第六十五章 きっかけ
第六十五章 きっかけ
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「赤毛ちゃん、ちょっと」
スーが庭園で休みをとろうと歩いていたとき、声がかかった。見れば、柱の影から手招きをしている少年がいる。
「どうしたんですか」
怪訝そうに顔をしかめて駆け寄ると、セルジュはしっ、と指を立てて言った。
「ダメダメ。アンタ、狙われてるからさ」
「狙われている?」
ぎょっとして声をあげると、あわてたように彼はスーの口を手で塞いだ。
「黙って。本当に鈍感。……赤毛ちゃんさあ、いじめられてるでしょ?」
クスリと笑い、スーが表情をくもらせるのも構わず、セルジュはそっと庭園へとつづく廊下を指さした。先ほどまでスーが歩いていたところだ。
そこへ、ひとりの男がやってきた。見かけない顔だが、下男の服を着ている。
彼はきょろきょろとなにかを捜すように辺りを見回していたが、やがてだれもいないのを知り、チッと舌打ちをして悪態をついた。
「あの女……どこえ消えた。クソッ」
男はそうぼやきながら、さっさと廊下の奥へと消えてしまった。
柱の影でセルジュとともにその様子を見ていたスーは、声をひそめて尋ねた。
「あの方がどうかしたんですか?」
「うん。赤毛ちゃんを襲うつもりだったみたいだよ」
ニッコリしてそう告げる少年に、スーはあんぐりと口をあけた。なんの悪い冗談だろう。また彼は自分をからかって楽しんでいるのだろうか。
スーが唖然としているのを見て、セルジュはやれやれと肩をすくめた。
「本当に気づいてなかったの?あいつ、三日前からアンタの後をつけて、機会をうかがってたんだよ?」
「そんな……まさか……どうして……」
「赤毛ちゃんさあ、侍女頭にいじめられてるでしょ。と言うより、侍女仲間に」
トン、と柱に身体を預けて腕を組み、セルジュは眉間にシワをつくってつづけた。
「いじめというか嫌がらせかな。まあ外傷は与えられないと判断したから、しばらく観察してたんだけど。でも、今回はヤバかったからさ」
スーは唾を飲み込む。喉はカラカラに渇いており、頭はよく働かない。
たしかにここ何日か、スーは侍女たちから嫌がらせのような行為を受けてきた。アルに用意した食事を隠されたり、つまずくように足を出されたり、小さいことではあったが、スーには堪えていた。
以前から親しくされた覚えはない。だが、前はシルヴィやローザがいたから、気にしていなかったし、むしろ自分と関わらないほうが他の侍女たちもいいだろうと思ってきた。あからさまに悪口を言われることもなかったので、スーは一定の距離感を保っていたのだ。
けれどここ最近は、見るからに侍女たちの態度がおかしかった。陰でスーのことをなにか話していたし、自分を見る目が嫌悪感を剥き出しにしていたので、スーはいやな感じがしていた。
なぜなのだろうとは考えた。だが同時に、自分が他の侍女たちから疎まれはすれ、好かれることはないだろうとは思っていた。
「……なにか理由があるのですか?どうしてあなたは、わたしを助けてくれたのですか」
スーは硬い表情のままセルジュに問うた。彼はコバルトブルーの瞳を細めると、グレイクに負けず劣らずの美声で答えた。
「たぶん、大臣の手先だろう。彼らは赤毛ちゃんがアル王子の妃になるのではと勘違いしているから。それと、アンタを助けたのはもちろん、兄貴からの命令だからさ」
兄貴、というのはランスロットのことだ。セルジュは敬愛と親しみを込めて彼のことをそう呼んでいる。
スーは仰天し、思わず声を大きくさせた。
「わたしがアルさまの妃?ランスロットさんの命令?」
しーっと指を立ててスーを静かにさせてから、セルジュはつづけた。
「そ。ほら、以前舞踏会で、『赤毛ちゃんは特別』みたいなことを王子が口走ったじゃん。それで、もしやアルさまは彼女を妃に迎えるのではないかってね。まあ、怪しいのは消しとけってこと」
ぞっとして、スーは自身の肩を抱く。こんなことで命を狙われるとは。
「兄貴はその情報をつかんですぐ、僕に赤毛ちゃんの身辺警護を命じたってわけ。ま、狙われたって言っても、死ぬわけじゃないけどさ。一応、いやだろ?」
「え……?」
スーは首を傾げる。
「わたしは先ほどの人に、殺されそうになったのではないんですか?」
