第五十章 欲望
第五十章 欲望
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「今日から俺の奴隷になってね――大好きな、兄さまの代わりに」
目をとじれば、暗闇に浮かぶのはいつもあの日の光景。そして、次に浮かぶ、その強い瞳。
「大好きだよ――憎いくらいに」
なにもない、無の闇のなかから自ら光を放つかに見えた、宝石のような眼。明るすぎる青色は、ときにガラス玉のように脆いもののように見えた。
きれいな人だと、正直思う。だれもが惹かれてしまうと、思う。
(けれど、きっと容姿がうつくしいからだけではないわ)
スーは幾度か考え、そして幾度も思った。
(アルさまが醸し出す雰囲気に……あの瞳に込められる見えない不可解な感情に、わたしはなぜか目が離せなくなるんだ)
「ステラティーナ……助けてよ」
アルと別れたあのとき、かすかにつぶやかれた言葉は消えることなく耳にこびりついている。あれは夢だったのだろうか?
いいや、ちがう。たしかにあのとき、彼は助けを求めていたのだ――スーに。
「考えは決まりましたか?」
赤い目をした、アル王子のかつての従僕は、静かに声を落とす。いつもにこやかで頼りになる彼ではない。もう、ちがうのだ。
「リオルネさまを王位に就かせ、ともに正しい王権を取り戻すか、亡きアル王子の意志を継いだランスロット騎士とともに反逆者となるか――どちらを選びますか?」
「アルさまは生きています!死んでなんか――」
「それではリオルネさまを殺しますか?」
あまりの理不尽さに声をあげたスーを制し、クリスは容赦なく言った。口をくいっと引き上げ、あからさまな笑いをしながら、つづける。
「もし、本当にアル王子が生きているなら、僕たちのほうが謀反者というわけですか。それではリオルネさまはこの先、生きていくことも叶わないでしょうね?」
(そんな……)
ひどすぎる、と内心訴えたとて、事実に変わりはないことを悟り、スーは唇を噛む。クリスはリオルネをおとりにしようとでもいうのか。
実際、プラチナブロンドの髪をした少年は、肩を震わせ、クリスの背後に隠れた。怯えているのか、その肩がわずかに震えている。そっと見えた少年の眼は、あきらかに、スーに恐怖していた。
(わたしがリオルネさまを殺そうと思うはずないのに)
これは一種の洗脳に近いのかもしれない。今、リオルネのなかで、クリスは絶対的な味方であり、スーは自分に危害を加えるかもしれない敵なのだ。
そういう状況を、事も見事に作り上げられてしまった。
(油断してはいけなかった。わたしは今、クリスさんを見くびってはいけない。味方になってくれるかもしれないなんて、思ってはいけなかったんだ)
本当に心から悪い人間なんていないのだと思う。だが、しかし、同時に人は、時として想像以上に黒く染まることもできるのだ。
たしかに、『この城は権力に溺れている』『欲望にまみれ、汚れている』という考えには賛同したい気持ちもある。しかし、なによりやり方に納得できない。共感など、できるはずもない。
(すべてが終わってからでも、和解はできるわ。今はまず、最優先にしなければならないことを見極めなくちゃ)
一呼吸置く。興奮してはならない。冷静に、ならなければ。
スーはぐっとまなざしに力を込め、口をひらいた。
「クリスさん、武器をおろしてください」
両手をあげ、危害を加えるつもりがないことを示し、スーはさらにつづける。
「話し合うことはできませんか?わたしは、リオルネさまを傷つけたくなんかありません。……だれも傷ついてほしくなんかないんです」
最後の方は、リオルネを見て言った。じっと、思いを込めて言った。すこしでも伝わればいいと――敵味方などに分かれるのではないと、伝えたかった。
「その言葉を信用できると思いますか」
クリスが静かに言う。やはり、今彼になにを言ったとて伝わらない。しかし、リオルネなら――。
スーは構わず、プラチナブロンドの髪をした少年に視線をあわせ、頷く。
「わたしは、リオルネさまを信じております……わたしが捕らえられたとき、牢獄であなたは、わたしを助けたいと伝えてくださいました。本当にうれしかった……。今度は、わたしがあなたを助けたいのです。リオルネさま、信じてください!」
