第百十六章 渇望
第百十六章 渇望
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鼻歌まじりに、男は地下を進む。遺体を保存していた場所は、すぐそこだ。
棺桶はふたつ。なかの遺体はどちらも腐敗はせず、いまだ眠っているように穏やかな表情で死んでいる。
とりあえず先に始末してしまおうと、ヌイストは少年の骸をのぞいた。
ふわりとした漆黒の髪に、今は瞼の奥にひめられたコバルトブルーの瞳。白い肌は血の気がなく、真っ青で、よりいっそう人形じみた雰囲気と中性的なうつくしさを醸し出していた。
「これがオマエの結末か」
ほとんどつぶやくように、ヌイストは言った。
元牧師だか神父だかの息子を演じ、生きた少年の結末。彼の物語はヌイストの手を離れ、実におもしろく、そして不快に動いてくれた。『天使のような悪魔の申し子』と呼ばれる、『氷の騎士護衛部隊三人衆』のひとりとなって。
「セルジュ」
ヌイストは無表情のまま呼びかけた。いつも浮かべる嘘くさい笑みも、今はなりを潜めている。
「セルジュ」
もう一度、彼はささやく。懇願に近いのかもしれない。
だが、ちがう、とわかっている。呼ばれたいのは、『この声』ではない。
「いい気味だ」
そっと白い肌に手をかけ、やわやわと指を這わせた。
けれどちがう。この指で触れてほしいのではない。
「いっそ羨ましい」
――死ねるなど。
呪縛のように、生きて。いつまでも愉快に、道化師のごとく嗤って。
筋書きどおりに進む物語に辟易し、思いどおりにいかない現実に苛立って。
いつ、終わるのだ。この自分のおとぎ話は。
「……おいで」
ワインレッドの瞳をとじ、ヌイストはセルジュの骸、その額にキスを落とす。
次に目をあけたとき、棺にはなにもなかった。
そのまま、彼は隣の遺体に目をやる。もうひとつの人形は、静かにほほえんで死んでいる。
「あなたはシャルロ?エナーシャ?」
物言わぬ骸は答えることをしない。それでも幼子のように小首を傾げ、ヌイストは問うのだ。
「どっちも、同じか」
そして、ケラケラと声をあげる。
彼女はすくなくとも、すこしだけヌイストを理解していた。己の境遇に重ねたのか同情したのか今では尋ねようのないことだが、ともかく彼女はヌイストの心をわずかながらに察していた。
そんな彼女も、もうこの世にはいない。ヌイストが焦がれてやまない場所へいってしまった。
ふと、彼女の言葉を思い返す。
『あなた、黒髪より前のほうが似合ってたわ』
――そう言って、演じるのをからかった。
『あなただって本当は月のことがキライなはずよ。だって心から愛しているのは女神だもの。月は女神を奪った帝王の血を受け継いでいる』
――そう言って、己に『女神の血も混ざってる』という事実を口にさせた。
『あなたは女神のためなら罪を厭わない』
「……余計なお世話デスよ」
こちらの遺体には口づけすることなく、抱きかかえた。
もう用はない。
そうしてそのまま、闇へまぎれる。
この遺体をベルバーニ国王へお返ししよう、とヌイストは思っていた。自分の人形だったが、魂の抜けた今、それは自分のものではない。死者を冒涜するつもりも毛頭ない。彼女の親へきれいなまま返してやるだけだ。
「巡り巡る命……本当に、ばからしい」
ばからしい、と言いながら、青年の瞳には暗い影と羨望がちらちらと浮かんでは消えていた。
身を翻す。一瞬でベルバーニだ。
その刹那、ふと、声が聞こえた気がした。気のせいだとわかっていたが、思わず振り返り、風の戯れにおかしくなりそうな自分を嗤う。
やがてふるふると頭を振り、闇に向かってつぶやいた。
「女神は決して手に入らない――それで、イイのデス」
『セルジュ』と、もう一度、女神の声が聞こえた気がした――。
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ヌイストの計らいで上等なベルバーニの客室を与えられたスーは、時間を持て余していた。すぐにでも戦争をやめてほしいと国王を説得にいきたいのに、当の本人はヌイストの告白がよほど堪えたのか、あの日以来伏せっているという。
スーの印象では、ベルバーニ国王はとても娘や息子思いの人だったように思う。すくなくとも、カスパルニアへ攻め込むのは侵略目的というよりは娘を殺めたことへの復讐心などが強く関係していた。
(それに、ヌイストさん……)
