第百二十八章 徒花(あだばな)
第百二十八章 徒花
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かじかんだ手の平に、ふぅっと息をはきつける。何度も、何度も。
冷たくなっていく。
(これはただ、寒いからだ)
懸命にさする。あたためなきゃ。
それでも無情に、彼の体温は指先から氷のように冷えていった。
(う、そ……嘘よ)
じわり、と滲む涙。心臓が、激しく叩かれ悲鳴をあげる。
なぜ泣く。なにも恐れることなどないのに。
(信じない)
ただ寒さで冷たくなっているだけだ。普通のこと。決して『なにか』が失われていくからじゃない。
「アル、さま――」
――それは、別れのはじまりだった。
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「失礼いたします。殿下、お届け物でございます」
昼を過ぎたころ。執務室を訪れる者があった。
(届け物……?)
見慣れぬ侍女だ。アルは不躾に彼女を見、軽くにらむ。
いつもなにか用があるときはスーがくるはずだ。もしくはクリスかランスロットがくるだろう。
彼女はどうした、と聞こうとして、ふいに届け物の差出人に目を止める。
(……スー?)
その名を見た途端、アルは荷物を強引に受け取ると、侍女には目もくれずに下がらせた。
『アルさまへ』
届け物は、両手に収まるほどの箱と手紙であった。箱をテーブルに置き、薄い紅色の封筒に入った手紙を取り出す。
あまい香りがした。
『アルさま、今回はこのような形でお手紙を出させていただきました。面と向かってはなかなか言えないことが、あるからです』
思わずゆるむ口元。
アルは開け放した窓辺へ近づき、あたたかくなった風をその肌で感じた。
『いつも、あなたは政務に心を砕き、国のために尽くしていらっしゃいますね。わたしはそんなあなたが、とても愛おしいのです』
テーブルに置いた箱から、ほのかに甘い香りが漂ってきた。
『お忙しいアルさまの御心をお慰めできますよう、花を贈ります』
箱をあければ、封筒と同じ色をした花がひとつ。花弁の先だけが赤紫をしており、この辺りでは見ない珍しいものだ。小振りだが、とても愛らしい。
太陽の光にあててみたくて、アルはそっとバルコニーに出た。部屋に飾るより、野に咲くこの花も見てみたい――いつか、彼女とふたりで……
アルは甘いその香りを、いっぱい吸い込む。
ひどくあまいその香りは、彼女の印象とはすこしちがうように思えたが、それでも彼女が自分のために摘んでくれたものだと思うと、どんな黄金よりも貴重ですばらしいものに思える。
「ステラティーナ」
目をつむれば、思い浮かぶのは彼女の顔。
アルはしばし、香りに酔いしれた。
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スーは心地よい気分で花々に水をやっていた。王宮の庭園はすばらいいの一言に尽きる。
花々は日の光を存分に浴びて、雫を受け止めた花弁はきらきらと輝いている。あたたかくなってきた風がそよぐたび、草花の匂いが鼻をくすぐる。
夜の庭園もまたうつくしい。月の朧な光に誘われ、闇に浮かび上がる色の濃くなった花は、昼間とはちがう一面を魅せてくれるのだ。
この日、スーは朝から気分がよかった。それは朝いちばんに、うれしい知らせを受けたからである。
アルの朝食の準備を終えてひと段落ついたころ、クリスを伴いイライジャがやってきた。そういえばふたりは依然、医術についての師弟関係であったはずだ。
イライジャは相変わらずの好々爺全とした面持ちで、ふと思いつたかのように、「薬草園をつくる許可が下りましたよ」と告げた。
今まで王宮にも薬草を育てている場があったが、とても薬草園といえるほどの大きさはない。ある程度はあるが、珍しいものはなく、クリスが暇を見つけては部下を連れて採りにいく始末であった。もともとカスパルニアには薬草学に秀でた者がすくなかったために、あまり重要視されない事柄でもあったのだ。
薬草学を学ぶようになり、わずかながらに知識を持ちはじめたスーは、その大切さをひしひしと実感し、また、もし王宮内で薬がつくれるのなればアルも安心であろう、と思っていた。そこに、この申し出である。うれしくないわけがない。
ぱっと顔を輝かせ、あからさまに喜びを体現するスーに、クリスも苦笑して付け加える。
「ですから、なにか植えたい植物はありますか?」
(つまり、いちばんアルさまに使っていただきたいものは……)
スーの頭のなかに、ぱっとある花が浮かぶ。ベロニカから譲り受けた本に載っていた、癒し効果のある花。あとは、それから――
スーは無意識にリラックス効果のある花々を列挙していく。