「まさか!今の状況で王子の召使暗殺なんて、騒ぎを大きくするだけでしょ。それじゃあ、反逆者として捜索されるのがオチ」
馬鹿だね、とスーを鼻先であしらい、セルジュはつづける。
「奴らの目的は妃の可能のある娘をキズモノにすること。そうすりゃ、王子の嫁にはなれないし、傷ついた娘は自ら襲われました、なんて言えないだろ。泣き寝入りしちゃうだろうって考えだよ」
(そんな――)
スーは目を大きく見開き、震えた。なんて卑劣な考えをする連中がいるのだろう。
「犯されて精神ズタズタにしてやれば、きっと赤毛ちゃんは城を出ていく……そう思われたんだろうね?」
セルジュの言葉に、スーはぐっと唇を噛みしめた。どうして城には、こういういやな考え方をする人間がいるのだろう。
ふわりとした黒髪をかきあげ、セルジュはスーの肩に手を置く。
「ま、兄貴の命令だし、しばらくは護ってあげるから」
「あ、ありがとうございます……」
頭をさげ、スーは礼を言った。彼にとっては迷惑なことかもしれないが、セルジュが護ってくれるのは心強い。
彼は一度ぐんと伸びをすると、今度は口調をやや硬くして口を切った。
「それより心配なのは、王子専属の薬師がいないってことじゃない?」
「薬師?」
「ほら、前はクリスってやつが務めてただろう?」
ああ、とスーは頷く。クリスがとても優秀だったのはたしかだ。彼は様々な薬草を知り尽くし、医術に役立てていた。彼は医師と薬師の両方をひとりで行っていたのだ。
「面倒なことに、アル王子は城の医師たちがだいきらいだ。彼らは自分の母親を救ってはくれなかったからね。だから王子には城の医師ではなく、従僕のクリスが医術を担当したんだよ」
アルが城の医者をきらっているというのは初耳だ。だがたしかに、彼は毒を盛られたときも、医師ではなくクリスに頼っていた。
だが今、クリスは牢屋のなか。アルは城の医師に頼るしかないが、あのアルが素直に応じるだろうか。
顔をしかめて考え込んでいると、セルジュがひょっこりとスーの顔をのぞき込んで、お告げでもするかのように、声を低めて言った。
「だからさ。赤毛ちゃんは、薬師になるべきだよ」
医師になるには人を切ることもしなければならない。けれど薬師なら――せめて毒とそれを中和する薬草を区別し、探し出せるようになれば、それだけで価値はちがってくる、というのがセルジュの意見であった。
スーはベッドで彼の言葉を反芻する。
たしかに、知識があればそれは価値になる。毒で苦しんだとき、クリスの処置は実に有り難かった。
(もし、わたしが薬草に詳しくなれれば……)
スーは寝返りをうつ。胸は期待に高まっていく。
(そうすれば、きっとわたしはアルさまの役に立てる……罷免させられないかもしれない!)
うれしかった。新しい道が開けた気がした。
翌日、スーはさっそく、クリスに話を聞こうと決意した。
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スーが「お仕事お疲れ様です」と言ってお辞儀をすると、彼らは決まってぎょっと目を見開いた。
牢獄へはスー自身入れられたこともあり、なんとなく苦手だ。しかしそうも言っていられず、彼女はアルから許可を得て、クリスとの面会へ取りつけた。
彼へ会いに行くには、長い道を通らなくてはならない。当然見張りの兵士がそこいらにいて、厳しい顔つきで立っているわけであるが、たったひとりで少女が王子から面会許可のサインが入った紙を持ちながら歩いてくる様は、どうしたって奇妙だった。兵士らは何事かと呆然とし、ややあって正気に戻るのだった。
クリスの入っている独房は、スーが入れられていたところよりは清潔で、明るかった。小さいが窓があり、そこから空気や日の光が入ってくる。
「クリスさん……」
スーはそっと声をかけた。彼は胡座をかいて、うなだれていたのだ。見るからにやせ細り、こちらを見上げた眼はぼんやりとして焦点が合っていない。
「クリスさん……わたし、スーです」
いたたまれなくなって、スーはしゃがんで彼と視線を合わせる。黒い鉄の檻が邪魔で、仕方がなかった。
クリスは赤い目をかすかに揺らし、口をひらいた。
「……スー……?」
「はい、スーです。クリスさんにお話を聞きたくて」
彼の声はしわがれていた。久々に声を発したのではないかと思われる。
