第百二十二章 狂喜の罰と幸福な罪
第百二十二章 狂喜の罰と幸福な罪
†▼▽▼▽▼▽†
あのヒトに囚われたまま。ずっとずっと、囚われたまま。
逃げようなどとは思わない。いっそ永遠に絡め取られたままでいい。
あのとき――なつかしい匂いのする、あの赤毛の娘を手にかけようとしたとき、己の手は言うことを聞かなかった。ヌイストは思い返す。
散った赤。横たわる娘。
「馬鹿な」
失笑ものだと苦笑しようとして、ヌイストは失敗した。
「なんて不可解な――」
なぜだ。わからない。
だが、自分が彼女を手にかけられなかったことは変えようのない事実である。
散った赤を一房拾いあげ、ヌイストは小さくつめていた息を吐いた。
少女の赤毛を媒介に、アルティニオス王子に幻覚を見せ、惑わしてやろうと思い立ったのは果たして気まぐれか。珍しいことに苛立ちが収まっていなかったからかもしれない。
アルさま、と口走った彼女の瞳が脳裏にちらつき、ヌイストは無意識に舌打ちをする。
どうしてこうも苛立つのだ。図星を刺されたわけでもあるまいに……
「まさか」
自分で言って苦笑し、ありえぬ考えに頭を振る。
愛おしいということが怖いだと?
ばかな。
ヌイストの表情から笑みは消えていたのを、本人は知るよしもない。
「……運のいい、人形だ」
足元に転がる赤毛の少女を、ヌイストは小さくにらんだ。結局、彼女の身体はいまだ息をしているのだ。
そう、彼女は殺せやしない。だってこの『こども』は、『両親に愛され生まれてきたこども』だから。
だから。
第一王子フィリップを助けたのは、気まぐれなんかじゃなかった。目に矢傷を負い、瀕死の彼を捨て置くことなどヌイストにはできなかった。たとえ彼が彼女を奪った男の息子だったとしても、第一王子だけは望まれ愛され生まれてきたこどもであったから。
相思相愛――そんな奇跡みたいな境遇で授かった命。己とは程遠く、マガイモノじみた感覚を抱くと同時に、あこがれのような感情も持て余す。
こんな自分に嫌気がさし、すべてを消し去ってしまおうとした。だからクリスを操りレオンハルトに拳銃を向け引き金を引いたのに、結局命を救ってしまった。とどめを刺せなかった。
それもこれも、すべて相思相愛の男女に、愛され生まれてきたこどもであったから。
*
ぐるぐる、記憶が巡る。数万、数億年の月日の記憶がめまぐるしく駆け抜ける。
あの日の記憶。ナイリスがはじめて子を身篭った日。兄との間にできた禁忌のこどもは、ほとんど生死をさ迷い産まれてきた。
そのころにはすでに、『セルジュ』はナイリスの前から姿を消していたが、『ヌイスト』として彼女へ近づくことができた。そうして彼女の願いを聞く。
『レオンハルト王子の命を救って』
だからヌイストは魔術師として対価を要求した。
『こどもの瞳と髪の色を貰いまショウ』
それから最後に、もうひとつの残酷な条件を告げる。
『そしてアナタは――』
引き換えに、約束どおり死ぬはずの王子の寿命を延ばしてやった。
その夜こっそりと赤子の王子に近づいたヌイストは、彼の色を失った片方の瞳に『琥珀色』を、もう片方に『ワインレッド』の色をのせた。そして翌日、王子は髪色を赤みがかった『黒』に染めた。
産まれた赤子は周囲から隔離された。それはそうだ。兄と妹の禁断のこどもなど、扱いに困るものである。加えて当時の王であったユーグとナイリスの父は激怒し、せっかく生き長らえさせて赤子を殺せとまで命じる始末。それではツマラナイ、とヌイストが影で王を説得し、禁忌の赤子はユーグが遠い血縁の女に産ませたということで落ち着いた。