するとクリスがたまらず、ぷ、と噴出した。
「あはは、それはつまり、王子はストレスの塊ってことですかっ」
「ええっ!ち、ちがいますぅ!」
あわてて否定するも、笑いやまないクリスにスーは頬を膨らませた。そんなふたりを、イライジャは孫を見る目でほんわかとながめている。
しかし、ややあって、好々爺は幾分目元をきつくさせて口をひらいた。
「だがね、スーお嬢さん。薬はときに毒にもなるのだということを忘れてはいけないよ。それに、いまおまえさんが挙げた花のなかには、この国の気候では育ち難いものやひどくあまったるい特有の匂いのする有毒な花と間違いやすいものもあるし、一概にすべてを植えることはできないんだから」
「は、はいっ……すみません」
そうだ、とスーは肩を縮める。薬草を育て、うまく活用することは容易ではない。だからこそ、カスパルニアでは一般的な薬草しか育ててこなかったのだ。浅はかさを暴露したような気分になり、穴があったら入りたい、と切実に思う。
けれど、イライジャはやさしげな声でつづけた。
「そうは言ってもな、おまえさんの心遣いは、王子の支えになっとるだろうよ」
そっと、スーは目をあげる。
「そうでしょうか……」
「そうだとも」
チラと走らせた視線の先、イライジャもクリスも、にっこりと笑っていた。
――ということがあって、スーは機嫌がすこぶるよいのである。
(ラベンダーの花もいつか咲かせたいな……)
花々をながめつつ、ふいに思う。
祖国には埋め尽くさんばかりに咲き誇っていたラベンダー。カスパルニアにはないという。しかし気候も似通っているのだから、咲かないということはないだろう。
(アルさまに相談してみようかしら……)
そうしよう。
スーはすっくと立ち上がる。が、その前に今日の仕事を終えなければ。
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ぐぅーっと腹が空腹を叫んだ。気づけば正午を過ぎている。
城にある書物室の入室許可があるため、スーは空いた時間をそこで過ごしていた。つい夢中になりすぎてしまう。
ふぅ、と額にじんわりと浮かんだ汗をぬぐう。最近、気温もあたたかくなってきたことを実感することが多い。
季節が廻れば、アル王子の戴冠式である。きっとだれより堂々とした王になるのだろうと、スーはそんなことを想像して笑みをもらした。
(アルさまに紅茶をお持ちするまでにまだ時間はあるし……お昼を食べたら、クリスさんにご教授願おうかしら)
ふむふむとひとり頷いて思考をめぐらせ、数冊の本を抱えてスーは歩を進める。
――と、ちょうどアルの執務室のバルコニーが見えた。何気なしに目を向ければ、ちょうどアルの姿が確認できた。
どきり、と胸がなる。
遠目からだが、アルが柔らかい表情を浮かべていることに気づいた。
(……好きだなぁ)
花を見て微笑するアルに和む。
(なんていう花かしら……どこかで見たことあるような……)
本当は、もうしばらく、彼の姿をながめていたかった。
(……いけない、いけない。大事な本だもの)
腕のなかにある重みにより現実に引き戻され、スーはため息を飲み込んだ。
気づけばこの目は、彼を追う。いつもいつも、どうにかなってしまいそう……。
(ああ、やっぱり――)
――好き、だなぁ。
それから自分に活を入れてせっせと働こう、と勢いよく歩き出してしばらく――ふいに、スーはくらりと眩暈に襲われた。
(――えっ……?)
ぐらぐら、ぐらり。視界が揺れる。
やがて立っていられなくなり、その場にうずくまる。
(な、に、これ……)
おかしい、なにかがおかしい。気持ち悪い。
ぐるぐると回る世界のなか、なにが以上なのかを頭の冷静な部分が思考を広げる。
ふと、鼻孔に残る、強烈なあまったるい匂いに気がついた。
(……なぜ)
いままで、どうして、わからなかったのだろう。貴婦人の香水よりも甘く、そして食べ物の腐った臭いよりも強烈な……
腐臭の波に呑まれそうで、その恐怖にがくがくと身体は震えてくる。
冷や汗と脂汗が一気にどっと押し寄せた。
(――落ち着け)
なるたけゆっくりと深呼吸を繰り返す。
大丈夫、大丈夫、と自身に言い聞かせ、何度も何度も、空気を肺に満たしていく。
(毒を吸わされたはずはない……)
ならば、この鼻にこびりついた匂いはなんだ。
(いったいどこで……庭園……?いや、これは――)
瞬間、先ほどよりももっと底知れない恐怖が押し寄せた。
「――アルさまっ!」
悲鳴のような声をあげ、一目散にスーは彼の部屋を目指した。
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すべてが、遅かった――
