第四十章 剣と葛藤の破音
第四十章 剣と葛藤の破音
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『おまえは捨てられたんだよ――大好きな、フィリップに』
深い奈落の暗闇が迫る。無音の世界で、冷たい空間が占めていた。
『フィリップ王子を死に追いやったのは――この女よ』
『フィリップ兄さまはね、殺されてなんか、いないんだ』
いつか言ったアルの言葉が重なって響いていく。同時に、立っていられないほどの不快な気持悪さに襲われ、スーはぺたりと座り込んだ。
そして――。
『自殺したんだ』
彼の声が、妙にありありと響く。耳元でリアルに囁かれたような、そんな錯覚に襲われた。
「……ち……がう……嘘――嘘よ……」
頭にいくつもの音が響いて離れない。言葉の意味がわからなくて、現実みがなかった。
ドロテアを助けなくてはならない――それはわかってはいるものの、あまりの衝撃に指一本動かせなかった。
呪縛のように広がる忌むべき記憶に、スーは囚われてしまった。
拒むように何度も頭を振り、なんとか逃れようとうめくも、狂ったように反響する声はやんでくれない。
(わたしは……捨てられたの?それとも、ドロテアさんが、兄さまを殺したの)
どうしようもない事実が転がっている。けれどスーには、どちらにしたって良いものではなかった。
「ねぇ。あんたがこの女を殺してみなよ」
リアは――いや、デジルと呼ばれた女は、にやっと笑って言った。ドロテアの首を絞めていた手をパッと離し、スーの手をとる。
「仇をうたせてあげる。ね……?」
げほげほと喉をおさえながら咳き込む女性を見やり、愉快そうに笑うデジルに、スーは眉を寄せた。
(わたしが、仇うち……)
震える指先を見つめながら、スーはごくりと唾を飲み込む。どくどくと、心臓が妙に生々しく脈うつのがわかった。
(兄さまの――)
それは、正しいことだろうか。そしてそれは、果たして自分に可能なことだろうか。
無理だ、とスーは即答した。動揺し、混乱は生じたものの、そこまで血迷うはずはない。
一度目をとじ、それから強く力を込めて瞼をあげる。自分は正しくありたい――たったひとりの支えであった彼に、恥じないように生きていたい。
「わたしは、あなたのようにはなりません」
デジルはふっと唇に笑みを浮かべたが、同時にひどく冷たいまなざしを向けた。
「あら、そう。なら、死んで?」
にやっと口角を引き上げたかと思うと、左頬に鈍い弾けるような痛みが走った。次の瞬間、スーは自分が床に転がっているのに気づき、目をまたたく。
「休む暇なんかあげないよ」
ぞくりとする声が聞こえたと思うと、また一瞬にして腕がねじりあげられていた。
ぐっ、とスーはとっさに悲鳴を呑み込む。思わず泣き叫びたいほどの痛みが駆け抜けたが、これ以上弱みを見せたくはなかった。なけなしのプライドというよりは、なにもできない悔しさから生じた意地であった。
ミシミシと骨が代わりに悲鳴をあげる。脂汗が額に浮かんできた。もしかすれば、腕の一本は折られるのかもしれない――そんな予感が頭をめぐった。
「どう?苦しい?」
にたにたとした笑みを顔中に広げて、デジルは言う。そこには狂喜に溺れた歓びしか見えない。
スーは気が遠くなりそうななかで、けれどやはり、意地でも悲鳴はあげまいと唇を噛みしめた。
助けて、とばかり叫んでいた。アルが刺客に襲われたときも、ランスロットが賊に囲まれたときも……クリスにかばわれ、レオに助けられ、お荷物のように足手まといになりながら逃げてきた。自分でなにひとつ、立ち向かえもせずに。
仕方がないことだろうか。自分は女で、非力だ。ドロテアのように男たちに混じりながら強かに生きていく術もなく、ただ街の女たちから慕われる彼女にあこがれを抱くことしかできない。シルヴィやローザのように、気がまわるわけでもない。完璧な侍女の仕事などできやしない。
