第二十一章 狼と羊
第二十一章 狼と羊
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「それでは、失礼いたします」
スーはぺこりとお辞儀をし、それからチラリと盗み見した。まだ違和感が抜けないのだ。
クリーム色の髪を落ち着かな気に振り、ウルフォンは注がれた紅茶をひとくち口へと運ぶ。どこかまだ緊張しているのか、肩は上がり、縮こまっている。
スーはどうしても、この第二王子について回る噂が本物だとは思えなかった。高慢な人間が、たかが召使ごときを気にするだろうか?
「あっ……あり――」
退出しようとしたスーに対し、出し抜けに声がかかる。なにか喉に詰まらせたような声に、思わずスーはびっくりして勢いよく振り返った。
だが、声を発したウルフォンの方が、スーの勢いに驚いて目を見開いていた。
「あっ、申し訳ありません……えっと、なにか?」
あわてて目を伏せて問う。こっそり盗み見したウルフォンの顔は、林檎のように真っ赤であった。
「いや――あっ、うん……」
声を詰まらせて、ウルフォンは何度か目をぱちぱちさせた。やがてひとつ呼吸を置いてから口を開く。
「……ありがとう――」
「えっ」
またもスーは勢いよく顔をあげる。ばっちりとウルフォンと目があったが、驚きのせいでそらせない。
茶色の目を泳がせ、ぽりぽりと頬をかきながら、彼はさらに夕焼けのごとく顔を赤く染めて言った。
「紅茶……入れてくれたから……」
そこでようやっと、なぜウルフォンがスーにお礼を言ったのかがわかった。彼は紅茶を用意したことに感謝を述べたのだ――ただの召使に。
特別なことをしたわけではない。むしろ当たり前の、貴族や王子はとりとめて感謝をする必要もない行為だ。それなのに、この第二王子は顔を赤くしながら礼を言う。
とうとうスーは、ウルフォンの噂を疑わずにはいられなくなった。
(噂は、真実とはちがう)
ウルフォンの部屋を退出し、自室へと戻りながら、スーはふいに思った。
(アルさまの噂も、そうだった……)
窓から白い光がこぼれている。城は静かで、靴の音が妙に反響して響く。しっとりした静寂は、ひんやりと心を落ち着かせる。
(いやなものだわ)
アルの噂も様々にあったことを思い出す。王宮にあがる前までにも、たくさんの噂が飛び交っていた。けれどスーは、本人を知るまではどの噂も信じるまいと決めていた。
実際、アルは良くも悪くも噂とはちがったのだが。
自分が王になるために、兄王子たちを陥れたという噂もあった。公の前では柔らかなのに、そうでないときには妙な冷たさをたたえるアルを、皆軽蔑していた。暗闇を好むことへは、不審を募らせていた。うつくしい容姿を、せせら笑う輩もいた。
(でもアルさまは、負けなかったんだ)
どんな噂があろうと、すくなくとも彼は堂々としていた。
(だからきっとウルフォンさまも……)
戦っているのだろう――スーは唇をきゅっと結び、目をとじる。なにを信じて、なにを信じないかは、自分で考え、つかむしかないのだ。
(では、なぜ……)
顔をしかめ、スーは足をとめた。鳥肌がたった。
(噂が本当でないなら、なぜ。ウルフォンさまはひどい言動をとったのだろう)
クリスが言っていたウルフォンの言葉を思い出す。あれは侮辱だ。そして、アルに対する攻撃だった。
「兄さま」
足の先をじっと見すえて、ぽつりとつぶやく。薄暗闇のなかに目が慣れてくるまで、じっとそうして動かなかった。
手前にある甲冑が不気味に光っている。無音の世界が広がっていく。
このフィリップの面影が色濃い城のなかは、スーが以前想像していたきらきらした場所ではなかった。豪華絢爛、笑いとやさしさに満ちあふれた場所などではなかった。
(兄さまがいなくなってしまったから、王宮は変わってしまったんだろうか……)
ぐっと拳をつくり、スーは顔をあげる。
――それとも。
(兄さまがいたときから、ずっとこんな世界だったのかな……)
王子の命は狙われ、根も葉もない噂がひしめきあい、嘘と偽りで形造られた、醜い世界。そんなところで、フィリップも過ごしてきたのだろうか。
だれが本当で、だれが嘘なのか。それを見誤れば、破滅の穴にまっ逆さまだ。
(わたしは、わたしを信じよう。わたしの見たものを、信じよう)
一歩踏み出した足はとめることなく、後退することなく、進んでいく。それを支えにしていこうと、スーは思うのだった。
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シルヴィはこれでもかとばかりに眉をつり上げ、指を立ててスーに詰め寄った。彼女お得意の、説教をするときのポーズである。
