第百十八章 愛おしむは、
第百十八章 愛おしむは、
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スーはこっそりとベルバーニ城内を歩き回っていた。
(あそこだわ)
ぐっと詰めていた息を呑み込んで、一度目をとじる。目の前にあるのは、ここの城主の部屋であった。
なんのためなのか、策略なのかかわからないが、スーに与えられた部屋にも、回廊にも、そして城主の部屋のまえにも衛兵の姿はない。これは罠かもしれない。おそらく、ヌイストにおびき出されたのかもしれない。
それでも来ずにはいられなかったのだ。
あの日の夜――ランスロットに姿を変えて現れたヌイストが告げた言葉によって。
裏切り者の正体は姿を変えたヌイストであった。そして半ば啖呵を切ったスーに、彼は淡々と告げたのだ。
『教えてアゲましょう。カスパルニアは今や孤立無援――メディルサが攻め込むそうですよ』
言葉を失うスーに、道化のような笑みで彼はつづけた。
『そしてベルバーニも、一気に片をつけるつもりでしょう。王さまは壊れちゃいましタからね~』
ケタケタとこどものように無邪気に笑う青年を、スーはただ愕然として見るしかなかった。
それからずっと、言われた言葉が脳裏をかすめ、スーを言いようのない不安へと駆り立てる。
まるで己が、人間の力ではどうすることもできない存在を前に立ちすくんでいるような、はたまた操り糸でいいように操縦されているような……。
自分で選んでここまできたのに、だれかの手の平でいいように動かれていたのではないか。すべて人の命運というものは、天が物語を紡ぐように、ただそれに従っているだけではないのか……?
(ちがう……わたしは……)
この心とて、所詮だれかがつくったものなのではないか。お伽話の登場人物のように。
スーは思わず頭を振った。
「わたしの心は、わたしのものよ」
気づけばかすれた声で口走っていた。声に出してから、その言葉がすっとスーの心に浸透し、重みをもって留まった。
「わたしの……」
胸に手を当て、鼓動に耳をすます。脈打つ心臓が、共鳴するようにスーを励ましている。
(なんとかしなくっちゃ……)
戦争をとめるだとか大それたことが自分にできるとは思えない。でも、やりたいのだ。
(わたしはそのために、ここへ来たんだから)
ふっと息を吸い、スーはひとり頷いた。
†+†+†+†+
しくしくしく、とすすり泣く声。
きぃ、と王室の扉がひらく。
スーはごくりと生唾を飲み込み、肩を震わせる人影に恐る恐る声をかけてみた。
「王、さま……」
「だれだ!」
ぐりんと首を回し、すっかり歳老いたベルバーニ王がこちらをにらみつけてくる。
「フン、ワシを殺しにきたか」
そうしてスーを見とめるや唸り、唸ったかと思えば再び肩を震わせ咽び泣く。
「もう、よい。もうたくさん……どうせエナーシャはいないのだ……」
スーはふっと息を吐く。一歩足を進めた。
「シャルロさまは……いえ、エナーシャさまは、最期に笑っていらっしゃいました」
エナーシャ、の名前に反応して、王の肩が激しく揺れる。
「きれいな、水色の瞳……姫さまの瞳の色……そうですよね?」
「そ、う……エナーシャは淡い水色の瞳をしていたのだ……シャルロは、ちがったな……」
泣き声がやみ、再び頭を巡らせ、王はスーと視線をあわせる。
仄かに辺りを照らすランプが、スーの顔を闇に浮かび上がらせた。
「ちょうど、おまえのような緑をしていた……だが、ちがうな」
「ちがいますか」
「ああ……あの娘の眼は、ワシとそっくりだからな」
すこしだけ、ベルバーニ王の表情が穏やかになった。スーは王と目線をあわせるため、膝を折る。
本当は頭を下げてお目どおりを願うべきだろうが、今だけは例外だと自身に言い聞かせ、スーは王の瞳をのぞき込んだ。
かすかでも、動いた心情を見逃さんとして。
「陛下、お願いです。無益な争いはお止めください」
切実に。想いを込めて言葉を紡ぐ。