少年の目が、見開かれる。
「ぼ、僕は――」
その瞳に、戸惑いと、わずかな光を見た気がした。
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豪快な唸り声がしたかと思うと、次の瞬間、黒い煙が視界を覆っていた。どうやら唸りは人間のものではなかったらしい。なにかが爆発したらしい。
スーはあわてて身をかがめ、目を凝らす。だが、黒い煙幕はなにも見せてはくれない。なにやらクリスがリオルネを安全なところへ移動させようとしている気配はうかがえたので、どうやら彼がなにか仕掛けてきたのではないらしい。
それにしても、なんとタイミングの悪いことか。もうすぐで、リオルネは自分を信じてくれたかもしれないのに。スーは軽くうなだれたが、そう長居もできないということを思い出し、這うようにして部屋の出口を探した。
爆弾類ではないのかもしれない。煙はただ霧のように立ち込めて視界を悪くするばかりで、それも徐々に薄くなってきた。いったいなにが起こったのか測りかねるが、部屋の外から聞こえてくる人々のパニックの声を聞き、スーは這うはやさをあげた。
「なにしてんの」
目を凝らして出口を求めた矢先、そんな苛々した声が頭上からふってきて、スーを咎めた。あわてて顔をあげると、真上に青い瞳を歪めた王子が立っていた。
そしてハッとしたのもつかの間、彼によってスーは立たされていた。
「のろま」
軽く舌打ちをしてそう言うと、アルはさっさと歩き出す。スーも急いでそれにつづき、煙のたっている部屋をあとにした。
廊下はもはや暗闇ではない。明りはともり、騒がしさでいっぱいである。着飾った人々が逃げ惑っていたり、いかにも海賊らしき連中が悪い笑顔を浮かべて走っていくなかを、アルは早足で進む。彼はもう、どこぞの貴族に扮装するつもりはないらしく、帽子もとって、そのブロンドの髪を露わにしていた。しかし、一目散に逃げる貴族たちはアルに気づく様子はない。海賊らはスーやアルに軽く手を振るだけで、それぞれの仕事があるのか、さっさと通り過ぎてしまう。
(いったい、なにがどうなっているのかしら)
自分だけ置いてけぼりを食らったようで、スーは地団太を踏みたくなった。リオルネやクリスと再会していたあの時間、いったいなにが起こったというのだろう。聞きたかったが、アルが果たして素直に答えてくれるかもわからない。なにより、王子にものを尋ねることは論外だ。
仕方なく、スーは唇を噛みしめ、事の成り行きを推測してみることにした。
突然の爆発音、しかし、火の気配はなく、部屋には煙幕のような黒い煙がたっていた。リオルネとクリスは避難し、つづいてアルがどこからともなく自分の前に現れる。廊下では騒ぎに逃げ惑う貴族たちと、平然とした顔でそれぞれ行動していく海賊たち……つまり、ランスロットたちが動いたということだろうか。
もともと、スーたちはルドルフやクリスの居場所を目指して二階へあがったはずだ。アルたちはスーが離れたあと、ルドルフと接触をしたのだろうか。クリスのあの様子では、きっと大臣もアルを亡き者にしようとしていたはずだ。それで強行突破となったのだろうか。つまりは、スーの望み通りにはいかず、穏便には済まないということなのだろう。
(それにしても、おかしいわ……)
パーティーの行われていた広間は一階だった。しかし、貴族たちは二階の廊下を使って逃げようとしている。普通、広間でなにかあったのなら、外に逃げ出そうとするものだろう。わざわざ二階へ、そしてもっと上の階へと逃げようとしているということは、もはや外へは出られないということだろうか。
(なぜ封鎖したのかしら。貴族の方たちまで、巻き添えになってしまうかもしれないのに)
しかし、スーの憶測も長くはつづけられなかった。ふいに引き寄せられ、スーはアルの腕のなかにすっぽりと隠されていた。
「なっ、なにを――」
「あいつだ」
スーは抵抗をやめる。アルの声が、今までにないくらい、びりりとしていたからだ。こんなに緊張する彼を、見たことなどない。
(あいつ……?)