「いいですか?絶対に、近づいてはなりませんよ!」
「わかっているわ……」
スーは身を引き、つぶやくように答えたが、それは到底シルヴィの満足する応じ方ではなかったらしい。彼女はさらに眉間にシワを寄せてまくし立てた。
「わかってないわ、スー!あなた、何度命を狙われたと思っているのですか!」
「わっ、わたしが狙われたんじゃないわ。アルさまが……」
「同じようなものです!」
スーがそれ以上口ごたえする前に、ぴしゃりとシルヴィは言うと、腰に手を当てて鼻を鳴らす。
「アル王子さまの世話係なのだから、アル王子に近づくなとは言えません。けれど、あの方には近づいてはなりません。きっとスーになにかしてきますよ」
ため息をなんとか呑み込んで、スーはこの年下の勇ましい侍女を見やった。まるで母親に叱りつけられている小さな子供になった気分だ。
シルヴィの言っていることもわかる。『噂』を信じるならば、それは正しい判断なのだ。
「スー、シルヴィはただ、心配なのです」
それまで黙って後方に控えていたローザが口をひらいた。心配そうに顔をくもらせ、それでも有無を言わせぬ響きがその声にはある。
「命が危なくなったのは事実ですよね。だからわたくしたちは、心配なのです。これ以上、スーを危ない目に合わせたくないのですよ」
顔をあげ、スーはふたりの侍女を見つめた。
さわやかな風が窓から吹いてくる。アル王子の部屋とはちがい、このスーに与えられた部屋は日当たりがよく、明るい。庭園に近く、ときどき花の甘い芳香が漂ってきていた。
ベッドの端に腰かけたまま、スーはしばし沈黙を守って、ふたりを見つめながら思う。
――あたたかい、と。
シルヴィとローザは朝早くからスーの元を訪れ、これ以上ウルフォンに近づいてはならないと警告してきたのだった。
ウルフォンの噂は城中に伝わっていた。高慢ちきで、アル王子を見殺しにしようとしたとんでもない王子である――そんなことが尾ひれをつけて城中の人々の間を漂ってはささやかれていた。
(たしかにあの方は、見た目は狼かもしれない……)
スーはふと、ウルフォンの孤高とした顔立ちを思い出した。どこか厳しい目元をした、自分から人の輪に入ろうとしない王子……しかし。
(だけれど、中身はまるで羊みたい)
彼を取り巻く雰囲気が脆いほど柔く、ふんわりとしていることを思い出し、スーは無意識のうちに微笑する。なにかと怯えているようなウルフォンを見たあとでは、噂を信じろと言うほうがおかしい。
(それにあの方は、感謝の気持ちを知っているのよ)
アル王子とはちがう。ウルフォンには「ありがとう」と言える心がある。
スーはぎゅっと唇を噛み、なぜか心が痛むのを堪えた。
「スー、お願いだから」
ローザがきゅっと眉をひそめたので、スーはハッと我にかえった。
「フィリップさまが亡き今、わたくしたちには、あなたしかいないのです」
彼女の言葉は、非常に大きくスーを揺さぶった。しばらくスーは口をきけず、ふたりの侍女を見るしかなかった。
フィリップの所有物は、今はすべて放置されているような状態だった。本来ならば彼の子供や妻など、血縁者が引き継ぐはずである屋敷や財産は、今のところだれの手にもついていない。
フィリップに妻はいなかったし、彼の母も父王もすでに亡くなっている今、だれがその莫大な財産を相続するかは決められていなかった。フィリップという人望のあつい王子の所有を、好き勝手にはできそうになく、そのやり場にみなが困っていたのだ。
しばし国が落ち着くまではそのまま保管しておこうということに決まり六年、ずっと暗黙の了解ができあがっていたのだ。
だからスーやその侍女たちもないがしろにされることはなく、ずっとフィリップの屋敷で暮らすことを黙認されていたというわけだ。
スーの存在が今なお、なおざりにならないのは、フィリップ王子その人の影響がつづいているからなのだ。
だが、シルヴィやローザはどうだ。もし今スーが命を落とすようなことがあれば、彼女たちには仕事がなくなる。城にいられなくなるかもしれない。
ローザは決してそんなつもりで先ほどの言葉を発したわけではないだろう。しかし、スーは自分の位置というものの危うさを、改めて思い知ったのだった。
そうそう、わたし、最近、
王国の花名を三部にわけようかと思いまして。
舞台がちょい変わるので、区切りにできていいかなぁ、と。^^
最近、更新ページが少ない気がします。。
今回は、21章があまりに多かったので、ふたつに分けてしまったのですが。。
もうすこしで動きがあると思います。
それに、アルとスーも・・・なにかあればいいなぁ。。笑
それでは引き続き、よろしくお願いします!