「あなたには責務があります。一国の主として、そこに住まう民の生活を支える義務が。この戦争になにがあるというのですか。救いなどありはしないのに……!」
王はすこしの間目を伏せ、やがて自嘲的な笑みを目元に浮かべてスーを見やった。
「救いなど……そんなことはどうでもよい。娘は帰ってこないのだから」
はっ、と、スーは息をつめる。言葉が見つからず、頭を振った。
そんなの、悲しすぎる。
「あの娘になにもしてやれなんだ。エナーシャを奪ったのはカスパルニアに他ならない。だから――」
「エナーシャさまを失われた悲しみを理由にしないで。そんなことでエナーシャさまを汚さないでください」
「汚、す、だと?」
王の目にはじめて動揺が走った。
「ワシはエナーシャのために!あの娘の命が枯れ果てた地に復讐を……」
「彼女を戦の理由にしないでください!それはただの傲慢だわ」
思わず声を荒らげた。戦争で幾つの命がなくなるというのだ。幾つの悲しみが募るというのだ。
いつか民は戦の理由を知るだろう。そしてすくなからず、憎き戦を引き起こした原因にエナーシャの名があがるのだ。
「陛下、あなたにはたしか、もう御一人お子がいらっしゃいましたよね」
ユリウスと城下で聞いた話をスーは忘れていない。ずっと考えていたのだ。
「あなたさまにはまだ、ご子息がいらっしゃる。エナーシャさまを亡くされた激情に惑うより、殿下のために、国のよりよき未来のためにご尽力ください」
しっかりと目を見つめて、スーははっきりとした声で言った。
「息子……」
王は口走るようにつぶやき、そのまま、先ほどしくしく泣いていた人物と同一とは思えぬほど厳しい声音でつづける。
「わかっておる。はじめから、わかっていた。今のワシに王の債務など果たせそうにない。だが、苦しいのだ。エナーシャの亡き骸をこの目にして、改めてあのこのために、親である仕事がしたかった。償いたかった。いっそ、すべて失いたかった」
スーはベルバーニ国王を見つめた。シャルロと名乗っていた彼女と同じ、水色の淡い瞳に翳りが見え、ハッと息を呑む。直感で悟り、スーは喘ぐように尋ねた。
「まさか……死のうとしていたのですか」
「どうせ残りすくない命だ。カスパルニアを道連れにしてやろうとな。むやみに民らの命を削りワシばかりがのうのうと生きてゆくことはできまい……地獄だろうが、構わなかった……」
苦しかった。ひとりの王として生きることより、愚かしいことだが、彼は己の考える父の姿を選んだのだろう。
方法がわからなかっただけ。それで多くの民の命を駒のように扱ったことは許せるものではない。
それでも、死ぬことはもっと許されない。なにより、もう目の前でだれかが死ぬのを見たくはない。
「生きて責務を果たしてください。ご子息には、まだあなたが必要でしょう?」
ベルバーニの王子は齢みっつと聞く。もしここで王が命を引き取れば、次のベルバーニ国王にみっつのこどもが担ぎ上げられるだろう。政治を行うことはできない。つまり、傀儡の王となるのだ。
なにより、三歳の幼子には父が必要なはずだ。スー自身、幼いころに死別した家族の面影を、今も忘れられずにいるのだ。自分と同じような思いはさせたくない。
ベルバーニ王はしばし観察するようにじっとスーを見つめ、やがて口をひらく。
「あのこは……エナーシャは笑って死んだのか……」
「はい。『幸せだから』、と」
「そうか」
王はそれきり黙り込み、手の平に顔を埋めた。
長い長い沈黙のあと、ひとり父親の顔になった彼は、長く深い息をつく。
言葉はない。けれどスーは、なぜか礼を言われたように感じた。
「陛下……」
「軍を下げよう」
次に口をひらいたとき、王の眼はわずかに光をともしていた。
「もう一度、同盟を結ぼう。難しいかもしれないが」
「陛下……!」
スーは思わず、笑みを浮かべた。年老いた王の口元にも、緩い微笑が浮かんでいたから。
「ワシにも、まだ親としての責務がある。王としても……」
†+†+†+†+
(……できた……!)