いつも他人が羨ましかったのだ――たぶん、心のどこかでいつも自分をひげしては、他人を羨ましがった。
だがら、だれかの特別になりたかったのだ。
そうして、彼女の羨みはリア――否、デジルにまで及んでいた。
嫉妬だった。彼女は自分にないものを持っている気がした。
看護の侍女として、完璧な振る舞いをし、アルのそばに居座る彼女に――自分の仕事を取られたような、そんな悔しさを抱いた。
そして今、だれかを殺そうと手をのばす、そんなデジルの姿にすら畏怖に近い念を感じてしまうのだ。
自分は決して暗殺者などになりたくはない、と思いながらも……もし、本当にいるのなら――『フィリップの仇』がいるのなら、許すことはできない。ならば、この手で――そんな一種の使命感に似た快感を覚えていた。
(わたしには、なにもできない……)
どこか遠くで、スーは必死に自分の意識を手放すまいとした。
(できないから、捨てられたんだ。でも、もう、捨てられたくないよ――)
白い光が、弾けた。
瞬時に、オレンジに近い赤いなにかが飛び出す。
気がつくと、スーは床に転がっていた。鈍い頭が働き出し、肺に新鮮な空気が満ちて、腕の痛みが徐々に消えていくのがわかる。
のろのろと、しかしできる限りすばやく身体を起こして辺りを見回す。なにがあったのだろう。なぜ、デジルは攻撃をやめたのだろう。
彼女は腕をかばうようにして蹲っていた。そばには鋭い刃を光らせるナイフが落ちている。そして、もうひとつ――。
(赤……)
スーは何度かまたたきした。赤い毛のなにかがうごめいている。ナイフの近くに立ち、デジルを威嚇するように歯を剥き出しにして唸っている。
スーはしばし唖然とした。デジルがナイフを取り出してスーを殺そうとしていたのだとわかり、ぞっとする。と同時に、その赤い生き物――小ザルが助けてくれたことに仰天した。
「煩いサル」
デジルは腕を押さえながら立ち上がると、キーキー唸る赤い生き物を蹴り飛ばした。
スーは急いで小さく鳴くサルに近寄ると、ぎゅっと抱きしめる。
(わたしは、馬鹿だ)
弱々しく鳴くサルに、心は軋むように痛んだ。しかし、デジルはただ笑い、腕から滴る赤い血を舐めあげた。どうやらサルに噛みつかれたらしい。
自分が情けない。すこしでも、この刺客にあこがれを抱いてしまったことが悔やまれた。
「もう、いいわ。さっさと死んで」
微笑を浮かべて近づいてくるデジル。スーは急いで間合いを取ろうとした。――だが。
「やめて」
ドロテアの声が響く。ゲホゲホとむせながらも、彼女はしっかりしたまなざしでデジルを見つめていた。
「喉を潰してあげようか。アンタの自慢の歌声を、消してあげるよ、リア!」
声高々に笑うと、彼女はたんと身を翻し、ドロテアに襲いかかった。
瞬間、悲鳴をあげそうになったが、スーは我が目を疑った。
ドロテアはすばやく、近くで寝ていた海賊の男の腰から剣を奪うと、ナイフで切りかかってきたデジルの攻撃を受け止めた。
不利と見なしたのか、デジルもすかさず海賊のひとりから剣を取り、構える。同時に、懐からナイフを数本取り出し、ドロテアに投げつけた。
「腕が鈍ったんじゃない?歌姫さまぁ」
「余計なお世話だわ。アンタこそ――」
デジルの攻撃をいなしながら、ドロテアは徐々に攻めに転じていく。予想外の強さだったのだろう、デジルの表情も険しく、そして愉快そうに歪んだ。
「あたしは!生きてきたのよ!」
金属どうしが弾き合い、音が響く。ヒュンと風を切り、すさまじいはやさで繰り広げられていく。
時にしなやかに、時に強かに、舞のように。
「あの日から、ずっと――もしもっていう想いに縛られながら、生きてきたの!」