考えたくはないが、もしかすればヌイストは洗脳できる能力があるのかもしれない。ぞくりと身を震わせ、スーは泣きたくなった。
なんて途方もないことだろう。ヌイスト相手に、どうすればいいのだ。手も足もでない。
そこまで考え、ふと思い立つ。ベルバーニ国王よりも、ヌイストを説得したほうが手っ取り早いのではないか。
(だけど、また怒らせちゃったら……)
彼はなにを考えているのかまったくわからない人種だ。ピエロのような笑顔の仮面の裏に、どんな想いを抱いているのだろう。ともかく、下手に深入りして彼の逆鱗に触れれば、再び強制送還、なんてこともあり得る。
(どうにか、しなくちゃ)
考えをめぐらすが、どうしようもない。再度重たくなる心に、スーはしょんぼりと肩を落とすのだった。
真夜中を過ぎたころだろうか。ふいにスーは目を覚ました。
(だれ)
名を呼ばれた気がして、ゆっくりと上体を起こす。ベッドからきょろきょろと辺りを見回すが、暗くて見えるものはない。
手探りで明かりを探していると、部屋の入口にぽっとオレンジの光がともった。
「コンバンハ、お嬢さん」
燭台にともった光がゆらゆらと闇を溶かして、青白いヌイストの顔を浮かび上がらせた。
びくっと肩を縮め短い悲鳴を飲み込む。部屋に入るならばノックくらいしてほしい。幽霊のようではないか。彼が異様な人物であることは仕方がないとしても、夜中になんの連絡もなく年頃の異性の部屋を訪れるなど、常識を逸脱した行為に思える。刺客でもあるまいに。
「どうしたんですか、こんな時間に……」
わずかに顔をしかめ、いつでも動けるように肢体に力を入れた。なにかできるわけでもないだろうが、警戒は怠らない。
ヌイストは相変わらずのニコニコ笑みのまま、ゆっくり一歩一歩、こちらに近づいてきた。
「あなたにお客さまデス」
「えっ」
瞠目する間もなく、スーの視界は覆われた。
再びあけた眼に飛び込んできたのは、黒髪の青年。鳶色の瞳を心配の色に染め、こちらをのぞいている。
「ランスロットさん――」
微睡は一気に覚醒する。スーは彼の名を口にし、今度こそ驚きに目を見開いた。
二、三度まばたき、目の前の男が幻でないことを確認し、スーは詰めていた息を吐き出す。彼はアル王子の命に従いメディルサに残ったのではなかったか?
戸惑うスーをよそに、ランスロットはにっこりと笑みを浮かべた。それがまるで作り物のようで、不安を掻き立てる。
「離れてわかったんだ。やっぱり俺は、アンタのことが好きだよ」
どうして逃げる?と、一歩後ずさったスーを咎めるように距離を詰め、黒髪の騎士はさらに笑みを深めた。
まるで、あのときのようだ――スーは騎士から目を離さず、頭の片隅で思い出す。
アルに城から解雇される前、ランスロットに抱きしめられたときのことを。いつもと雰囲気のちがう、その彼を思い出す。
「俺の手をとってほしい。スー?」
すっと差し出される、手。スーはわけもなく頭を横に振り、泣きそうな目で彼を見上げた。
「なぜ拒む。アンタは本当にアルを好いているの?」
「わ、わたしはっ」
「アルはアンタが好きなわけじゃない。ただの執着」
ランスロットの口からこぼれた言葉は、スーを打ちのめすには充分だった。鈍器で後頭部を殴られたように、スーは思わず立ちすくんで目を見開く。
「アンタはその瞳をもっているから選ばれた。たまたま傍に体のいい女がいたから、アルは錯覚しているだけだ……従順さであいつを惑わして、満足?」
にこり、とほほえんだ騎士の顔が、なぜだろう、別人に見えた。涙で視界が歪んだからだろうか。
彼はスーの頬に手をかける。
「どうしてアンタはアルを選ぶんだ?どうせただの錯覚なのに。アンタだって、すがる人間がいないからアルに依存しているだけだろう?」
手はゆっくりと頬を、髪をなでた。『その人』の声色はひどくやさしいのに、心を抉る辛辣な言葉を連ねる。
「ただ単にフィリップ王子の面影を求めただけ。だれでもよかった。居場所さえあれば、だれだって」
「や、めて」
「だったら俺でもいいじゃないか。俺ならアンタを泣かせない。俺なら――」
「ど、どうして……やめて、ヌイストさん」
スーは震える声で言った。『その人』の動きが一瞬止まる。
鳶色は目を見張り、やがてふ、とやさしく微笑した。
「どうして?どうして……ドウシテ、あなたは気づくのでショウ?」
ランスロットの声は、ヌイストの声に変わった。鳶色の瞳は、レオの片目と同じワインレッドになる。
「どうして、揺らがない。どうして、信じる。どうして、愛せる……?」
