた騎士に、スーはあわてて首を振った。
「な、なんでもありません!それにしても、ランスロットさんのことを『兄貴』と呼ぶくらい、おふたりは仲がいいんですね」
「……ああ、まあ……そうだな……」
徐々に彼の瞳に陰がさす。どうしてか、最近のアルやランスロットは様子がおかしいような気がする。
ひとり考え込むように唸りながら、しまいにランスロットは用事があると言って部屋を出ていってしまった。
いまいち、騎士の伝えたいことがわからないスーであった。
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スーが今日もいつものようにアルの朝食を取りに厨房へ向かう途中、なにやら声が聞こえてきた。普段ならとくに気にとめず歩きつづけるのだが、今回耳に届いた単語には思わず足をとめてしまった。そのままタペストリーと高価な装飾品である坪の影に身をひそめる。
「……アルさま……ですって」
「まあ!それじゃあ――では……あの……」
「いやなものよね……それに――赤毛は――」
「卑しい身分のくせに!」
徐々にはっきりと聞こえてきた声は、やはり自分のことを言っているのであろう。スーは深くため息をついた。
もしや、まさか、ではあるまいか。
「兄王子さまの血族だかなんだか知らないけれど、所詮身分なんてないのでしょう?」
「噂では、舞踏会でアルさまに踊ってもらったそうよ」
「まあ!他の姫君たちを差し置いて?貴族の令嬢たちでさえ、第二王妃を狙っているというのに、あの赤毛の娘は正妃になろうとでも言うの?」
「いったいどうやってアルさまをたぶらかしたのかしら」
スーはなんとかため息を飲み込む。怒りなどなかった。まして悲しみもない。ただあるのは、この心にのしかかるのは、深い心細さだ。
(わたしって、受け入れられないのかな)
ぐっと唇を噛み、今後はあまりアルに近づかないようにしなければと思う。しかし、仕事柄なかなかそうもいかないのが難だ。
(アルさまがきっぱりはっきり否定して、そして本当の花嫁さまがやってくれば……噂も、ほとぼりも冷めるんだろうなぁ)
ぼんやりと視線を宙へ浮かせながら、スーは胸がちくりと痛むのに気づかぬふりをした。
噂はいつまでつづくのだろう。
侍女たちの陰口を聞いてから一週間が過ぎようとしていた。噂は徐々に拡大の一途をたどっている。
スーは、自分がこんなにひとりぼっちであったのかと、内心驚いた。
アルは連日につづき会議があり、ランスロットたちといえばアーサーにより本格的な騎士の指導がはじまっていて、ここ数日はろくに顔も見れていない。朝食のときでさえ、アルは起きることを渋り、しまいには「あとで」と言いはじめる始末だ。
以前ならシルヴィやローザもいたし、クリスだってスーを気にかけてくれた。リオルネが滞在していたときなどは、寂しいという感情すら忘れかけていたというのに。
それなのに、今、たしかに、スーはひとりだった。
わがままだということは、彼女自身百も承知だ。されど、他者からの悪意ある陰口を耳にしたり、または大臣たちから狙われているとなれば、弱ることもまた必須であろう。
だから、気分が悪くなることについては目をつぶって欲しいというものだ。
ふらふらと回廊を歩きながら、スーはふと、はじめてアルの世話係として城へやってきた日のことを思い出した。あの日はひたすらにフィリップの面影を求めていた気がする。自分の居場所を手探りで見つけようとしていた気がする。
鼻の奥がつんとし、スーはあわてて目をとじて、柱に背を預けた。
そよそよと流れていく風を受けながら、モヤモヤする気持ちが去るまで、しばらくそうやっていた。
追加情報:
第三部は大きくみっつに分かれます。
ので、名前をつけちゃいました。
ごちゃごちゃですみません。
第三部の一つ目は、『niger puppet』です。
『黒い操り人形』です。
色はラテン語。
それでは、今後とも、よろしくお願いします。