スーは気力をなくしてボロボロになっているクリスを見て、やはり自分はどうしても彼をきらいにはなれないと悟った。たとえ彼が反逆者であったとしても、スーを本気で好いていなかったとしても、クリスはスーが落ち込んでいたときに慰めてくれたのだ。アルに対して思い悩んでいたときに声をかけてくれたのは彼なのだ。
「……大丈夫ですか?」
手を伸ばしてそっと声をかけると、クリスはわずかに笑って応えた。
「あなたはどこまでも、やさしいのですね」
思わず動きを止めてまじまじと彼を見やる。クリスはさらにつづけた。
「そのやさしさはいつか、命取りになる」
「そんな……わたしは、ただ――」
「王子に毒を盛ったのは僕ですよ?」
彼ははっきりとこちらを見つめてそう言った。
「よく考えればわかるでしょう?あなたが王子の飲むはずであった毒によってうなされたときも、アル王子に刺客を差し向けたのも、すべて僕がやったことだ」
スーはなにも言えず、クリスの言葉を聞いていた。
たしかに、わかっていた。薬草に長けている彼ならば、いつもアルのそばにいる彼ならば、毒を盛ることもたやすい。デジルが言っていた「あいつがいちばん厄介だ」という言葉にも納得がいく。
でも、信じたくなかった。
「……アル王子には感謝しています……リオルネさまに罪はないと言ってくださった……それだけでもう充分なんです」
なおも顔を歪ませ、クリスは言う。
「わかっていたことなんです。王子に剣を向けるということは、殺して権力を奪うか、すべてを失って死ぬかということ。僕らは負けました。だからあなたが僕に心をかけるのはまちがっている」
スーはクリスを見た。赤い瞳がこれまでにないほど激しく揺れている。
いったいどんな想いで彼が剣を取ったのかわからない。自分やアルを騙したとき、王子に毒を盛ったとき、はたして彼はなにを思ったのだろう。どんな気持ちだったのだろう。彼は心を痛めなかったのだろうか?
スーにはわからない。他者の心など、わかりっこないのだから。
クリスはゆっくりと顔をあげた。そうして切望するようにスーを見る。
「……だからもう僕に関わらないでください」
ぽつりとこぼれた彼の声は、どこかかすれていた。
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(クリスさんてすごいな)
牢屋からの帰り道、とぼとぼ歩きながらスーは思った。
彼に「関わるな」とまるでお願いされるかのように言われて、スーは言葉を失った。「薬師になりたいのですが」ということを話しにきたのに、なにも言えなかった。もちろんそれはただの言い訳だ。クリス本人を前にして「薬師のことを教えろ」だなんて言えるわけがないことくらい、はじめからわかっていたのに。
スーはあきらめ、帰ろうとした。そうしてクリスに背を向けた直後、彼は聞き取りにくい声で言ったのだ。
「僕の応酬品のなかに、茶色いカバーの図鑑があるはずです」
「えっ」
思わず振り返ると、赤い目がかすかに細まる。
「前任にかなり腕のいい医師がいました……賢者と呼ばれる男でしたよ」
驚きに緑の瞳を見開いて、スーは言葉を失う。
クリスはわずかに口元に笑みを浮かべて言った。
「知識を得るには師をもつのがいいでしょう。彼は今も城下でひっそりと暮らしているはずです」
結局、スーはクリスになにもしてやれない。なにも言えなかった。
けれど彼は、まるでスーの心を読んだかのように、彼女の知りたかったことを教えてくれたのだ。
すごい、と思う。彼は察するのが非常にうまい。
王子の側近は頭の回転がはやい、秀才だと言われていたのは本当だ。彼は優秀だった。彼ならアルの力になれるだろうに。
(クリスさんはすごい。わたしにもなにか、誇れる力があればいい)
茶色の古びた植物図鑑。そこには様々な薬草の図柄と説明がびっしりと並べられている。
莫大な量だ。しかしこれを頭に叩き込むしかない。
「よし」
スーはひとつ大きく息を吸うと、本の最初のページをひらいた。やるしかない。やってみせよう。
話を聞いたセルジュは、クリスの押収品から図鑑をこっそり持ち出して、スーへさっそく渡してくれた。許可もなくこんなことをしてもいいのかと問い詰めれば、「どうせ廃棄処分になる品物だったし」と肩をすくめ、さらには「アンタは人の親切を無下にする気か」などと言われ、受け取るしかなかった。それにどうせ必要だったのだ。
夜も更ける。けれど少女の部屋の明かりはまだ消えない。
スーは夢中でページをめくっていった。