第百二十七章 アイヨク
第百二十七章 アイヨク
†▼▽▼▽▼▽†
「うーん、ちょっと涼しいかな?」
鏡のまえでつぶやく。
ざっくばらんに切られた髪はすでにきちんと整えられ、スーは久々に短くなった己の髪に苦笑した。まるで童のようだ。このまま男装したら、それこそ完璧に少年に見えるにちがいない、とひとり考える。
長かった髪は、いつもふたりの侍女があれこれと結って、小振りながらセンスのよい飾りをつけてくれた。今はもう、すーすーと首が風を直に感じているばかり。
「……ううん、邪魔にならなくて、いいじゃない。召使の仕事に集中できるわ」
強めな声で自らに言い聞かせ、強引に鏡から目を離し、しかし再び視線を戻す。
そっと、髪に手を這わせる。いつか、彼がしてくれたように。
(アルさまは、どんなつもりで……)
彼の心地よい声が、頭のなかに反響した。『傍にいてくれ』、と声は言うのだ。
とっさのことで、自分はそれに返事をしていない。心はすぐに「はい」と応えたのに。
は、と息をついて、ふいに机にある本を手に取った。ヌイストが届けてくれた本である。
無意識に指は、『珍しい花』のページをひらく。ベロニカからもらった当初、この項目にある『癒しの花』をアルに捧げたいと考えたことをふと思い出した。癒しの香りで、安らかになれる時間を提供したいのだ、と。すこしでも彼が、穏やかに過ごせればいい……
五つの淡い桃色の花弁をもつ、小振りだがかわいらしい花の挿絵を目に、スーはふ、と微笑を浮かべた。
(さ、今日もがんばろうっと!)
†+†+†+†+
結果からいえば、アルティニオス第六王子に対するカスパルニア民の評判は、上りもしなければ下がりもしなかった。
戦争を起こしたにも関わらず、実質カスパルニアの被害はそれほど大きくはない。民から死者は出ず、港町の一部が被害を受けた程度に留められていた。また、前代の王ソティリオの戦好きともとれる印象から、それと比べれば、という考えがあり、アルに対する批判はほとんどなかった。
ただし、もとよりアルティニオス王子というのはある意味謎の多い王子といわれており、やはり第一王子フィリップと比べる声も多いのが現状だ。
とりあえず被害が出た場所には人を派遣し、混乱を避けるよう対策が取られた。新たな役職を手にした人々もそれぞれの仕事に邁進するなか、一介の召使として雇われていたスーのもとへ、いずれ侍女をつけるという旨が伝えられた。
「えっ。わ、わたしに……?」
「そのようですな。アル王子のご命令です」
知らせにきたのはルファーネ大臣である。オーウェンがいたころより幾分落ち着いた話し方をする老人だ。
スーは目を丸くさせて声をあげたが、ルファーネも困惑気味に、しかしはっきりと答えた。
「もし、希望する人材がいればおっしゃってくだされ」
言われ、頭のなかで一巡したあと、スーは静かに告げた。
「わたしの侍女は、ずっと決まっています……ですが、今、彼女たちが侍女につきたいかどうかはわかりません」
顔をあげて、きっぱりとつづける。
「彼女たち以外の侍女は必要ありません」
その答えに、大臣は見るからにうろたえた。アルからの命令なのだ、断れるはずもない。
スーはちょっと考えたあとで、恐る恐る「では、わたしからアルさまにお話、しましょう、か……?」と問えば、ルファーネはころりと表情を変えて、あからさまにほっと息をついた。
ただの召使が、王子から大臣への命令の返答をじかに答えていいのかわからず怯えつつ提案したが、大臣はさして気にしたふうもない。スーもほっと胸を撫で下ろす。
(それにしても、アルさまったら……)
シルヴィとローザは、城へ戻りたいのだろうか。そして再び侍女をつけようとする理由はあるのか。フィリップ王子のことがあるからだろうか。
彼は「傍にいろ」と言ったが……
(わたしの、立ち入って、どこ)
まるで暗闇から足を引っ張られるような錯覚。
スーははっとして頭を振り、ぱちりと自身の頬を叩いた。
悩んでいても仕方がない。できることをしなくては。
「よし、勉強しよう!」
ぐっと拳をあげて、スーはベロニカからもらった本を手に、「今夜は徹夜だ!」という勢いで自室へ戻るのであった。
†+†+†+†+
「スー?」
いくら声をかけても返事がない。ノックしても応えない。
なにかあったのだろうか……と、そこまで考え、はて、己は今まで彼女の部屋に許可を求めて入った試しがあっただろうか、と首を傾げる。
そもそも、彼女の部屋へ自ら訪れたことはあっただろうか。しかも、人目を忍んで。
(ええい、仕方がない)
なんだかむず痒いような気がして、それを勢いのまま無視して、アルはちょっと力を込めて扉を開いた。
「……スー?」
ひょっこりと顔をのぞかせると、部屋のなかは薄暗かった。かつての己の自室のよう。
そっと音を立てぬように部屋へ入り、進む。と、窓辺で夕焼け色に染まった彼女が目に入った。
自然と足はそちらへ向かう。
「スー」
何度目かもかわらない。それでも名を呼ぶ。
