第二十三章 誘惑ノ香
第二十三章 誘惑ノ香
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薄暗闇のなかで光るのは、月と鏡と、そこに映る自身の青い瞳だけだ。
アルは身体を起こしてベッドの端に背をあずけて、ぼんやりと物思いに耽っている。春終わりを告げる夜風が窓から入り、そっと髪の先を揺さぶった。
真正面にある鏡を見つめながら、ふと彼は我にかえる。そこにいる冷たく悲しい顔をした人間が目に入り、とてつもない嫌悪を抱く。静かな夜に唸りをあげる自身の激しい内部に、瞳は無意識のうちに冷たい怒りをたたえていた。
暗闇に身を沈めて感じるのは、言いようのない空虚な憎しみだ。まるで焼かれているような激痛が肩や背にかけて流れ、眉をひそめる。醜い烙印に、怒りは募る。
自分がなにをしたいのか、わからない――そういう想いは、いつも彼の胸の内にひそんでいた。しかし、それを認めることはできない。認めてしまえば、自分はどうして生きているのか理由を失ってしまうからだ。
(……あいつがいて、よかった)
くっくと声をたてて静かに笑い、アルは目をとじる。瞼の裏に浮かんできた深い緑の瞳を、脳裏に深く刻みつける。
(あいつのお陰で、俺は復讐ができるんだ)
恨む対象がいなくなり、悶々としていた日々。憎しみをだれにぶつけていいのかもわからずに、凍てつくように荒んでいった心……けれど。
(いつまでも、そばにおいてやる)
目をあけ、アルはニヤリとほくそ笑む。
大切な少女が壊れないようにしなければ、と思った。――まだまだ、やりたりないのだから。
あの汚れない緑の瞳が歪むのを見るのが、今のアルの一番の楽しみなのだから。
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「失礼いたします」
夜もふける頃だというのに、王子の寝室を訪ねる者がいた。彼女は王子の了承なしに明かりをつけ、にっこりと微笑する。
「なんだ、おまえは」
軽くにらみつけながら、アルは失礼極まりない女に言った。本当は口をひらくことも億劫であったのだが、人物が人物なだけに、安心して狸寝入りなどしていられなかった。
女――リアはくすりと笑うと、小首をちょこんと傾げ、赤い唇を笑みに染める。そしてそのまま、アル王子の腰かけるベッドまでするりと移動した。
「アルさま、おわかりでございましょう?」
「なにを――」
トン、と思いの外強い力で肩を押され、倒される。疑問や抗議など言う暇も与えられず、アルはベッドへ身を沈められてしまった。
「わたくしなら、あなたの望みを叶えて差し上げられる……わたくしを選んでください、アル王子」
ふふ、と笑みを浮かべたまま、彼女はアルの身体に自身を重ねはじめた。きつい香水の匂いが鼻をつく。
軽く舌打ちをし、アルはため息を呑み込む。
(ルドルフの差し金か……)
たしか彼女はルドルフの命で城へあがったはず。ならば、貪欲な大臣のことだ。彼がリアを使おうとしているという可能性も考えられる。
「退け。悪いがおまえに興味はない」
「あら、ダメですわ」
起き上がろうとしたが、再び押し返される。男として力負けするのは不服だが、しかし、リアは予想外に力強く、しつこかった。
彼女はさらに笑みを深めながら、自身の服のボタンをゆっくりとはずしはじめた。妖艶で誘惑的な魅力を放ちながら。
「さあ、アルさま。言ったでしょう?わたくしなら、あなたの力になれる。欲望を満たしてさしあげる。なんでも叶えられる!」
「――ッ、やめっ……」
「我慢なさらないで」
だれが我慢などするか、と怒鳴りたかった。けれど、なぜか頭がくらくらとする。甘いような苦いような、そんな香水の匂いが濃くなったような気がする。
リアはほほえんだまま、アルのボタンへも手をかけた。次々にはずされ、肌がさらされる。
金のロケットが、きらりと揺れた。
「やめろ」
反射的にアルの身体が動いた。リアの手をはたき、一気に身体を引き剥がす。そして荒い呼吸のまま彼女をにらんだ。
リアは心外だったのか、やや驚きに目を見開いていたが、やがてにやりと口の端を引き上げると、今度はアルの首へと腕を回して抱きついた。
「アルさま、なにを怯えているのですか」
途端、きつい香りはさらに増した。鼻を満たし、頭をくらくらさせ、意識を朦朧とさせる。瞼が重くなり、息は荒くなる。なにか激しい感情が沸き上がってきそうだった。
それでも、アルは必死に呑まれまいとした。誘惑してきたこの女を、野放しにはできない……。
(俺の欲望を満たす?叶えてやるって?)
