第四十五章 嫉妬と悪事の企て
第四十五章 嫉妬と悪事の企て
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馬鹿馬鹿しい、と、アルは苛々しながらどかっと椅子に腰かけた。まったくもって、馬鹿馬鹿しい。
テーブルに置かれた水を喉へと流し、ふう、と息をつく。すぐに心を乱す自分が大いに憎らしかった。
船酔いはなんとか克服できた。正体を隠すためにつけていたマントが窮屈で、さらに酔いを強くしていたこともあり、当時はかなり堪えた。が、今はもう通常通りだ。ただ、やはり自分が情けなく、苛々した。
あの女は――あまりに煩いからキスをして黙らせた。それで懲りたと思えば、日も変わらぬうちに怒鳴りにやってきた。そうして、あの眼でこちらを見つめるのだ。目に涙を浮かべて、あの顔をするのだ。
滑稽だ。笑いがとまらない。
あの娘の泣く顔はいい。胸がすっと騒ぐ。心地いい。
――それなのに。
なぜか今回はちがった。
(なぜだ……)
愉しくてたまらないはずの泣き顔。それなのに、今回ばかりは――。
(そうだ……言葉だ)
ハッとして、アルは顔を歪める。そう、あいつの言葉だ。
少女が言った『わからない』という言葉。声。すべてに神経が持っていかれてしまったように、もやもやして、頭が痛い。
(わからないって?俺のことなど、わかりたくもないだろうに――)
自分だってわからない――そう、なぜ今、自分はこんなところにいるのだろう。なんのために、ここへ来たのだろう?
兄が死んだから、なんだというのだ。自殺だろうが他殺だろうが関係ない。自分が次期国王であることに変わりはないのだ。
彼は、自分はもはや王位を得ようとは思わない、と言っていた。けれど、そうもいかぬだろう――第一王子が生きているのだから。
それにしても、本当に自分はなんなのか。藍色のちがう瞳となったとて、自分は彼が兄であるとわかってしまった。それがさらに苛々を募らせる。
(あいつが憎い。だって、あいつは――)
息がつまる。
苦しくて、もどかしくて、どうしようもなくて、ただ。
(兄さまは、きっと俺を恨んでる)
つくった拳に力を込め。つめた息をぐっと呑み込み。――言いようのない暗闇の淵で立ち尽くす。
ただ、それだけ。
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あまりの息苦しさに、新鮮な空気を吸おうと部屋を出ると、待ってましたとばかりに、にっこり笑みを浮かべた男が立っていた。
(……気に食わない)
アルはすぐさまドアをしめようとしたが、男は足をドアの間に挟むと、思いの外強い力でこじ開け、さらに笑みを深めた。
「ま、ま。そんな怒るなよ。大事な話があんだからさ」
黒いマントをきゅっと引き上げ、男は言う。旅支度が整ったような様子だ。
「えっと、ちゃんとした自己紹介はまだかなー?俺は……まあ、レオって呼んで」
そっと手を差し出されたが、アルは握手には応じず、眉根にしわを寄せたままで、無言で彼をにらみつけた。それでもレオは構うことなく、つづける。
「じゃあさ、とりあえず甲板に出てきてくれる?みんなにまとめて話をするんだ」
にっこり笑うレオ。しかし、アルは相変わらず無反応を決め込んでいる。
テコでも動かないつもりなのだろう、そう確信したレオは、軽く息を吐き出した後で、いやに大きな声で話しはじめた。肩をすくめ、呆れ顔で、そして芝居がかった様子で。
「いやー、困るなあ。召使に、ユーリが自分だって気づかれないからって、そんなにスネなくてもいいんじゃない?」
ぎょっとしてアルの目が見開かれる。レオはにやっとすると、さらに声を大きくしてつづけた。
「そりゃ、いくら変装していたとはいえ、君は彼女のご主人さまだもんね。仕える主の気配くらい、悟ってほしいもんだよねぇ?」
「……なにが言いたい」
くすっと笑うと、レオは口角を引き上げた。
「我儘なんだよ、王子さま。……わかってほしいと怒りながら、そんな自分に腹が立つんだろ?特別な彼女には、たとえ姿がちがっても見分けてほしかったんだろ?」
アルの唇が歪む。険悪な表情でレオをにらみながら、アルは歯の間から絞り出すように声を発した。
「ッ、黙れ」
「それなのに、愛しい彼女は『兄さま』のことはすぐにわかった。たとえ瞳が別であっても、彼が『兄さま』だと気づいた……それが腹立たしいんだろ。羨ましかったんだろ?」
「――貴様ッ!」
ぐっと男の胸倉をつかみ、アルは壁まで押しつける。カッと頭に血が上り、目の前の男が癪でたまらない。
なぜ自分はこんなに、イラついているのだろう?
