第六十章 兄と弟
第六十章 兄と弟
†▼▽▼▽▼▽†
スーがウィルの部屋へ向かおうとしていたころ、その部屋には先客がいた。
ウィルはめずらしい、と思いながらも、笑みが思わずこぼれてしまう。なんとか真面目な顔をつくって客人に目を向けたものの、思いは遠い過去へと誘われた。
幼いときは天使のようだと言われていた容姿は、その言葉を裏切ることなく、成長した今でも目を引く。ブロンドの髪は細くうつくしく、青いガラス球のような瞳によく映えている。
似ていない。自分とこの少年は腹違いの兄弟ではあるが、どちらも母親似のためか、外見はあまり似ていなかった。
それでも幼い時分、弟は自分を慕ってくれたし、ウィル自身彼を可愛がった。同じ時と同じ場所で母親を亡くした悲しみを埋め合わせるように、それこそどの兄弟よりも目をかけたかもしれない。
末の弟ふたりは生まれてすぐに病で亡くなっていたため、いちばん下が彼であったこともある。まだ幼い。なのに母親を失い、彼にはさらに後見人とも呼べる人材がいなかった。
城内で彼は出来損ないと言われていた。弱虫で臆病者で、鈍臭く、人の目を引くのは母親そっくりの容姿ばかりだと。いつしかその容姿にさえ、嫌悪のまなざしが混ざりはじめていた。
ウィルは――フィリップは思った。ならば自分が守ってやろう。そうだ、弟たちはすべて自分が守ってやろう。王になったとしても、決して奢り高ぶらず、弟たちの話に耳を傾け、国を築いていこう、と。
だが、夢はそのまま夢となり、終わった。
リアという少女と出会い、恋をした。国に闇の手が忍び寄ろうとしていることを知り、手を尽くした。
だが、あの日――第一王子暗殺の日と発表されたあの日、自分はたしかに王子であることをやめた。
手紙があったのだ。『屋敷ニテ待ツ。娘ヲ救イタクバ、オヒトリデ来ラレヨ』とだけ書かれた手紙。娘とはリアのことであろうと察したフィリップは、罠であることも構わずに屋敷へと赴いた。
そして……目を射られた。犯人の顔はおろか、姿すら見ることは許されなかった。
自分はあまかったのだ。幼かったのだ。火を放たれ逃げ場をなくしたなかでそれを痛感しても、今さらだった。
痛さに意識が朦朧とする。すぐに熱く、そして息ができなくなった。
死を覚悟したそのとき――不思議な男と海賊たちに救われた……そういうわけだ。
船の上でいつも思ったのは、弟たちは自分を恨んでいるだろうということ。父王が自分だけを特別に愛していることを知っていたフィリップは、第一王子のせいで王になれないとされてきた弟王子たちの気持ちを考えると、苦しくて仕方がなかった。自分がこうしてのうのうと生きている間にも、弟たちは刺客に狙われるかもしれない。それを考えると、たまらなかった。
だから決して驚きはしなかった。再会を果たした船の上で、弟である彼が自分に刃物を突き付けても、それは当然であるとしか感じなかった。
恨まれても、憎まれても、仕方がない。自分は国を捨てて楽に生きてきたと思われても仕方がない――そう思った。
「――というのは本当ですか」
「えっ?」
ハッと我にかえる。どうやら自分はかなりの間ぼんやりしていたらしい。顔をしかめるアルに自嘲的な苦笑を見せ、ウィルは再度口をひらいた。
「すまない。ちょっと考え事をしていて……なんの話だったかな」
アルはあからさまなため息をついてから応じた。
「ですから、あなたはもう王子の地位に戻られる気はないのか、ということです」
ああ、とウィルは合点がいく。この話を彼からされるのは何度目だろう。
「それならいつも通りの答えだ。僕はもう、フィリップとして生きていくつもりはない」
「そうですか――」
ウィルはここで、すこしばかり戸惑う。いつもこの会話をするとき、必ずと言っていいほどアルはさみしそうな顔をするのだ。ぐっと唇が白くなるほど噛み締め、『そうですか』と言う。
わかっているだろうに。もしフィリップ王子が生還したとなれば――瞳の色がちがうので、偽物だと言われるのがオチだが――ふたりの王子を頭に立て、政権争いの火種となるだろう。国は真っ二つだ。
もしやアルは王になりたくないのだろうか?
