第二十四章 王子のきず
第二十四章 王子のきず
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黒髪の、鳶色の眼をした精悍な騎士。冷めたようで、それでいてどこかお節介な男。アル王子のピンチにはいち早く駆け付ける、王子の第一騎士――ランスロット。
(彼のお父さまが、敵?)
信じられない。スーは早まる鼓動を抑えようと、顔を歪めた。
ウルフォンから話を聞き、すぐにスーは部屋をあとにしてアルの元へと向かった。軽く目眩を感じたが、つべこべ言っていられない。ただとにかく、彼に聞かなければならない。
知っていたのだろうか。ランスロットの父が、反抗グループだということを。それとも――。
(アルさまの命を狙ったのは、恐らく反抗グループ……)
ウルフォンの言葉の端々から、それが読み取れた。苦い思いで、スーはさらに足をはやめる。
アルがランスロットに見せる表情は、他人に見せるものとはちがう。飾る気もなく、ただ単純に、率直な感情を顔に出す。だから、彼にとってランスロットは特別な存在なのだと、スーにはわかっていた。
その彼の父親が。まさか。
スーはただ、ひたすらにアルを目指していた。
「アルさまっ……」
動転していたのだ。急いていたのだ。だからスーは、必要最低限の礼儀――加えて、アルに対する一種の恐怖――さえ忘れてしまっていた。扉をノックすることなく、力任せに開け、部屋へなだれ込むように入っていった。
人は常々後悔する生き物である。特に周りが見えなくなって行った失敗ほど、後悔にふさわしいものはないだろう。
スーはたちまち後悔した。すべてに。
「――っ」
ぱくぱくと二、三度口を開け閉めし、それから視線を泳がせる。しかし、結局は反らせず、目の前のものを凝視してしまった。
(――最低)
来なければよかった。明日にすればよかったのだ。必死に走って、せっかくアルから自由になれた時間を、彼のために使う必要などなかったのだ。
見なければよかった。扉なんて、開けなければよかった。
そうすれば、こんなにも胸が張り裂けそうな想いも知らずにすんだのに。
(来なければよかった……)
すくなくとも、アルは今、スーがこの場に来ることを望まなかったにちがいない。
後悔した。すべてに。
「し、失礼いたしました――」
頭を下げ、スーは部屋を出ようとした。
部屋のベッドの上には、ふたつの影があった。ひとつはすぐにわかる――薄暗闇に浮かぶそのシルエットは、まちがいようもないアルの姿。そしてもうひとつ、彼の下にいるのはだれなのかわからなかったが、女であることは明白だった。
見たくなかった――と、出ていこうとして扉に再び手をかけたそのとき、声がした。
「助けてっ」
なぜかぎくりと身を震わせる。しかし次の瞬間には、スーは驚きに目を見開き、再びふたつの影に顔を向けた。
悲鳴に近い声で助けを呼んだのは、リアだった。
「助けてっ!あ、アルさまが無理矢理ッ!」
動きのないアルを押し退け、女は急いでベッドから抜け出してスーのもとまで走ってきた。部屋の明かりはないのでよく見えなかったが、彼女の服ははだけており、頬には涙がつたっている。
リアはスーにひしと抱きつき、わっと声をあげた。
「ひどいっ。わ、わたくしは……わたくしはっ……」
(アルさまが……無理矢理……そんな――)
愕然とする。自分も充分ひどい仕打に耐えてきたつもりだが、リアに比べればそうでもないように思える。彼女をどこかの娼婦のように扱うなど、なんという非道か。
スーはなだめるようにリアの肩をさすりながら、ベッドの上でいまだ身動きせず、座り込んでいるアルをながめた。
(そういえば、守りの衛兵もいなかった)
普段なら、王子の部屋のまえや廊下などには必ず護衛の衛兵がつくはずであった。しかし、今夜に限ってその姿はない……つまりアルが意図的に兵を下がらせたのだ。
それが意味することを悟り、スーは顔をしかめる。なんてひどい――。
しかし、アルならやりかねないことかもしれなかった。なにしろ、スー自身も先日、唇を無理矢理奪われてしまったのだから。
けれど、どこかでスーは自分だけがアルからそのような行為を受けるのだと思っていた。実際、アルがひどく意地悪になるのはスーの前でだけであったし、それがフィリップ王子を憎んでいることに繋がっているのだと推測していた。
(なぜアルさまは、わたしにキスをしたの……)
ずっと思っていた。『憎いくらい好き』というあの夜の彼の言葉のなかには、なにか深い意味があるような気がしていた。ただ、あれは愛の告白などではない。それだけはわかっている。
自分は特別なのだ――アルにとって、どんな意味であれ。
そんな想いがスーの知らぬ間に心にあった。そして今、その考えがひょっこりと顔を出す。
裏切られたような、そんな感覚に襲われた。
(裏切りもなにも、わたしとアルさまはそんな関係じゃない。なにを考えているの)
自嘲的な笑みが口の端に起こる。自分があまりに情けなかった。
「スーさん……あなたが来てくださらなかったら、わたくし――っ」
リアの声で我にかえる。スーはあわてて、彼女の華奢な身体をさすった。
とりあえず、彼女は無事らしい。間一髪で助かったのだということがわかり、スーはほっと胸をなでおろした。
「大丈夫ですか……?とりあえず、はやく部屋に戻ってください。このことはまだ、だれにも言わないでくださいますか?」
まずはリアを落ち着かせなくては。それから、口外させないようにしなくては。アルの悪い行いが他人の耳に入ることは、避けねばなるまい。