「嫉妬ってわけだ。図星?」
「煩い」
今すぐ黙らせたい。それなのに、男は余裕の笑みを浮かべて自分を小馬鹿にしている。
アルは自分の激しい感情に戸惑いを覚えながらも、どうしても抑えることができなかった。
やがてレオは目をとじ、小さく息をこぼすと、ほとんどつぶやくように言った。
「ガキじゃあるまいし……ホント、世話のやける奴だな」
(この減らず口)
アルはぐっと奥歯を噛みしめ、殴ってやろうかと拳に力を込めた。
――王子である仮面のつけ方など忘れた。城にいたころの自分ならば、たやすく感情も抑えただろう。赤の他人に、こんな姿をさらすこともなかっただろう。
なのに、変だ。城を出て、死んでいたと思っていた兄と再会し、そして少女のあの眼を見てから。
(俺は、俺が、わからないんだ……)
「王子さま、仕事ですよ」
ハッと我にかえる。力のない拳はやすやすとレオによってつかまれていた。
手を払い、身体を離し、どういう意味だとにらみつけてやる。レオは何事もなかったかのように、いまだ笑みを浮かべたまま口をひらく。
「お城がね、大変なんですよ。次期国王の戴冠式が、一週間後だそうですけど」
そうそう浸ってもいられないらしい。自分のことなど、考えている暇などないらしい。
アルは突然突きつけられた現実を、いとも簡単に受け入れてみせた。
「――船長と話がしたい」
オッドアイの瞳の男は満足そうに頷くと、そっと軽くお辞儀した。
「仰せのままに」
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アル王子の登場をいちばんに驚いたのは、スーだった。
広間のようになっている甲板には、すでに海賊たちが集結していた。笑みをたたえている者、固い表情のもの、落ち着かなげにそわそわしているもの様々だが、みな一様に緊張の色をうかがわせる。まるで臨戦態勢のようだ。
しかし、それはあながち間違いではないかもしれない。海賊たちに囲まれるようにして待っている彼を見つけ、アルは苦笑を呑み込むと、用意された自分の位置へと進み出た。
「アルー、僕が海賊として……王子の地位を失って生きてきて、やっていたことを、聞いてほしい」
アルが目前へ来るなり、ウィルは口を切った。そして二の句を告げないうちにつづける。
「僕には僕のできることがあると信じ、やってきたんだ。船員のみんなの協力を得て、調べつくした。いろいろ複雑にされていたせいで時間はかかったけれど」
辺りはしんと静まりかえる。びくびくと自分とウィルを交互に見やるスーに嫌気がさし、アルは極力彼女を視界へ入れまいと努めながら、話の先を促した。
「だれが黒幕なのか、ずっと調べていた。王子暗殺組織を潰したはずなのに、消えないしこりのように根を張る悪意……それは城の、内側からわいた権力への欲望だ。僕らは、ルドルフ大臣に目をつけ、彼の周囲を探った……この船があれば、異国へ行くこともたやすい。国によっては、カスパルニアのように海賊を軽視する国もあるし、城で王子を務めるよりも動きやすいことも多かった」
「いろいろな国へ行ったわ。そしてあたしたちは見つけたのよ」
ドロテアが静かに引き取り、言った。
「あたしの所属していた暗殺組織は、ただのお飾りだったの。すべては……あの大臣と、ラーモンド家の策略」
「ラーモンド?」
思わず声をもらす。ラーモンド家といえば、ラベンの国を滅ぼし、スーの血族を滅亡に追いやった一族ではないか。
ウィルは頷くと、スーにチラと目をやってから言葉を繋いだ。
「ラーモンド家は我ら一族の遠い分家にあたるはずだ。……王族は深い緑の瞳、という掟から、彼らは省かれた、言わば哀れな一族。僕ら王家を憎んだとて、仕方がない」
「そんなの、逆恨みよ!」
ぎゅっと唇を噛みしめ、ドロテアは怒りに顔を歪める。
「それで彼らは、ラベンの国を隣国に売り渡したの。機密情報を与えてね……」