廊下に立ち並ぶ甲冑の影に、ぐいっと隠される。逃げ惑う貴族たちや走っていく海賊たちの姿が減り、今や人の気配もなくなったそこに……。
足音が響く。
バチバチと音がして、灯りが消えた。突然、ふっと静けさに覆われ、一気に廊下は暗闇になった。瞬間、白い靄がかかる。寒気がする。
スーは直感した。本能が、危険だと告げている。震えがとまらない。
(怖い)
なぜ、どうして、こんなにも。
突如襲われる言いようのない恐怖感に、スーは自身の肩を抱きしめ、目をきつくつむる。自分の前にアルがいることすら、わからなくなっていた。
(わたしは、ひとり。ひとりぼっち……いつも、そう)
心臓が、ぐんと音をたてて泣く。ぐっぐっと軋んで、奈落の底へと沈んでいく。
ふいに、頭のなかで声がした。
(聴いちゃ、だめ)
必死で自身に言い聞かせる。絶対に言うことを聞いてはいけない。だめだ。この誘惑に呑まれてはいけない。
『おいで』
声は甘美に響く。スーを絡め捕り、逃すまいと誘う。
『おまえは、いい子だね。大好きな兄さまと、ずっと一緒にいればいい』
(いやよ。わたし、決めたもの。もう、兄さまはいないの。兄さまは、ウィルさんとして生きていくの……)
『それでいいのかい?本当に?』
(いいわ。ドロテアさんと、幸せになってくれればいいもの)
『へえ。それが君の幸せなんだ。君にとっての、不幸ではなくて――?』
ばっと目をあける。冷や汗が背中を伝う。
『物わかりがいいんだね。そうだよね。君が兄さまのそばにいたいと望めば、きっと彼は困ってしまうと知っているんだね。それに……君はもう、あんな兄さまなんて、好きじゃないんだし?』
(ちがう、ちがうわ。わたしは、兄さまの幸せを……)
『ウ・ソ。だってもう、彼はフィリップではないんだ。かつての兄さまじゃないんだ。憂いの瞳をもった、弱くて脆い人間なんだよ。もう君をいちばんに見てくれる人じゃないんだ。だから君は、兄さまから離れたいんだろう?』
(ちがう!ちがうわ!わたしは、アルさまの召使だもの。このお城で、生きていくんだもの)
顔に手を当てる。恐ろしい、怖い。
『それじゃ、そうすればいい。君はずっと、冷たい王子さまの奴隷として生きていくわけだ。わけのわからない、理不尽な扱いを受けて。侍女たちに気兼ねして、第一騎士に劣りを感じながら、生きていくわけだ』
「わ、わたし、気兼ねなんて……それに、ランスロットさんに敵うはずなんてないし……」
『いいんじゃない?それで。君の人生は、そうやって終わっていくんだね』
「あ、わ、わたしは――」
わたしは。
頭が痛い。心が痛い。痛い、痛い、痛い。
少女は絶叫し、自身の頭を押さえつけて、なにも見えていない目を見開く。
「わたしは、わたしは、わたしはっ――兄さまを迷わせる!シルヴィやローザに心配をかけて、お世話になって、役立たずのままで……」
いちばんに、なりたい。
だれかのいちばんになりたい。
役に立ちたい。
必要とされたい。
どうしてわたしは、ここにいるの?
どうして兄さまは、わたしを選んではくれなかったの?
どうして、わたしの傍にいてくれないの?
どうして、わたしを。
どうしてアルさまは、わたしの眼を見てくれないの――?
「わたしはここにいるのに!この瞳は、わたしのものなのに!わたしは――」
「ステラティーナ!」
ハッと顔をあげる。ぼやけた視界に、その青すぎる瞳が、入ってくる。
この眼を見ている。この深い緑を見て、いつも彼は自分とはちがう人間を重ねている。
特別とされたかった。そう、自分はいつも貪欲だ。欲深く、求めていた。
スーはそっと手をのばし、その頬に触れる。白く、なめらかで、麗しい……ブロンドの髪は、太陽のように輝き、月のように目を惹く。
「やっと、わたしを見てくれた……」
ほっとした。あの青い瞳は今、まぎれもなく自分を見ていたのだから。
ずっと奥に殺していた、欲求。欲していたのは、自分を見てくれる眼だ。特別に想ってくれるなにかだ。
この瞬間だけ、スーは、今、幸せだった。