失笑ものだ。アルはぼんやりする頭のなかでせせら笑う。
(こんな奴には、無理だよ……)
「素直になってください。欲に忠実になって。わたくしを妃に選んでください、アル王子……」
うっとりする声音で言うと、彼女は再びアルをベッドへと沈めはじめる。アルは、もうどうにでもなれと思う反面、頭の隅では警鐘が激しく鳴っていた。
冷たく堅いロケットが、肌の上で揺れた。
「……わかった。だから、ちょっと待って」
アルの声は努めてやさしかった。女は顔をあげ、にっこりと微笑を浮かべる。
「うれしいですわ、アルさま!わたくし、ずっと愛しております。どうかこのまま――」
「だからね、君の名を教えてよ」
彼は彼女の言葉を遮り、言う。女は一瞬眉をひそめた。
「お忘れですか?わたくしは、リアです――」
アルはにっと笑った。思わず彼女が、どきりとしてしまう笑みで。
次の瞬間、力をぐっと込めて起き上がり、女の身体を反転させ、アルは一気に彼女の腕を上で束ねてしまった。馬乗りされ、腕を抑えられ、女は抵抗と呼べる抵抗もできなくなる。
「な、なにをするのですか?」
「おまえこそ、嘘をついてどうする」
ぴくり、と彼女の頬が引きつった。焦りと言うよりは苛立ちと不満が、その眼に現れている。
「嘘?わたくしがいつ、嘘をついたのですか。わたくしは――」
「おまえはリアではない」
女の言葉を押しくるめて、彼はきっぱりとそう言った。確固たる確信を持って。
冷たい空気がふたりの間に流れた。見えぬ壁がぬっと飛び出し、互いをどこまでも隔ててしまったような、そんな空気が辺りを満たす。緊張の糸がピンと張ったなかで、ただ女は感情を押し隠して王子を見つめていた。
静かだが、アルには自分でも気づかないほどの怒りがあった。冷ややかなまなざしを女に向けながら、彼は腹がたって仕方がなかったのだ。
どうしてなのか――本当は、理由だってわかっていた。なぜ、腹が立つのか。けれど、アルはそれに気づかないふりをし、腹を立てていることすら知らぬふりをした。
そう、しつづけてきた。今まで、ずっと。
女は突如、口を笑みの形へ変えた。目を細め、せせら笑う。
不気味で、人を不安に誘い込むには充分な笑みだった。
「さすがは王子さま……けれど、やっぱり愚かね」
「なにが言いたい」
アルは胸騒ぎを感じたが、それを表情に現すことはせず、淡々とした調子でつづける。
「黒幕はだれだ。だれに雇われた?」
女はさらにおかしそうに笑みを深める。
「口を割るとでも?間抜けな王子さま」
カッと頭に血がのぼる。普段なら抑えられた感情が、今はどうもコントロールできない。
それを見て、女は声をあげてせせら笑った。
「香りって万能なのよ。女の武器……覚えておきなさいよ、坊や」
「貴様――ッ」
王子の頭に血がのぼって、拘束していた力が離れた一瞬のうちに、女はするりと身をかわし、次にはアルから距離をとっていた。すばやい身のこなしである。
もはやただの侍女とは思えなかった。
「いいことを教えてあげる」
女はニヤリと笑う。
「今ごろ愛しの世話係は――冷たくなって土のなかよ」
抑えることなど、できなかった。
衝動だった。
王子は怒りに目を光らせて、女を捕まえると、再びベッドへと押し倒した。彼女は逃げようともせず、なされるがまま、身を横たえている。アルはそれにすら違和感を覚えられなかった。
ただ、怒った。スーを苦しめるのは自分だ――大好きな玩具を奪われた子供のような、そんな感情に近いものがあった。
(頭がぼうっとする……よく、わからない……)
むかむかする怒りのなかで、頭の隅では変にしっかりと落ち着いた意識がある。けれど思考はうまく働かない……。
「なにも考えなくて、いいのですよ?」
女の腕がのび、アルの頬を撫でる。びくっと彼は身を引いたが、女のうっとりする声は耳を侵食し、身体を痺れさせた。
「香りに溺れてしまいなさい……王子さま」
再びやさしい声音で語りかける女は、ひどく魅力的だった。服のはだけた間からのぞく白い肌も、潤った赤い唇も、魅惑的な瞳も……すべてが男を虜にしようと襲う。
女の白い、ほっそりとした腕は王子の首へ回る。アルはほとんど無抵抗だった。
(頭が、重い……もう、なにも、考えられない――)
「愛しておりますわ、アル王子さま」
にっこりと妖艶な笑みを浮かべ、彼女はアルの額へ口づける。王子の瞳はとろんとなり、そこにはもはや、はっきりとした物は映っていなかった。
「わたくしは、リア。わたくしを、愛してください……兄上のように」
(兄さま――?)
黒い闇が、腕をのばす。そうして逃げられないように、茨の道を作り上げて、蔓で縛り上げる。
足元から呑み込んで、身体から心を覆い尽す。
もう、逃げられない。戻れない。
ぼんやりする頭のなかで、アルはそれをしっかりと悟っていた。
うーん。
そろそろかな笑
書いてて思ったのですが、
アルって色んな意味でアブナイ男ですよね笑
わたしって、変な人間が好きなのかもしれません(ぇ
※第一部(全25章)を2009年9月23日の夜に書き終わりました。
忙しさから抜け出せた暁には、いろいろと修正していこうと思います。
本館でアンケートや企画などやっています。
よかったら、是非^^