そんなことをウィルが再び考えあぐねているうちに、アルは次の話題へと展開していった。
「では、こちらも最終確認ですが……あなたは、フィリップ王子の刺客の顔を見ていない、ということは確かにですね」
「ああ。屋敷に呼び出されてすぐに目を毒矢で射られ、火を放たれたからね。残念ながら、犯人は見ていないよ」
「まあ、こちらはいずれルドルフにすべて吐かせます」
アルは事務的に言う。眼はひどく冷たかった。
それでも、ウィルはやはりうれしいのだ。どんな用事であれ、弟が自分に会いにきてくれることがうれしかった。
「では、僕はこれで失礼します」
「アルー」
パッと踵をかえして歩き去ろうとした弟に、ウィルは声をかけた。そして迷惑そうに眉根を寄せて振り返る彼に苦笑しながらつづける。
「近いうちに、発とうと思う」
声は、静かに響いた。
それは、十年ほど前。フィリップ王子が暗殺されたとされる、数日前のことだった。
フィリップは末の弟の部屋を訪れていた。つい悩みがあると、こうして幼い弟の寝顔を盗み見るのが癖になりつつある。弟はすやすやと柔らかな寝息をたてており、そんな彼の顔を見ていると、荒みそうな心は穏やかに凪いでいった。
しかし、この日ばかりはちがった。フィリップが部屋の扉をノックをすると、いつもは返ってこない声がしたのだ。
「アルー……起きていたのか」
若干の気まずさを覚えながら、フィリップは弟の部屋へと足を踏み入れた。自分のせいで眠りを妨げてしまったのではないかと、心配だった。
幼い王子はベッドの上で半身を起こし、こちらの様子をじっとうかがっているようだ。だが、暗がりでもわかる――アルはひどく怯えていた。
驚いて駆け寄ろうとしたが、アルはふるふると首を一生懸命に振って拒絶すると、そのまま黙り込んでしまった。
いったいどうしたのか。フィリップは混乱する頭を総動員させてはみたものの、いきなりのことであったため、よい慰め方法が見つからなかった。
やがて、ふいにアルが涙声でぽつりと言った。
「……兄さまは……兄さまは、好きな人がいるの?」
「えっ?!」
驚きすぎて、すぐには理解できなかった。汚れない青い瞳が、暗がりのなかで光っている。こちらを見ている。すべてが見透かされているようだ。
フィリップはつい、悩んでいたことを口走った。
「愛する人のためならば、死を選ぶことは正しいと思うかい?」
今度は、アルが目を見開く番だった。
だがやがて、弟の答えを静かに待っているフィリップに向かって、アルは攻撃的な――冷たく、すべてを突き放すような――眼で見つめかえし、言った。
「正しいことだと、思います」
フィリップは一瞬、今目の前にいるのが自分の弟だとは思えなかった。こんなに人を責めるような、威嚇して遠ざけるような眼をする少年だっただろうか?
まるで別人だ――そこまで考えてから、ハッとする。
そう、別人だ。アルは嘘をついている。本心を語っているわけではない。
なぜ彼が嘘を答えたのかはわからなかったが、フィリップは彼の答えが聞けただけで満足だった。
このとき、若きフィリップは悩んでいたのだ。自分が死ねば、刺客としてしか生きられなかったリアの命は救われるのではないか、と。
だが、それは正しい選択ではないと弟は考えた。ならば、愛する人を残して死ぬべきではない。どんなに苦難な道であろうと、共に生きていこう。
フィリップは柔らかく笑うと、弟に近づき、そっと頭をなでた。
「ありがとう、アルー」
この幼い弟は、自分を癒してくれる。そして時に諌めてくれる。
本心じゃなかった――自分が死ねばそれですべてが救われるなど、逃げでしかない。戦わなくては。生きて、黒幕と真っ向から対峙しよう。
若き王子、フィリップは、そう心に誓いをたてた。
背後で、部屋を出ていく兄の後ろ姿を見つめながら、自責の念に駆られている弟がいるとも知らずに。
そう、アルは自分を責めたのだ。大好きな兄に嘘をついてしまったこと。そして……この夜から数日後、第一王子が崩御したという知らせを耳にしてからは、さらに。
兄は殺されたのではない。自殺したのだ。自分が「愛する人のために死ぬ」ことを誘導したのだ。
激しい後悔は、やがて憎悪に変わる――。
きっと兄さまは僕を恨んでる。
僕のせいで死を選んだことを後悔している。
きっと僕を憎んでいる。
どうしてわかってくれなかったの?僕が兄さまに『死ね』と言うはずなどないのに。
あのときは悲しくてイライラしていたんだ。母上が死んだときの夢をみていたから、つい、嘘をつきたくなったんだ。
だから、本当はちがうんだよ。兄さまに死んでほしいはずかないのに。
どうして僕をひとりにしたの?大切な女の人のためなの?
でも、僕は知っているよ。女の人もきっと悲しんでいる。父上が、第一后さまを失って悲しんでいたから。
でも、いつも、どうしてなんだろう。どうして僕だけはひとりなの?
母さまも僕を置いてひとりで死んでしまった。兄さまもそうなの?僕をひとりにするの?