部屋から退出し、しばし歩を進めてから、スーは唐突に足をとめた。今ごろになって手に震えが走っている。
(嘘みたい)
己の小刻みに震える手を見つめ、スーは息を吐いた。 説得できた。伝えることができた。ベルバーニの国王と、同盟を結ぶと約束を取り付けたのだ。
見方を変えれば実にあっさりと応じてくれたのかもしれない。しかし、王ははじめから揺れていたのではないかと考える。娘を失い、エナーシャ姫とシャルロ姫の真実を知り、どうすればよいかもわからずに戦をしかけたのではないか。大切なものを失う怖さ。なればいっそすべて失ったほうがいい、と……。
はじまりはただ、愛おしんだだけ。
(でも、引き金を引いたのは……)
黒幕はヌイストだろうことが、容易に想像できてしまう。彼は人の心を誘導するのがうまいのだ。
しかし、いったいヌイストという男の目的はなんだ。まったくわからない。本当に気まぐれなのか……?
先日、ヌイストがエナーシャの遺体をもってきた、とベルバーニ王は言っていた。それでいっそう王の心は揺れたにちがいない。
それにしてもやはり、ヌイストの意図は読めなかった。
(シャルロさま……いえ、エナーシャさまは、本当に幸せだったのだわ……)
エナーシャが目の前でいきなり事切れたときはパニックし考えられなかったが、こうして思い返すと、そんなふうに思えた。残された人間の高慢な考えかもしれないが。
スーはベルバーニ王から、彼女の話をすこしだけ聞いた。カスパルニア第二王子と婚約していたこと、政略結婚のはずが、エナーシャは本気で王子を愛していたこと。娘の様子を口にする王はひとりの父親の顔で、スーはうれしく思うとともに羨ましくなったのだ。
(わたしのお父さまもお母さまも、きっと……)
遠い遠い天の上で、同じようにあたたかい瞳で見守っていてくれるだろうか?
「これはオカシなことだ……番狂わせも甚だしい」
ばっと振り返る。暗闇から自ら発光するように浮かび上がる青年の姿が見えた。
片眼鏡をかけた、ワインレッドの瞳をもつ男。
「またあなたですか」
ヌイストは肩をすくめ、長くため息をついてそう言った。スーも負けじと声を張り上げる。
「それはこちらの台詞です」
「たしかにあなたは予想外の動きをして、劇をおもしろくしてくれマス。けどねぇ~、やりすぎる演出に観客は煩わしいと思うし、脚本家も黙っちゃいまセンよー?」
「よくも劇などと……人は生きているんです!あなたの人形じゃない!玩具じゃありません」
スーの気は高ぶっていた。ベルバーニ王の父親の姿に感化されたこともあるのかもしれない。ヌイストの行動にも理由があるのかもしれないが、ただの気まぐれでおもしろおかしくするためだけに、命を弄んでいいはずなどないのだ。
神にだって、赦されない。
「いのち、イノチと……本当に口煩い」
コツ、コツ、と回廊に靴音が響く。ゆっくりとヌイストが近づいてきた。
「そんなに大切なものなのですか?」
「あ、あなただって、大切でしょう……?」
ちょうど触れるか触れないかの距離で足をとめ、ヌイストはスーと目をあわせ、ほほえんだ。ぎょっとしたのもつかの間、次の瞬間に彼はうつむく。
「ワタシはアナタに嘘をつきました」
述懐は唐突だ。暗闇のせいで彼の表情は見えない。くつり、と喉の奥で笑いを噛み殺したような音がした。
「以前、言ったでしょう。レオンハルト王子を生きながらえさせたとき……『寿命が縮んだ』と」
たしかに言われた、とスーは思い出す。そして彼の言う寿命の長さに、冗談なのだろうと心のなかでは感じていた。ただからかわれたに過ぎないのだと。
「あれは嘘なんです……ワタシには、寿命なんてあってないようなもの……ワタシは、番人のように、この世界が朽ちて終わりを迎えるまで生きつづけなくてはならない……」
「まさか」
そんな、おとぎ話の世界のようなことが。
冗談だ。それなのに、心のどこかでは真実であると悟ってしまう。
思わずもらした驚愕の声色に、ヌイストは再度満足そうに笑ったような気がした。
