第五十七章 変動のきざし
第五十七章 変動のきざし
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ヌイストが持ち掛けた計画――レオンハルト王子を生き返らせること。そしてその『代償』という名の見返りは、予想もしていないものであった。
昨日、ヌイストからこの計画を持ち掛けられたとき、ウルフォンはすぐに承諾した。アルにも異存はなかった。しかし、夜になって――スーがアルの自室へ食事を運んでいたときであったため、彼女も話を聞いてしまうことになったのだが――ヌイストは再び姿を見せて要求を口にしたのだった。
そのとき、部屋にはスーとアル以外の人間はいなかった。だから、『代償』を知っているのも彼らふたりだけである。
「幸せは奪うものですよ」
現れるなり、男はそう言った。モノクルの奥で、ワインレッドの瞳がかすかに光る。
「ワタシは生憎、冷酷非情な魔術師兼医者なもので。もし、レオンハルト王子を生き返らせたいなら、それなりの代償を払っていただきたい」
にこにこと笑みを絶やさず、彼は独特の道化師じみた調子でつづけた。
「ワタシが見返りに欲しいのは、ウルフォン王子には到底払えない。だからご兄弟である、アル王子に要求しに参った次第でございます」
実に丁寧すぎる口調だ。ヌイストがレオの出生の秘密を知っていたことに今更驚きはしない。やはり世の中、うまいことだけで終わるわけがない。こういう状況になることを予想していなかったわけではないが、それにしても『代償』は気になる。
たしか、フィリップのときは『緑の瞳をもつ眼』そのものを失うことが、視力のある新しい眼を得る代償だったはずだ。今回は死んだ人間を生き返らせるというわけだから、もっとすごい代償にちがいない。
アルはいらつきを隠すことも忘れ、眉をぴくりと動かした。だがすぐにぐっと堪えて尋ねる。
「では、貴様の要求はなんだ」
瞬間――なぜかスーは、ヌイストが自分を見ている気がした。
男はそのときばかりは笑みもなく、淡々と告げた。
「カスパルニアの妃の座がほしい」
――と。
アルはそれを聞くなり、あからさまに顔をしかめ、嫌悪のまなざしをドクターへと向けた。
「生憎、僕にはそんな趣味はありません。男を妻に娶る気はさらさらないので」
「あっはは!そりゃワタシだって、いくら君が美人さんだからって男に手が出るほど困っちゃいませんよ。ただね……」
ふいに男のワインレッドの瞳が柔くなり、彼はほっそりとした指を少年の頬へと滑らせた。
「君はワタシの興味をそそるに充分な素質をもっていますよ。閉じ込めて可愛がってあげたいくらい、壊してやりたい」
相反する感情――それが彼の瞳の奥で、炎となってチラチラと揺れているのを見つけ、アルは不覚にも怯えてしまった。
一瞬見せた、その怯えに満足したのか、ヌイストはアルから手を離し、にっこりと笑った。
「心配せずとも、ワタシが妃になろうってワケじやないですよ。ある女性を妃に推薦したいのです」
「推薦?」
はい、と頷いて、ヌイストは窓辺まで歩を進めると、バルコニーへつづく扉の錠をあけた。
「別に田舎娘を妃にしろだなんて言いません。家柄も育ちも申し分ない、王族にふさわしいお嬢さまです」
風が開け放した窓から入ってきた。思っていたより冷たい。
スーは立っているのがやっとなくらい、動揺していた。
アルが悩んだのは、ほんの一瞬だった。
「いいだろう。その条件をのもう」
カスパルニアの妃の座なんかでレオの命が救われるなら、安いものだ。こんなことで命を落としていい奴ではない、とアル自身思う。
それにもともと、アルには妃に対する執着がない。どうせルドルフ大臣に勝手に決められ、どこかの貴族や王族と婚姻させられるはずだったのだ。妃を決めるのがルドルフからヌイストに移っただけで、とりとめて被害がくるわけではないと、アルには確信があった。
妃など、ただのお飾り。跡取りなどつくる気もさらさらない。
もし、ヌイストが女を使って王の権力を狙っているのだとしたら、見当違いだと内心で嘲笑う。