もしアルが無理矢理侍女を襲おうとした、などと口外されれば、城中に混乱が生じるかもしれない。それこそ、アル王子反抗グループにとっては、好都合だろう。
政治のことなどわからない。まして、アルの行いを無視などできない。
それでも、よくわからないからこそ、今は無駄に混乱を生じさせるべきではないのだ。
リアはこくりと頷くと、そっと部屋をあとにした。
(だれか呼ぶべきだったかしら……でも)
なにか違和感があったのだ。もしかすれば、まだ自分だけが特別なのだと酔いしれたいだけかもしれないが。
「アルさま……明かり、つけますね」
スーはまるで、獰猛な野獣と対談しているような気分だった。動きもなく、なにか言うわけでもなく、ただ黙ってベッドの上にのっかっているアルを不審に思うも、どうしていいかわからない。
ただ、あんな場面を見せられたあとの薄暗闇のなかで彼に近づきたくはなかった。それに彼はスーに対して前科持ちと言っても過言ではあるまい。
パッと明るくなった部屋は、いつものアル王子の部屋とは別物のようだった。キラキラした光のなかで現れた部屋は、暗闇で見せるような妖しい雰囲気はない。
いつものアル王子の部屋は、月明かりだけが頼りの、どこか妖艶で幻想的な空間だった。それが明かりをつけただけで、夢から現実の世界へ戻されたように姿を変える。
「……アルさま……あの……」
スーはじりじりとベッドへ近づく。ブロンドの髪が小さく揺れた。
そして、彼を――彼の背や肩にかけて刻まれたものを見て、思わず足を止めてしまった。
「――アルさま……ッ」
言葉が出てこない。目を見開き、ただ彼の背を見つめる。
(なに、これ)
口元を手で覆い、スーはしばし息を止めた。
王子の背から肩にかけて浮かび上がったのは、黒く醜い痕だった。刻印のように肌に刻みこまれた――烙印。
奴隷の印。
少女はただ、目の前の光景に目を疑うばかりで、動けなかった。
真実は、いつも唐突だ。突如暗闇からぬっと姿を現し、襲いかかってくる。そうかと思えば意地悪く隠れ、なかなかその全貌を見せようとしない。
だから、どれが本当でどれが嘘かを決めるのは自分だ。たとえまちがった判断を下そうとも、その後に待ち構えている悲劇になすすべなく見舞われようとも、選んだ本人には他を責めようがない。後悔しても仕方がないのだ。
人はなるたけ後悔しないように、じっくりと真実を探る。そうして確信が持てるまで、狩人のように油断なく見極めるのだ。
(わたしは、まちがっていたの……?)
スーは自然と涙が込みあげてくるのを、止めようもなかった。
(これが本当のアルさま……アルさまの本当なの?)
暗闇で、彼の上半身を見てきたことはあった。けれど、まじまじと見れるはずもなかったし、だいいち黒い烙印は暗がりではまったくわからない。その印が刻まれていることにすら、近くにいたにも関わらず、スーにはわからなかったのだ。
気づくべきだったのだろうか。
彼の背が、こんなにも小さく儚く見える。
なぜ。
「……スー?」
依然として身動きをしなかったアルであったが、ひゃくりあげる少女の声が聞こえたのだろう。まだぼんやりした眼を彼女へと向けた。
焦点の合わぬままの王子の視線を受け、スーは涙をぬぐう。
(最近は泣いてばっかりだ……すぐに泣く。弱虫な、わたし)
強くなりたい。すべての不安を受け止め、浄化してやれる存在になりたい――フィリップ王子のように。
そっとスーはアルに近づき、彼を見る。彼の様子はなんだかおかしいし、この烙印を見てしまったからには、なにか聞かないといけないと思った。
青い瞳が、じっとこちらを見つめる。その宝石のような瞳に、変に弱々しい表情をした少女が映っている。
「アルさま」
スーは今一度、彼の名を呼んだ。
青い瞳が、くっと、揺れる――。
突然だった。
瞬間、スーはすごい力で手を引かれ、気がついたときにはアルの肩に顔をのっけている形になっていた。
ラベンダーの香りに混ざって、なにか甘い匂いが鼻をつく。
しかし、それを気にする間もなく、アルの腕がスーの腰へのび、ぐっと引き寄せ、ふたりの身体が密着していた。
「――やっ」
数日前の出来事が頭をよぎる。
――キスが。
しかし。彼の手を振り払おうとしたスーであったが、アルの身体が小刻に震えているのに気がついた。
いつぞやの時のように笑っているのではない。泣いているのでもない。――恐れていたのだ。
「あ……あぁ……」
目をぱっちりと見開き、言葉にならぬ声を発しながら、アルはスーにしがみつくようにして震える。彼の手には力がこもり、苦しいくらいに少女を抱きしめていた。
怖かった。こんなアルを見るのは、はじめてだ。
「……スー……」
だが、彼は蚊の鳴くような声で彼女の名を呼ぶ。すがりつくように、何度も。
スーはアルの肩に腕を回し、落ち着かせるために抱きしめた。
どれくらいそうしていたのだろう。
きつく抱き合っていたふたりが、どちらともなく離れ、互いの顔を見た。スーは困惑と安堵の曖昧な表情で、アルはほぼ無表情に近かった。
「アルさま……わたし――」
「――見たよね」
口を開いたスーの言葉を遮って、出し抜けにアルが口を切った。いつもと変わらない、冷たい声音だ。
「この烙印……奴隷の印のことだよ」
アルは混乱しかけているスーを見すえ、言う。ためらいも、羞恥もないようだった。
「教えてやるよ。俺が、どうやって生きてきたか」
ニッと王子は薄く笑う。少女の赤い髪を一房つかみ、キスを落としながら。
その笑みを見た瞬間、スーは果てしない恐怖に襲われた。