「命なんてあっけないのです。ルドルフ大臣しかり、シャルロ姫しかり、セルジュしかり……」
出し抜けに顔を一気に近づけ、ヌイストは笑みをさらす。
「彼はどんな気分だったのでしょうね。己の手で仲間を殺し、あなたを守った彼は。あなたのせいで、彼は苦しんだというのに!自覚はあるのですかぁー?」
どくん、と心臓に直撃を食らったような衝撃が駆け抜ける。
忘れていたわけではない。でも、思い出したくなかった。鈍い痛みが、鋭さをもって襲ってくる、あの痛みが怖い。
痛い、痛い。けれどこれは――
「泣いているのですかー?」
スーは涙を流しながら、無意識に口をひらいていた。
「あなたが、苦しそうで……」
次の瞬間、左頬に激痛が走る。よろけたスーを支えたのは、手を上げたヌイスト本人だった。
「いい加減、殺しますよ」
そのまま彼は地を這うような低音でささやく。顔をあげたスーの目には、いつもの笑みを浮かべた青年がこちらを見ていた。
「暴力は好きじゃないんデスよ~。だって痛いじゃないですかぁ」
痛い。殴られた頬も。そして心も。
なぜだろう。どうしてヌイストの笑みに、苦しくなるのだろう。怖いと感じると同時に、悲しくなるのだろう。
気づけば再び、スーは臆することなく口を切っていた。
「薄っぺらい笑みの下に、あなたは隠しているのね……」
「なに」
「悲しみに傷ついてしまった心を……必死で……わざと歪んだ盾に、あなたは必死で隠しているんだわ」
言ってしまえば、それが真実なのだと確信できた。
違和感のある笑みが、彼を怖いと思わせた正体。笑顔の裏で泣いている、ただの心だ。不可思議な言葉でも、摩訶不思議な能力でもない。不気味なまでもの強大な違和感が、ヌイストという男を『怖い』と感じさせていたのだ。
「あなたは恐れている。愛おしいと、思うことを」
ヌイストは表情を消した。ニコニコと道化のように笑みをつくった顔でもなく、能面のように皆無の表情。生きているのか問いかけたくなる、人形の表情。
ハッと我にかえる。しまった、と思った。彼の禁忌に触れてしまったのだと、遅まきながら悟った。
「ソウデスかぁ」
声だけは実に愉快そうに、道化者は告げた。
「ならばさっさと消えてください」
「なにを……」
ぬっと手が伸び、スーを羽交い締めにする。必死で逃れようとすれば、長い赤毛をぐんと捕まれた。
「痛っ」
「操り師の言うことを聞かない人形は退場してくだサイ」
ぞっとするほど冷淡な声が頭上で響き、反射的にスーは顔をあげた。そして無表情のヌイストの手に鈍く光る銀色の刃物が握られているのを見つける。
恐怖に震えが走った。悲鳴をあげようにも、声はか細い息となって喘ぐだけだ。
「教えてあげマスよ。これからのシナリオ」
ナイフを片手で弄びながらヌイストはスーの赤毛を愛おしげになでた。
「あなたの死んだ証を大好きな王子さまに差し上げるんです。ワタシからの真心込めたプレゼント、きっと涙を流してよろこんでくださるでショウ」
スーにはもはや抵抗できる力はなかった。圧倒的な威圧感に、恐怖に、立っていることさえままならない。
「贈り物を受け取った王子さまはどうなってしまうのでしょうネ~」
ここではじめて口端を引き上げ、ヌイストはスーの顔をのぞき込んだ。
スーは驚愕に目を目一杯見開く。ヌイストの形だけの笑みが深まった。
(アルさま――)
「サヨウナラ」
(いやだ)
死にたくない。
スーは自身を奮い立たせ、抵抗を試みる。だが、力の抜けた少女ひとりなどたやすく捕らえ直されてしまう。
無駄な足掻きだ。それでもせずにはいられない。
彼は、アルは言ったのだ。もう一度戻ってこいと。迎えにくると。
自分は召使。主の言葉は絶対なのだ。
「い、や!」
「往生際の悪い小ウサギですネ」
つかまれた髪につられ頭皮が悲鳴をあげる。と、ついにヌイストの手がスーの首を捕らえ、倒された。
(アルさま)
涙でぼやけた視界。ヌイストの影が揺れる。
(アルさま)
あの青い瞳が見たい。もう一度、触れて。
無言の刃が己に落ちてくる。
「アルさま」
赤が、散った。