それでも兄ユーグと妹ナイリスは幸せそうに笑うのだ。生き長らえた息子を抱いて、穏やかに。
父母とは似ても似つかない、黒い髪、琥珀色とワインレッドの瞳をもつこどもを抱いて。
彼は飽きることなくながめた。彼女がその赤子を抱く様子を。彼女によく似た目元の、そして『ヌイスト』と同じ色の瞳をもつこどもを抱いている姿を。彼女とよく似た口元の、そして『セルジュ』と同じ黒髪のこどもに笑いかけている姿を。
まるでその赤子が、己とナイリスのこどもであるかのような幻想を抱きながら。
数日後、ナイリスはメディルサを出た。カスパルニアへ嫁ぐため――ヌイストと約束した、レオンハルト王子を生かすための約束を守るために。
『こどもの瞳と髪の色を貰いまショウ。そしてアナタには――』
時を同じくして、魔術師ヌイストもかつてのセルジュ同様、メディルサから姿を消した。
*
カスパルニアに嫁いだナイリスは、その美貌で地位を保っていた。すでに十数人目の側室、それも当時はそれほど力のないメディルサの姫ということもあり、はじめそれほど地位も与えられず優遇されていなかったが、持ち前の涼やかな美貌をもって王の周囲を味方につけつつあったのである。
そのかいあってか、数年後には数人の側室を差し置き第七婦人として君臨し、玉のような赤子を産み落とした。
それがアルティニオスである。
『ねぇ、ヌイスト』
月のうつくしい夜だった。ひとりバルコニーに立つナイリスがつぶやくと、どこからともなくワインレッドの瞳をもつ男が現れる。
こちらに目を向けず、彼女は飽くことなく月を目に映しながら口をひらく。
ひとりごとのように、穏やかで微弱な声で。されど、彼にとっては大きな意味をもった言葉を。
『ヌイスト――あなたは、わたくしを不孝になんてできやしなかったわ』
そうでしょ、と相変わらず彼女は穏やかな声で言う。
『だってわたくしは、あなたのことが好きなんだもの』
どくり、と心臓が変な音を立てたのと同時に、彼女の青い瞳がこちらを向いた。
『そうでしょ、セルジュ』
*
ナイリスが死んでヌイストは姿を変えた。いや、ふたつに分かれた。
ひとりは『ヌイスト』と名乗り、老人に化けて国々を回ったり、小柄な猫背の男になって商人に紛れ込んでみたり。
もうひとりは、赤子の『セルジュ』となって、『ヌイスト』が教会の前に捨て去った。
ふたりは、否――ひとりは、それぞれ別々の道を歩む。決して交差することのないと思われた生を生きるために。
それなのに、どういう因果かそれぞれの道は交錯した。奇しくも、女神の月を介して。
だから、ヌイストは抗う。月を試し、もうひとりの自分を駒として。
だれかの眼を代償に奪いはじめたのは、このときからだった。
レオンハルトの髪や目の色を盗んだのは、ナイリスの色が欲しいから。赤子の瞳に自身と同じ色を与えたのは、もしかすれば彼女とのこどもを夢みたのかもしれない。
「ワタシも純情なんですねー」
自らをからかうようにつぶやいてみたとて、ただただ虚しさばかりが募る。
「女神はなにを望んでいるの……」
ぽつりとつぶやいてみたとて、どうしようもない。
アルに幻覚をみせても、彼は呪縛から逃れた。逆にこちらの記憶までのぞき込ませてしまい、ヌイストはため息をこぼしたくなる。
『ヌイスト、あなたは』
女神は言った。きっと己がセルジュであったと、はじめから彼女は知っていたのだろう。
『あなたは、わたくしから幸せを奪えやしなかったわ。不幸になんてできなかったのよ』
はじめから、気づいていたのか。彼女から幸せを奪ってやりたかったという、己の心を。いっそすべて壊してやろうとした、『気まぐれ』を。