他の国はどうだか知らないが、自分が王位につけばカスパルニアでの王妃の座はきわめて低いものになるだろう。何人側室を持とうとも。彼女たちはただの飾りなのだから――アルはほくそ笑む。
自分にはやらねばならぬことがあるのだと、そのためにはまだレオの力も必要なのだと、アルは知っていた。
あってないがごとき王妃の座などくれてやる――そんなの、たいした問題ではないと、そうアルは思っていた。
だからなにも考えず、だれにも相談せず、『代償』を受け入れたのだった。
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埋葬は完了した。魔術と聞いていたから、もっと大それた準備をして、凄まじい光景を想像していた彼らは、やや拍子抜けしてしまった。ヌイストの作業は実に淡々としていて、一瞬騙されてしまったのではないかと思う。
しかし、止まっていた男の心臓は力を取り戻す。レオンハルトは静かに息を吹き返したのだ。
胸が上下に動き、呼吸を確認すると、今度は言いようのない感嘆がその場にいた者を襲う。信じられない、だが、本当に。
抱いたのは畏怖に近い念だった。
スーは彼の術に驚きはしたし、人を生き返らせることができるなどいまだに信じられない。だが、それでも自分で思っていたほど、レオが再び息をしていることに驚きは感じなかった。そもそも、彼が死んだことすら受け入れられていない状況だったので、レオが息をしているのは実に当たり前のことのようにさえ思える。
ウルフォンは手放しでよろこんだ。涙を浮かべ、子供のように無邪気に。
心臓は動き出した。だが、レオの意識が戻ることはまだない。
ヌイストによれば魔術は成功したらしい。だが、命を、魂を身体へ戻すことは自然の摂理を、輪廻の掟をぶち壊すことだ。レオが意識を取り戻し、完全復活を遂げるには最低三ヶ月はかかるらしい。
その間、レオの身体はウルフォンとともに故郷へ帰還することとなった。もちろん、ヌイストもともに。
「幸い、まだレオンハルト王子崩御とは発表していなかったから、兄上が生き返っても特に大騒ぎにはならないだろう。大怪我で寝込んでいるということにして、三ヶ月間騙し通してみせるよ」
かすかに笑みを見せたウルフォンは、どこかほっと安堵に満ちていた。レオの心臓がゆっくりと動き出したのを目の当たりにしたからだろう、彼はすっかりヌイストを信用しきっていた。ドクター本人が人を操ってレオを死へ追いやったかもしれないということなど、すっかり頭から抜けているようだ。
スーもアルも、あえてウルフォンを刺激するようなことは言わなかった。どうであれ、再び笑顔になれる――それだけでいいのだ。
それに、こちらは『代償』をのんだのだから、ヌイストが裏切るはずなどない。約束として、レオが完治した三ヶ月後に、きちんと契約が実行されたか確認したあとで、『代償』の妃候補の娘が紹介されることになっている。
埋葬の翌日、ウルフォンは兄とヌイストとともに、まだ駐留していた軍隊を引き連れてカスパルニアを発った。すくなくとも今回、彼は国の軍を動かしたわけだから、その後の報告を国にせねばなるまいのだろう。三ヶ月間レオは目覚めることがないだろうが、ヌイストがともにいればうまく騙せるだろうし、なにより身柄も安全だ。
はじめからレオは死んでなどいなかった――三ヶ月後、そんな現実にできるのだろう。
アルもまた、カスパルニアでは引っ張りだこであった。レオのことをウィルやカインたちに話さねばならなかったし、貴族たちや国民を国へ戻す準備や今回の暴動についての発表、そして罪人の裁きなど、仕事は尽きることがない。なにしろ、大臣と側近が主犯なのだ。はやめに代わりの人材を確保する必要もある。
もちろん今までも大臣はルドルフだけではなかった。だが、ルドルフは多大なる権力を誇示し、逆らう人間は抑え追いやり、自分に従順な人間を他大臣にあてがい、ほぼひとりで大臣職を我が物顔にしてきた。そしてアルもまたそれを知っていながら、興味がないので放っておいたのだが、その結果今回のような多忙さに見舞われることとなった。自業自得なわけだが、それにしても頭にくる。