机に身を預け、自分の腕を枕代わりにする形で、少女は目を閉じていた。
「スー……寝ているのか?」
短くなった夕日色の髪は、彼女の頬に薄くかかり、窓から差し込む濃い赤は、薄暗い部屋のなかで唯一の光であった。
無意識に、手は彼女へ延びる。指は、吸い込まれるように、彼女の露わになったうなじへと触れる。それはまるで、愛撫のように。
(おまえは、離れてくれるなよ)
熟睡しているのだろう、アルの気配にも気づかず、小さく寝息をたてている。よく見れば、薬草の図鑑だろう書物を枕にしていたようだ。幼子のようなあどけない表情に、アルは目を細めた。
「ステラティーナ」
「……ん、ぁ」
首筋を指ですすっと撫でられ、スーはびくりと身を縮める。だが、それでも目を覚ました気配はない。
(……誘ってくれるな)
さらに伸ばそうとした腕をなんとか理性で押しとどめ、ふぅ、と軽く息を吐く。
(まだ、だ。まだ、云わない)
アルは着ていた上着をそっとスーへかけてやる。
「……おやすみ」
屈んで、その頭上に口づけ、髪をひと撫でして。
「いい夢を」
そのままアルは、とても穏やかな表情のまま、スーの部屋をあとにした。
†+†+†+†+
翌朝、スーは王子のもとへ朝食を届ける折、借りていた上着を返した。ここまで来るのにだいぶ神経をすり減らしたような気がする。
というのも、朝目覚めてみて、己の方にかかっていた上着にぎょっとしたことからはじまる。見るからに上等なそれは、アル王子が羽織っていたものと記憶が一致し、みるみるうちにスーは顔を真っ青にした。
なぜ、これが自分にかけられているのか?
次いで、顔を真っ赤に染める。
もしや、寝ているところを見られたのだろうか?
(か、鏡っ)
あわててスーは鏡のまえに立ち、己の姿を確認する。髪は崩れていないか、いったいどんな阿呆面で寝ていたのだろう……考えるだけで恐ろしい。
しばらく悶々としていると、ついには言いようのない、ふんわりとした感覚に包まれる。手のなかにある上着は、まるでアルのぬくもりのよう。匂いは、たしかに自分とはちがう、アルのもの。
(……わ、わたしはっ……!)
なんとなく身悶えそうになり、スーはその場で頭を抱えたくなったが、なんとか思いとどまる。ともかく、これを王子に返さねば。そしてその行為は、だれにも見られてはならない。とくに大臣などには、絶対に……!
そうしてスーは件の物を布に包んで隠し、どぎまぎしながらアルの部屋へと足を運び、返すことに成功したのである。
それにしても、受け取ったアルはいつも皆の前で見せる仮面の笑顔よりも、ずっとずっと柔らかい微笑を口元に浮かべ、「がんばっているんだな」と言うものだから、スーは素っ頓狂な返事をし、どきどき煩い胸を抑え部屋を後にしたのだ。
(……うれしい)
寝顔を見られてしまったことは誤算というか、いまだに信じたくない出来事だが、「がんばっている」と言われ、認められたような気がしてうれしかった。はやる気持ちを抑えられそうにない。
(また、がんばろう)
無意識に浮かんでくる笑みのまま、スーは足取り軽やかに廊下を進んでいった。
廊下をしばし進んだところで、ふいに声をかける者があった。久しぶりに互いに顔を見た。
「クリス、さん」
「お久しぶりですね」
はじめて会ったときと変わらぬ笑みを浮かべ、クリスはこちらへ近づいてきた。
スーは無意識に一歩後ずさる。なんとはなしに警戒してしまったのがバレバレであるが、当のクリスはすこしだけ苦笑をこぼし、あとは気づかぬふりをしてくれた。
「復帰されたと、うかがいましたが……」
「ええ。――ああ、僕はもうなにも策謀をめぐらせてなんかいませんよ……王子が、よき王になろうと努める限りは」
くすり、とやはり柔らかく笑って彼は言う。
しかし、今までだってやさしそうに見えて腹のなかではいろいろ考えていた男なのだから、表面上ばかりを真に受けてはいけないのかもしれない。
けれど、やはり、スーはクリスがきらいにはなれなかった。それに、彼の言う言葉が本心からなら、今はアル王子の味方なのだろう。
「勉学に励んでいるようですね。王子から幾度となく聞かされていますよ」
「えっ」
「僕の本も、役に立っていますか?」
またもや予想外のうれしさに、スーはどきりとした。アルが、己のことを話題にしてくれたのだ。
そういえば、薬学や医術を学ぶきっかけのひとつはクリスだったことを思い出す。彼から借りた本は、とてもよい教科書になっていた。
クリスはにっこりと笑ったまま、「あの本は差し上げますよ」と言った。
あわててがばりと頭を下げて「ありがとうございます」と礼を述べれば、彼は苦笑を浮かべた。
「あなたにはきっと、才能がありますよ。お人好しですし」
(お、お人好しって……)
誉めているのですか、とジト目で尋ねる前に、彼はさっさとその場を後にした。「では、また」なんてさわやかな笑みを浮かべたまま。
クリスという男、やはり一筋縄ではいかない――スーはひそかに感心したのであった。