ヒトの心はいとも簡単に動かせる。ちょっと揺さぶり突いてやれば、すぐにシナリオどおりに動いてくれる。
と、同時に。
ヒトの心は単純でいて複雑だ。やっかいな感情が関わってくると、それはアドリブをきかせてヌイストの手から離れてしまうのだ。
だれよりもヒトの心を見破っていそうなヌイストは、しかしだれよりもヒトの心がわからなかった。どんなに知ろうとも、理解することができなかった。
『あなたは昔からわたくしを避けていた。だからわたくしはあなたをあきらめたのよ。兄を愛し、ソティリオさまを愛しながら、いつだってあなたの影を求めていたのに……』
そう言って、きれいなサファイアを思わせる瞳を切なげに伏せた彼女。
『ヌイスト、わたくしはもう疲れた。自分が変わっていくのが耐えられない。でもね』
女神のごとくほほえんだ、月の女神は――
『あなたはわたくしから幸せを奪えなかった。だってわたくしは――』
幾度となく容貌を変えたとて、心はいつも冷え冷えとしていた。悶え苦しむほどの辛さや嘆きは、味わいすぎて感覚がすでに麻痺している。
だから、笑ウ。
笑っているのがいちばん楽だ。気楽さや慶びとは無縁なのに、そんなことさえ忘れさせてくれる。
笑えば、みんな笑う。道化たことをすれば、無邪気なこどもは無警戒で近づいてきて、笑う。
自分が狙われた餌であるなど気づかずに、笑う己が笑われているなど考えることなく堕ちていく。
罠にかかった憐れな人形たち。本当にカワイソーなイキモノだ。
ヌイストは、わからない。わからない。わからなくて、いい。
だって自分に終わりはない。永久に逃れられない悲しみの渦に捕われ絡めとられ、混沌の世界をさ迷う。
それでいい。
だって、幸せになどなれない。なる資格などない。
そんなふうに生きてきたのだから。
それでも――それでも彼女の痕跡を求め探してしまうのは、なぜだろう。
「青いですねーワタシも」
ぽつりとつぶやき、天の月に問いかける。決して答えてくれぬ月は、いつもうつくしく気高い。
そう、たしかに怖かった。
あの赤毛の少女が言ったとおり、「愛しい」と認めてしまうのが恐ろしかった。
『だってわたくしは、このこを授かったんですから』
†+†+†+†+
「あなたの悪いクセよ」
幼いころからずっと好きで、ようやく夫婦となれた存在に、ハンナは苦笑を引っ込めて声をかけた。振り向いた彼は、やはり眉間に深いしわを刻み込んでいる。
ハンナは苦笑をごまかしゆっくりと近づくと、そっとその眉間に触れた。わずかにしわが緩む。
「あなたのその表情、ウルフォンにそっくりだわ」
「ハンナ……」
「頑固なところはレオンハルトが似てしまったわね。まったく」
咎めるような夫の声を遮り告げてから、ハンナすこし困ったように笑う。また顔はしかめられ、むっとしている。
仕方がないこどもを見るように、ハンナはユーグの頬を両手で包み込み、視線を強制的に合わせた。感情を押し殺した瞳の奥で、わずかながらに動揺している様がうかがえた気がして、再び苦笑をもらしそうになる。
「あなたは、なにを恐れているの」
離せと延ばされた手に手を重ね、ハンナはつぶやくように問うた。瞬間、ユーグの目がハッと見開かれる。構わずに、ハンナは少女のように邪気のない表情のままつづけた。
「わからないのでしょう?なにが怖いのか。なにが許せないのか。心穏やかに過ごすことが、空恐ろしくてたまらないのでしょう」
「なにが……おまえになにが」
「わかるわ」
再びきつくなったユーグの眉間のしわ。思わず声をあげた彼を制してハンナはきっぱりと言い切る。訝しげに細められた瞳をじっと見つめ、ゆっくりと、愛おしげに手を這わせて言葉をつづける。