ドロテアの声は叫びに近い。緊迫した空気のなかで、彼女の声だけが妙にリアルに耳に届いた。
「海賊を――ナメないでっ!」
(――そうだ)
スーはそのとき、衝撃を受けた。心臓を一突きにされたような、激しい衝撃だった。
(ドロテアさんは、彼女には、それなりの苦しみがあったんだ……目に見えないだけで、みんななにかしら苦しみを背負っている)
羨むばかりだった自分に気づき、呆然とした。やはり自分は甘いのだと、そう思わずにはいられなかった。
そのとき、ついにドロテアの手から剣が払い落とされた。嘲笑いながら、デジルが口をひらく。
「言ったでしょう?アンタも王子さまも、馬鹿よ」
キッと悔しげに顔を歪めるドロテアに、勝ち誇った表情のデジルが一歩つめよった。
その剣の切っ先が、不気味な光を帯て女の喉を狙う。刺客の顔から、笑みが消えた。
「残念だったわ……アンタはいい暗殺者になれると思ったのに。今から、こちら側にこない?」
「ごめんよ。あたしには、そばにいたい人がいるから」
殺されそうになっているのに、ドロテアの声や表情にはまったく怯えの色がない。ただまっすぐに目を見開き、強い調子で堂々と言葉を発している。
デジルはすでに狂ったような笑みを消し去り、瞳には冷え冷えとした殺気を満たしていた。
声など、出せやしなかった。息苦しいほどの圧迫した緊張感が辺りを包み込み、スーは逆に、なんだか夢をみているようなぼんやりした錯覚を起こす。
(どうしよう。どうしたらいいの)
「ああ、動かないでね。本来はアンタの始末に来たんだから」
スーの視線をとらえ、デジルが目を細めて言った。ぞくりと肩が震える。
(わたしのせいだ)
自分のせいなのだ。刺客はスーを追ってここまで来たのだ。もし、スーがこの海賊船に乗るようなことがなければ、カインやダリーたち海賊が巻き込まれることもなく、レオが怪我をすることもなかった。ドロテアが狙われることも、なかったのだ。
お荷物ではとどまらず、これでは疫病神になってしまうではないか。
(そんなのいやだ)
元気を取り戻しはじめた小サルが、手のなかでもぞもぞ動いた。そして、つかの間油断してほっと息をついたスーの耳に、その音は届いた。
『これはもう本能だ』
頭で理解するよりはやく、スーの頭にランスロットの声が響く。
『アンタは槍が空気を切り裂くわずかな音を聞いたんだ』
いつか敵とまちがわれて攻撃しかけられたときがあった。あのときも、なにもわからず、勝手に身体が反応していたのだ。
見れば、驚きを隠せないデジルがそこにいた。手にした剣を、先程までスーの心臓のあった位置に突きたてている。
刺客は非常にすばやかったのだ。気の逸れた一瞬を逃さず、彼女はドロテアから狙いをはずし、スーに襲いかかってきたのだ。そしてぎりぎりのところで、スーの耳はその音を、気配を捕えた――瞬時に身をかわし、勢いよく横滑りをした形で、彼女は固まった。
自分でも信じられない。九死に一生とはまさにこのことだ。危機一髪とは、まさにこのことだ。
もしかしたら本当に軍師にむいているのではないかと、そんなことさえチラと思った。
デジルはぐっと奥歯を噛みしめ、再度構え直す。
「そうね。あなたは、たしかに耳がいいわ」
「あっ」
がっと強く首を掴まれた。逃げ場もなく、スーはもがく。
赤い唇がゆるゆると引き上がるのを見て、今度こそ殺されてしまうのだと悟った。
「耳がいい――それだけよ」
「やめてデジル!」
ドロテアの悲痛な声が虚しく響きわたる。
そしてついに、銀の光を放つ刄が自分に向かって走ってきたとき、スーはぎゅっと目をとじた。
闇が広がる。黒よりも深く、濃い、無音の世界が広がっていく。ひとりぼっちの、暗闇が。
闇のなかで――
「そこまでだ」
スーの耳に、その声は強い余韻をもって響く――。