僕のせい?僕のせいで兄さまは――
歪んだ悲しみは、幼い心には堪えられそうになかった。崩壊寸前にまで追い込まれた彼の心は、憎悪という形で自分を守り、保つしかなかった。
兄さまが憎い。「死ぬほうが正しい」と言った僕を憎んでいるくせに、「ありがとう」と言って笑うんだ。あんなの、嘘だ。あんな笑顔は偽物だ。
じゃあ、今までは?今までの兄さまも、あの笑顔はすべて偽物……?
そうだ。父上だって僕を嫌悪してる。母上だって、いらないって言ってた。だから、兄上も……。
あの笑顔はすべてまがい物。仮面をかぶった偽物。
本当はだいきらいなくせに、大好きだよ、と惑わせる笑みを向けてくる。
嘘つき。兄さまは嘘つき。兄さまの笑顔は嘘のものだ。
――兄さまの本当が見たい。本当が知りたい。
嘘で固められるならば、いっそ母や父のように恨みを言われたほうがよっぽどマシだ。
苦しい。笑顔が苦しい。胸が痛い。
それからだ――アルが本心を隠すようになったのは。それからだった。
「――急、ですね」
アルが動揺を見せたのは一瞬で、すぐに表情を押し隠して応じた。
ウィルは成長したものだと頭の片隅で思いながら、やはり笑顔のままつづける。
「ああ。港町にも活気が戻ってきたようだしね。ドロテアも身重だから、そろそろ子供を産める場所をと思って……優秀な産婆がいるらしいから、そこへ行こうかと」
ウィルには、城でドロテアに子供を産ませる気はなかった。どうしたって、生まれてくる子供は王族の子供……城にいてはいけない気がした。
アルはしばらく眉間にシワを寄せたまま、まるで子供のわがままを聞いてやるような、はたまた難しいクイズを考えているような、そんな表情で黙りこくっていたが、やがて口をひらく。
ウィルに向けられたまなざしは、責め立てるようだった。
「それはよかった。はやく城内から海賊たちを追い出してください。助けていただいたとはいえ、城の者にはそろそろ言い訳がキツくなってきましたから」
ウィルはハッとしたまま、しばらく動けなかった。
アルはそんな彼に気づいていないのか、構わずにつづける。
「それから、もしよかったら、あの役立たずも一緒に連れていってくれませんか?あなたとは遠い血族なのでしょう……?」
そこでやっと、アルはウィルが雷に打たれたような衝撃を受けていることに気づいた。目をぱっちりと見開いたまま、彼はアルの顔を穴が空くほど凝視している。
不快だと言わんばかりにアルが咳ばらいしたことで、ウィルはようやっと呪縛から逃れた人のように、のろのろと口を動かしはじめた。
「あ……ああ、スーのことかい?それなら直接彼女に聞いてみよう……だけど……」
ウィルがうれしそうに笑う。というよりは、悪戯を発見できてご満悦、といった感じが否めない。
アルは怪訝そうに顔を歪めながらも、なんとか無表情に見えるように努力して、ウィルの次の言葉を待った。
「だけど……アルーはそれでいいのかい?本当はスーにそばにいてほしいのだろう」
アルはフンと鼻をならす。
「どこからそんな自信がくるのか解りかねますが。なんのご冗談ですか」
「おやおや……アルーは素直じゃないね」
今度こそ、アルは心底怪訝な表情をした。なんだろう、この調子は。先ほどから、ウィルの様子が変わった気がする。まるで昔のように……兄のような調子で語りかけてくる。まるで、おまえの嘘はすべてお見通しだぞ、と言わんばかりに。
ウィルは柔く笑って言った。
「僕は幸せだよ。アルーがいてくれて、幸せだった」
目を見開く。足のつま先から指の先まで、麻痺したようにじんじんとする。アルは動けず、眉間にシワを寄せることも忘れ、兄を見つめた。
「昔からずっと、おまえは僕の支えだった。そしてこれからもずっと……」
藍色の瞳が近づいてくる。そのなかに、やさしげに揺れる光を見出だし、アルは吸い込まれるように目が離せなくなった。
藍色が、深い緑色に見える、錯覚――。
頭に、あたたかいぬくもりを感じた。何年ぶりだろう。このあたたかさは。この重さは。
兄はふっと笑った。
「永遠に、アルーは僕の誇りだよ」
胸が、痛い。痛くてたまらない。
けれど決していやではない。なんて心地いい――。
氷を溶かすようだ……そう思った瞬間、目頭が熱くなり、アルはあわててウィルの手を払いのけた。
「……あなたは僕を憎くはないのですか」
そうして、ぼそり、と言葉を落とす。言うつもりのなかった言葉を。
「憎いと思ったことは一度もない」
ウィルはきっぱりと告げた。瞬間、アルが息を呑む。