急いで駆け付けた。途中、ランスロットとすれ違った気もしたが、構ってなどいられなかった。
ただ我武者羅に走り、アルの執務室へ向かう。
どうか、どうか、とありとあらゆる神に頼みながら、ただ、足を急がせた。
どうしてこんなに足が重いのか。心臓が痛いのか。
もっと、もっとはやく。はやく、走れ。
「アルさまっ!」
どうか――
部屋の奥、窓辺に、ブロンドの光が跳ねる。
アルティニオス王子が、身体を横たえ――倒れていた。
スーは悲鳴をあげて駆け寄る。
アルの顔は真っ蒼で、目は固く閉じられている。触れた手は凍るように冷たい。
心地よいはずの午後。ぶわりと部屋に入ってくる風が、王子の灯を掻っ攫ってしまうようで……
さあっと血の気が引いて、スーは震えだした。生きた心地がしない。
「アルさま、いや……あ、アルさま……」
冷たく、なっていく。嘘だ、と嘆いても、もう遅い。
ふいに、風にのって、花びらが舞う。途端、あの強烈な香りが漂い、スーは顔をしかめた。見れば、アルの傍らにはうつくしい花が幾輪か。花弁の先だけが赤紫の、奇妙な花。
スーは急いで窓を全開にすると、そのままアルの手に握られていた花を鷲掴み、ランプの灯とともに暖炉にくべる。
勢いよく炎が舞い上がり、黒い煙がもくもくとあがる。スーは水差しの水をありったけその煙にけしかけた。
次いで漂うのは、鼻が曲がりそうなほどの腐臭であった。が、この臭いに毒性がないことをスーは知っている。図鑑で、書物で集めた知識が役に立ったのは今更であると頭の片隅で自嘲した。
あの、強烈な香りが鼻に残っている。アルを連れ去ってしまう、死神のような、あの香り――
(……嗅ぎすぎたか)
くらりと眩暈を感じたが、それどころではない。
(まだ、時間は経っていないはず……)
先ほどアルがほほえんでながめていた花が、毒花だったと、なぜ気づかなかった。
(応急処置をして――クリスさんを呼んで――)
なぜすぐに気づかなかった。花の強烈な匂いに。猛毒がアルを蝕むのを、なぜ止められなかった。
(しっかりして、アルさま……どうか、神さま――)
なにを、学んできたのだ。アルを生かすためではないのか。むざむざ殺させるためではない。
(わたしはどうなってもいいから、だから、どうか、彼だけは――)
彼に癒しを与えたくて。彼の隣にいる、自信にしたくて。
なのに、わたしは――
「アル王子、お覚悟っ!」
途端、堂々たる声が轟く。
ばっと振り返ると、扉の前に髪をふり乱したひとりの男――オーウェンがいた。鬼のような形相で、剣を構えて立っている。
その切っ先が、自らの傍に横たわるアルに向けられていると気づいたスーは、真っ青の顔のまま、しかしキッと彼をにらみつけて立ちふさがった。
「そこをどきたまえ、卑しい小娘」
「オーウェン大臣、あなたが……!」
「言ってくれる……ま、今はもう大臣ではないがね」
ぎょろりと目玉を動かし、大臣であった男はにたりと笑みを浮かべた。
「貴様の名を騙れば、その小僧は実にあっさりと警戒を解いたぞ。いや、実によく働いてくれたな」
「な、にを……」
「心中を図った哀れな召使。そう、筋書きはぴったりだ」
狂った、狂喜に滲んだ眼がスーを捕える。そして。
「死ねぇええ!」
剣を振りかざして、こちらへ走ってきた。
目をつむり、スーはアルに覆いかぶさる。なにか考えたわけではない。ただ、身体が勝手に動いた。
(だれか――だれか、アルさまを――)
「死ぬのはあなたですよ」
ふいに響いた、透き通った、独特の声。
「アンタにはたっぷり尋問してやるよ」
つづいて聞こえたのは、別の声。
キン、カチャリ、と響く金属音。
そっと目をあける。
ランスロットがオーウェンの剣をはじいたのだろう、首謀者を抑え、冷ややかなまなざしで彼をにらんでいた。
「ランスロット、さん……?」
「スー、大丈夫か」
いつものランスロットの声。彼が、助けてくれたのだ。
ランスロットはわめくオーウェンを駆け付けた衛兵に任せると、厳しい表情のままこちらへ駆け寄った。
「スー、アルは……」
「は、はやく!はやくクリスさんを呼んで……!」
その悲鳴ともとれる声に、騎士の顔も蒼白になる。
「アルさまが、死んじゃうっ……!」
固くとじられた王子の青。
「予想外は、起きるものデスねー」
ひとり部屋の隅。はじめに駆けつけ声をあげた人物が、ひとりぽつりとつぶやいた。
「まるで徒花――神は実に残酷デスね」
すみませんっ!
全ッ然、推敲する暇がありませんでした……(涙)
ちょっとシリアスっぽいけれど……笑
「徒花」は辞書で引いて見つけて、使いたいなと思っていたタイトルです。
これはスーの心情でしょうか。
いくつか意味があるのですが、いろいろ汲み取っていただければ嬉しいです^^