ほとんどつぶやくように言いながら、『その人』は片方の手を己の髪に翳し、這わせた。指先が触れると、黒髪は色を変えてゆく。
「アナタはとても煩わしい。王子はすぐに罠にかかるのに」
にんまりと目を細めた青年。ぴくりとスーは反応し、反射的に、以前のランスロットの奇行――スーへ迫ったことであるが――は彼のせいではないかと直感した。
「どうしてこんなことを……」
「ドーシテ?」
いったんきょとんと首を傾げてから、魔術師は唐突にケタケタと笑い出した。
「だっておもしろいでショー?いろんな国がそれぞれの理由でくだらないことのために足掻いているんデスよぅ?これを愉しまずにどうするんです」
仰天し瞠目するスーに目もとめず、ヌイストはさらにつづける。
「なぜなぜなぜ?すべてに理由があるとでも?気まぐれで行う行為ではないとでも思っているのデスか。あなたは本当に愚かでカワイソーなお人形ですねぇ~」
「なっ」
「ワタシはただキッカケを与えたにすぎません。エナーシャという娘を死の恐怖から救いシャルロとして生かしたことも、その父から記憶をとったことも、フィリップ王子を殺すようけしかけたことも、彼をウィルとして新しい駒に仕立てあげたことも、レオンハルト王子の寿命を変えたことだって、すべてがキッカケにすぎません!」
「……ランスロットさんを操ったことも、ですか」
にんまりと微笑を浮かべた男を気丈にもにらみつけ、スーは低い声で問う。
「そう。それでアル王子を揺るがしたことも、ネ」
「ま、さか」
「おもしろいくらい、動揺してましたヨネぇー?ワタシが『裏切り者』を演じたときのように」
ぐっと唇を噛む。
(ヌイストさんが、『黒髪の騎士』を演じてランスロットさんを『裏切り者』に仕立て上げた……)
ヌイストは、人を傷つけることを厭わないのだ。人々の心を掻き乱すことさえ、つゆとも後悔はないのだろう。
「あなたは、ひどい」
「それは人それぞれの感想でショ?だからなんだと言うのですか」
モノクルをくいと上げ、ヌイストはやさしく見えるほど穏やかに告げた。
「キッカケから先は自由デス。そのあとどうするかはあなたがた次第なんですヨ?」
両手を広げ大袈裟に訴えるヌイスト。スーがいくら心ないと募ろうが、きっと彼の心に響くことはないのだ。
人形、というなれば、いっそ彼のほうが人形だ。心のない、創られたイキモノ。
「人は欲望の塊なのですヨ。ご理解いただけますかあー?」
変に間延びした口調でヌイストはつづける。
「好いた女を護りたいと残虐を繰り返すもしかり、妹を護るため身を引き裂かれる想いで嫁がせるもしかり、なくしてから気づいた娘の幸せを願うもしかり。あなただってそうでショウ?」
足は鉛のように重たく、声は叫ぶことをやめ、目はただ目前の男から離れない。スーの耳は、意思とは反対にその声をもれなく聞く。
「ひとりはイヤだ。見てホシイ。自分だけを――浅ましい願望、ですネ?」
「わ、たしは……」
「それに、どうして騎士をけしかけたって言えるんですか。彼があなたに恋心を抱いたとて不思議ではありません。それがランスロットの本心じゃない、とドウシテ断言できるのですか?」
目を見開く。当事者に自分がいるからうまく考えられないが、たしかにランスロットがだれかに恋をすることはありえないことではない。そして想いの相手へ迫ることもありえるかもしれない。
けれど、あれはランスロットではなかった。彼はあんなふうに言ったりしない。
今でも覚えている。アルに妃がくると動揺し傷ついていた自分を抱きしめ、ささやいたランスロットの言葉――「あいつとじゃ、傷つくだけだ」と彼は言った。「身分がちがう」と。
正論だ。だけど、ランスロットは、すくなくともスーの知るランスロットは、アルを否定するようなことは言わない。たとえ真実だとしても、身分を理由に身を引かせ、己のものにしようとはしない。アルとともにいることを「傷つくだけだ」と言うわけがない。
そこまで思い当り、スーははっとした。
そうだ、たしかに変だ。確信を持ち、強く思う。
「ワタシはただ彼の本心を代弁したに過ぎませんヨー?」
「嘘です」
きっぱりと告げる。若干動きをとめたヌイストに構わず、顔をあげてスーは告げる。
「引っ掻き回すのがお好きなようですが、わたしはもう惑わされません。わたしは、わたしの信じているものを信じます」
自分の見てきたアルを。ランスロットを。
そうして、変わりたいと、彼のために動きたいと思った、自分自身の心を、信じて。