王子はなにか言おうと口をひらいた。だが、それは声にならず、宙をさ迷う。
辛抱強くウィルが黙って待っていると、やっと絞り出すように声が紡がれる。
「俺は兄さまが憎かった……俺をひとりにしたから。だけど……憎いくらい――」
その後の言葉を口にすることなく飲み込み、アルはパッと顔をあげる。
その眼には明るい光がともっていた。
「――生きてください」
つぶやくようだった声はいつか、はっきりとした響きを持っている。宝石のように澄んだ瞳をまっすぐに向けて。
ウィルは笑みを深め、大きく頷いた。
†+†+†+†+
それから今後のことを手短に話し、若干バツの悪そうに――というよりは照れ臭そうに――して退出しようと扉を開けたアルであった。が、次の瞬間、一瞬にして固まる。
ウィルが何事かと扉の外をのぞくと、こちらもきっちりフリーズした少女が突っ立っていた。あきらかに『今来たばかり』ではないようで、ちゃっかり部屋での会話を盗み聞きしていたのが明白であった。
「……おまえ……」
地の底から響くような声。びくっと肩を震わせ、赤毛の少女は恐る恐る目をあげた。そしてすぐさま、泣き出しそうに顔を歪める。
ウィルはアルの背中しか見えないので正確にはわからなかったが、きっとアルは恐ろしい形相をしていることだろうとは察しがつく。苦笑しながらも、ウィルは助け舟を出すべくふたりへ近づいた。
そして、ふいに少女の首にかかる金色のペンダントに気がつく。
「あ……」
ウィルは思わず声をもらす。紛れもない、あのロケットは……。
アルもそれに気づいたのだろう。チッと舌打ちをして、少女の腕をぐいとつかんだ。
「では兄上、失礼します」
「あ、ああ……」
半ば強引に少女を連れ去るアルを呆然と見送りながらも、ふたりの足音が遠退いてから、ウィルはひとりそっと笑った。
†+†+†+†+
「いつから話を聞いていた」
アルは冷たい声で尋ねる。廊下を早足で歩きながら、少女の顔も見ずに尋問していた。
「あ……う……その……」
しかし、当の本人はすっかり怯え切っているため、なかなか言葉が出てこないようだ。仕方なしに、アルは使われていない部屋を見つけると、そこに入って扉を閉めた。
「……で?おまえはいつから、主の話を盗み聞く趣味ができたんだ?」
「わ、わたしはただ……兄さまとお話がしたくて……は、話だってあまり聞いてません……」
視線を泳がせる少女に、アルはさらに舌打ちをする。
スーはあわてて弁解をつづけた。
「ただ……その……兄さまが……ドロテアさんと赤ちゃんのために……どこかへ行ってしまうって……」
アルの顔がさらに歪む。つまり彼女は、アルの聞かれたくなかった言葉を聞いてしまったことになる。
しかし、彼女の場合、大好きな兄さまがいなくなることで頭がいっぱいで、そのあとの会話など聞く余裕などなかったのかもしれない。きっとそうにちがいない。
アルはそう思い込むことに決めた。苛々して仕方がない。
スーはチラとアルの顔色をうかがってから、怖ず怖ずと口をひらいた。
「あの……兄さまはいつ……」
ほら、やっぱり――アルは呆れてため息が出る。やはりこの少女の頭は『大好きな兄上』でいっぱいらしい。
「まだ正式には決まっていないが……十日のうちには発つそうだ」
「そんなにはやく……」
あきらかに落ち込むスー。アルは苛々を押し殺し、ふと彼女の首にかかるものに手をかけた。
スーは我にかえったようで、あわててロケットを外そうとする。
「これ、アルさまのですよね?!わたし、いつかお返ししなければと……」
「いい」
少女の腕をつかみ、アルはにらむように彼女を見下ろした。
「おまえにやる」
緑の瞳が丸々と見開かれる。よほど衝撃的だったのだろう、彼女はしばし口をぱくぱくさせていた。
やがて、押し出すように声を発したスーの顔は、やや赤らんでいた。
「……どうして……」
やや乱暴にスーの腕を解放して、アルはぷいと顔を背ける。
そうして部屋を出る間際に、ぽつりと応えた。
「そんなの、俺にもわからないよ」
『きょうだい』……この章はずっと書きたいと思っていました。
どんな形で書こうか、いろいろ模索(妄想?)していましたが、結局いつもの直感的な勢いで書きました。
今回はフィリップ視点とアル視点なので、すこしごちゃごちゃしてしまったかもしれません。
が、わたし個人としては楽しく書けました。
フィリップの心情もわかったし、彼ってこういう人だったのか!と私自身発見できておもしろかったです。
『兄弟』て好きです笑
では引き続きよろしくお願いします!