あとの話はこうだ。
隣国・ベルバーニと手を組んだラーモンド家は、そのまま彼らの配下につくかに見えたが、なんとカスパルニアの家臣を志願した。領主の地位を求めた彼らだったが、普通ならば認められるはずもない。……しかし、“運よく”侯爵一族が何者かに暗殺されたため、その地位をラーモンド家へ与えたのだとか。それには大臣が深く関わっているという噂がある。
ラーモンドがラベン滅亡の企てに関わっていた事実は、カスパルニアによって公には隠されたというわけだ。
この事実を、当時の次期国王・フィリップはまったく知らなかった。
さて、なぜ大臣はラーモンド家を匿ったのか……それにはこんな憶測ができる。
ラーモンド家は、いまだベルバーニとの縁が切れていないらしい。むしろ、今も強い絆をひそかにほこっているらしい。ベルバーニには巨大な武力がある。彼らは生まれながらの戦士として、古くから生きつづけてきた――大臣はこれに目をつけたのだ。
カスパルニアの王子たちを亡き者にし、自分の言うことを聞く人物を王にする。大臣は権力を手にし、ラーモンド家にも十分な地位が与えられる。ベルバーニに関して言えば、この大国と争う心配もなくなり、加えて自分たちの手が回せる。……となれば、協力しないわけがない。大臣が権力を取ったあとで、ゆっくりとその王位すら潰して国を侵略することだってできるのだ。
「ベルバーニの真の目的はまだハッキリとしない……だが、今わかっているのは、大臣とラーモンド家によって王位が奪われようとしているということ。そして……ベルバーニに動きがあったということだ」
思いつめた表情でウィルは言うと、アルに目をやる。その強いまなざしに、思わずアルはたじろいでしまった。
強い――なにより、まっすぐに。
いつもは柔くやさしい羽毛のような、流水のような緩やかな印象を与える彼であるが、いざという時、これほどまでに鋭くしなやかで、まっすぐなものになるのかと……アルは無意識のうちに内心感激を覚えた。
ウィルはそのまま瞳をそらさず、告げた。
「ベルバーニの大軍が、カスパルニアへ向かっている……!」
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三日かかって、ようやく故郷へ帰った。
それほど遠くまで航海していたつもりのなかったアルは、驚きと焦りで口をひらくことがいっそうなくなった。
レオの報せにより、王国に危機が迫っていることを告げられ、ウィルからは彼らが調べていたことを聞かされた。アルは船の主である船長に頼み、すぐに進路をカスパルニアへ向けてくれるように言った。彼はすぐに快く了解し――というよりは、すでにそちらへ進んでいることを話し――奪還の協力を申し出た。
(――いらないよ)
アルは深く息をはくと、そっと目をとじる。潮の匂いが、きつい。
(助けなんていらない。……あんたはもう、王子じゃないんだから)
港が見えてくる。そこにはすでに、数人の人影が待っていた。
遠目で判断はつけにくいが、そこにおそらくランスロットがいるだろうと確信し、アルはひとり、自分でも気がつかないうちに、ほっと安堵の息をもらす。
それにしても妙なことである。真昼近いというのに、港には民がひとりもいない。いるのは、海賊船の到着を待つ、数名のみ。奇妙な違和感を覚えたが、そんなことに構ってなどいられなかった。
船がつけられ、錨が下ろされ、まずはアル、スー、ウィル、ドロテア、レオ、カイン、ダリーの七人が船を降り、残りは船で待機ということになった。港には、アルの予想通りランスロット、そしてこちらは予想だにしていなかったウルフォンと、メディルサの衛兵が数名待っていた。
それぞれが地へ降り立ち、互いを見合った。すぐに自分の第一騎士がさっと出てきて、口をひらいた。そう思った、その次の瞬間――。
予想外な出来事が、起こったのだった。