なにより、信用できる人間がわからないということが痛手であった。政治に無頓着でただ王になりたいとぼやいていた自分が腹立たしく、アルは心のなかで何度もため息をこぼした。
しかし、数少ない信頼を置ける人間が実に優秀だということは、不幸中の幸いだった。膨大な数の兵士たちをまとめるランスロットがいい例だ。ルドルフに人質にとられ簡易牢に入れられていた兵士の家族らを解放し、今回の暴動で生じた混乱を収めつつある。
また、アルは彼の父親の罪も問わぬことにした。ランスロットの父アーサーは、簡単に言えばルドルフにうまく言いくるめられていたのだ。フィリップ王子を殺したのはアルの母親で、アルは王位に貪欲だ、と。フィリップの望んだ国を築くには邪魔な存在だ、と。第一王子の腹心の部下であったアーサーは、数年かけてルドルフの巧妙な話術により、すっかり考えを乗っ取られていたというわけだ。
しかしそれでも、通常ならばアーサーも牢屋へ繋がれなくてはならない。だが、海賊に力を借りるほどに切羽詰まっている今、背に腹はかえられないというのが本音だ。それに家来から寄せられるアーサーへの信頼の力は大きい。混乱をすこしでも沈めるには、彼の力は必要であった。
とにもかくにも、「王子たちは忙しい」の一言で、そんなバタバタした日々が、風のように過ぎていった。
スーはその間、ヌイストから言われたことをひとり考えていた。
彼がウルフォンとともにカスパルニアを去る日、突然スーのところへやってきたのだ。そのとき、スーは自室で手持ち無沙汰な時間を持て余していた。シルヴィやローザもいない、アルも多忙のため召使を呼ぶ余裕もなく、ランスロットの仕事の邪魔をするわけにもいかない、ウィルたちだって城のために兵士とともに整備や誘導に動いているのだ。結局残された少女には仕事など与えられず、彼女自身自分で見つけることもできなかった。
そんな折、扉をノックする音がして、ヌイストがスーの部屋を訪れたのだった。モノクルの奥に見える瞳は相変わらず冷ややかだと思いながら、スーは何事かと首をひねる。彼が自分に用事があるとは思えなかったからだ。
「魔術の行使によるワタシへの代償を、あなたは知っていますか」
唐突すぎる質問だった。スーは素直に首を横に振る。
「それでは教えてあげましょう。これは自然の摂理を捩曲げる行為、輪廻のめぐりを歪める行為ですよ。なんの代償もなく、めでたしめでたしで終わるはずなどないのです」
彼は指をくるくる回しながら、実に愉快そうに言った。
「完全に死んだ人間を生き返らせたからには、自分の寿命をささげなければならなかった」
「そんな……!」
スーは手で口をおおい、愕然とする。そんなの初耳だ。レオの代わりに、ヌイストは死ぬというのだろうか?
ドクターはふふ、と口の端を引き上げると、肩をすくめた。
「心配は無用ですよ。ワタシは以前他者から寿命をいただいたことがあるので、あと三百年生きる予定でしたから」
「えっ」
「ああ、でもこれであと百九十八年しか生きられないかあ……。それを考えると、痛い代償に代わりはありませんがねー」
「……そうです、か」
スーはこめかみを押さえ、ため息を押し戻す。冗談なのか、本気なのか、いまいちよくわからない。心配するだけ無駄なのかもしれないと思い、今の会話は聞かなかったことにした。
ヌイストはうれしそうに少女を見、深く笑う。そしてそのまま、部屋を出ようと踵をかえした。
いったい彼はなにをしにきたのだろう――本気で悩みそうになったとき、ふいに足をとめ、男はつぶやくように声を落とした。
「幕は上がりました――人形たちは、踊り出す……」
「ヌイストさん……?」
振り返ることもせず、彼は扉に手をかけ、そうして最後に低い声をもらした。
「――果たしてあなたは、勝てるのでしょうかね?」
だれに……?
けれどその問いは、スーの口から出ることはなかった。ヌイストは扉を閉めて、さっさといなくなってしまったのだ。ただひとり、呆然と立ち尽くす少女を残して。
(どういうことだろう。なにが、はじまるの?)
目をとじ、スーはため息をこぼす。ヌイストの言葉は、少女の耳に強くこびりついて残っていた。