「いつも見てきたから、わかるわ。あなたがどれだけ責任感の強い人か。自分に厳しく、揺るがない人か。臆病で、だから怖いのね」
不審げなまなざしにも怯まず、ハンナはぐっとこらえてから、息をついた。
「大軍帝国の帝王として君臨する重圧もあなたはものともしないくらい、強い人よ。だけどひとりの人間だもの。嫉妬もするし、やり切れない気持ちにもなるわ。でもあなたは自分に厳しい人だから、狂いたくなるくらいの嫉妬を押し殺してきたのよね」
突きつけられた言葉に、ユーグは苦しそうに唇を噛みしめる。無言を突き通していたが、それは図星と同じ返答であった。
逸らそうとする瞳をとらえて、ハンナも顔を歪ませた。
「とりとめのない幸せを感じることも、できなかったでしょう?いつも心を固い氷で保ちながら、国を支えてきたのでしょう?」
わかるのよ、とハンナは言う。外見は少女とまごうことなき人物であるが、その雰囲気はひとりの王妃としての貫録がうかがえた。
思わずユーグは見とれてしまう。それほどに、ハンナは真摯でまっすぐだ。
「言ったでしょう。わたしはずっとあなたを見てきたからわかるの。あなたが――あなたが、どれだけナイリスさまを愛していたか」
刹那、ユーグの瞳は震え、ハンナの手は思い切り弾かれた。それでもめげずに、ハンナは夫である男の手を再度握る。
「酷なことでも言うわ。わたしは、あなたの妻だから」
ナイリスがカスパルニアという大国へ嫁いだことで、ユーグの後ろ盾は大きなものとなったのは事実。彼女自身が国から、ユーグの前から姿を消すことで、禁忌の証であったレオンハルトは前国王に殺されることもなくなった。ただひとり、ナイリスがすべての重荷を背負って――そう、ずっとユーグは感じていたのだし、実際その通りなのかもしれない。
でも、とハンナは思う。ずっとずっと片思いしていたからわかるのだ。ひとり国へ残ったユーグは、自分の気持ちを抑えることができずナイリスとの間に禁忌を犯したことを引きずっていたのだ。己のせいで妹は国の道具のように扱われ、彼女の幸せを奪ってしまったのだと。
そしてがむしゃらに、王になるべく励んだ。カスパルニア前国王・ソティリオが冷徹の暴君と云われれば、反動するようにユーグの顔から表情が消えた。
いつしかメディルサ大軍帝国は、小さな末国から大軍の国へと変貌を遂げた。
それはまるで、かつてのソティリオ王のような働きぶりであった。
ハンナには、わかっていた。彼はずっと後悔していたと。妹を奪いなおかつ大切に扱わず死に至らしめたカスパルニア国を恨み、けれど激情で国を動かすことはせずに、己の心を殺して国に尽力してきたのだ。力をつけるために、がむしゃらに。
ハンナはわかっていた。そして、感じていた。ユーグはハンナ自身にも、負い目のようなものを感じているのだと。
「ユーグ。わたしは、どんなあなたでも愛しているわ。あなたも、愛していいの。ナイリスさまのことだって、愛していいの」
ハンナの言葉にしばし押し黙っていたユーグであるが、やがて血が出るほどきつく噛みしめた唇の間から声をもらす。
「おまえは、愛せと、言うのか」
顔をあげたユーグの表情は、どこか自嘲的であった。
「あの罪も、あの罰も、愛せと?」
口の端を皮肉気に引き上げてユーグはハンナを見やる。しかし、その声にももはや力はない。
帝王の表情ではない。ただの、ヒトの顔。
久しぶりに見た、ユーグ自身の顔だった。
「あなたは、愛したいのね」
ほとんど無意識につぶやいた言葉だった。視線が交わる。
泣きそうな顔だ、とふいにハンナは思った。




