第百十章 再出発
第百十章 再出発
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はじめは震えた、恐ろしくて。人の命を奪うこと、奪われること……この手を血で染め上げることが。
だから怖くて震えた。
はじめてヒトの躯に刃を埋め込んだとき、内臓がえぐれた感触、手足がぴくぴくと痙攣する様、そして事切れる一瞬間――すべてが永遠に思われ、しかし実際には刹那だった。
幾度繰り返したことだろう。やがてさらに恐ろしい感覚に見舞われるなど想像だにしなかった。
アルは恐ろしかった。
人を殺すことに、『慣れ』てしまった自分が。
気づいたとき愕然とした。雷にうたれたような衝撃が駆け巡った。
なぜ震えない。なぜ恐れない。
人の命を奪う、といえば聞こえは悪いが、戦争中はいわば敵兵を倒すことに直結している。その行為を恐れることは戦時を生きる男として恥ずべきことだ。臆病者とやじられても仕方のないこと。慣れてしまえたならそれはよろこんで受け入れるべき事実であり、悲嘆する必要などない。
アルだってわかっている。けれど、その震えはアルの砦だった。
父王は戦に負け知らずの恐王だった。自ら振るう剣は人をごみのように薙ぎ倒し、貫き、彼の通ったあとは廃墟も同然だとささやかれるほど。
つまり、父王ソティリオは人を殺すことなど厭わなかったはず。
だからアルは怯えない自身が恐ろしかったのだ。まるで父のあとを辿るようで。
臆病者と謗られる震えも恐怖も、アルにとっては愛しい震えだったのだ。
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一行は旅人の装束に着替え、スーの変装セット――黒髪の鬘など――により、アルの目立つ髪色を隠し、町外れの宿屋に宿泊することにした。
アルの状況を報告せよ、という命令に短く応え、ランスロットは片膝をついてから口をひらいた。
「カスパルニアの大使としてオーウェン大臣が砂漠の国シラヴィンドへ訪問、宣戦布告まがいの行為を独断で行いましたが、シラヴィンド王女は意にも介さず、追い払いました」
いったん息をつぎ、つづける。
「その後は国境近くで商人や旅人の荷馬車をあらため回っている模様です」
「ワケは?」
「恐らく……『裏切り者』を捕まえ手土産にするつもりかと」
そう告げたランスロットに「そうか」と返事したきり、アルはしばし考え込むように黙っていたが、やがてくつくつと肩を揺すって笑い出した。
「ふ、そうか。カスパルニアは外聞の悪い醜態をさらしているわけか……そしてその馬鹿者を返り討ちにしたのはランスロット、おまえだろう?」
ちがうか、と問われ、やや気まずそうに肩をすくめた後、第一騎士は「おっしゃるとおりです」と白状する。
「ベロニカから手紙が届いていたからな。直接おまえのことに触れられてはいなかったが……あいつ、シラヴィンドで騎士をやっているのか……」
どこか遠くをながめつぶやくアル。ランスロットも静かに頷いていた。
しばし沈黙がつづいた。
その後で、唐突にユリウスが咳ばらいをする。スーはびっくりして、ランスロットはやや心配気味に、そしてアルは感情の見えぬ表情のままオレンジ頭を見やる。
いっせいに注目されややおののいたが、すぐに彼は口をひらいた。
「アル――いや、アルティニオス王子!」
決心したとばかりに吠え、ユリウスはがばりと頭を下げた。
「過去の過ちが許されるとは思いません。けれど、己の浅はかさに……俺は……アルに助けられたのに……勘違いして……」
後半は自身を叱責するようつぶやかれたが、彼がひどく自責の念に駆られているのは見てとれた。
(そうだわ。ユリウスとアルさまは……)
スーは悲痛な面持ちで思い出す。
過去にベロニカやセルジュたちを襲ったと勘違いし、アルに剣を向けたユリウス。そして彼を庇うためにあえて訂正せず、城から逃したアル。その真実を告げたのはスーだ。イライジャを後見人として死罪であるはずのユリウスを救ったのはアルだったという、その後の詳しい事情もランスロットから聞き及んでいた。
「俺は未熟だった……頭に血が上って周りが見えてなかった……王子、本当に申し訳――」
「気色悪いな」
「――へ?」
ユリウスの必死の謝罪を途中で一刀両断し、アルはバッサリと言い切る。
「気色悪い、と言ったのだ」
思いつめた挙げ句真剣に頭を下げたユリウスは、唖然とするしかない。『気色悪い』とは何事か。
アルはまっすぐにユリウスを見やり、つづける。
「おまえに真摯な態度をとられるのは鳥肌がたつ」
「なっ」
「僕のことは昔みたいに、『アルさま』って呼んでくれて構わないよ?」
くすりと小首を傾げて笑ったアルの声には、わざとらしいからかいの色があった。
はじめはぽかんとしていたユリウスも、ランスロットからバシリとやさしくはない激励を背中に受け、ようやっと我にかえって破顔する。
「それじゃあ遠慮なく、アル坊っちゃ――」
「ランスロット、切れ」
「御意に」
待て、冗談だとあわてるユリウス。本気のように剣の柄に手をかけるランスロットと、おもしろそうにながめるアル。
わずかに、いまだ遠慮するような気配はあるものの、そこにぎすぎすした雰囲気は微塵もない。
ちょっとずつ、あの『過去』のように、戻っていけたらいいのに――そんな願いがスーの胸に浮かんだ。
それから一行はベルバーニの動きやメディルサへの対策を立てつつ話し合いをつづけた。
シャルロの亡骸はヌイストの魔術により腐敗することなくカスパルニアに安置されているが、近いうち使者が引き取りにくるはずだということ。ベルバーニは戦う意志を変えないだろうということ。
メディルサはベルバーニ側につくだろうこと。しかしウルフォンやメディルサ王の奥方は戦に反対していること、カスパルニアに協力的だということ。
砂漠の国シラヴィンドは様子見に徹する形をとるだろうこと、条件次第ではカスパルニアへついてくれるだろうこと。レオことレオンハルト王子はメディルサ側につくことはないだろうが、ウルフォン王子らを害することはしないだろうこと。
『裏切り者』はいまだわからず、リオルネの公爵家、またはベロニカを使い密偵として探らせていること。オーウェン大臣など使えない家臣がこれから暴挙に出るかもしれないこと。
そして――行き着く先は、ことのはじまりなのだ。
「ラベンの国を滅ぼした周辺諸国は今やベルバーニ側へといくでしょう」
「手引きしたラーモンド家は力をつけつつある。その勢いを削がない限り、邪険にもできまい」
ランスロットのつぶやきに、アルも鷹揚に頷く。
スーの、そしてフィリップの母・エレンディアの祖国である小国ラベンを滅ぼしたのは、王族から弾き出されたラーモンド家だ。彼らは周辺諸国に話を持ちかけラベンを消し去り、自らは素知らぬふりでルドルフのもと、カスパルニア国の傘下へと下った。証拠もなく裁けない今、ただ牽制するしか手はない。
これらの情報はすべてフィリップ――もとい、海賊となったウィルがかき集めたものだ。
きっと近いうちに尻尾を出すであろうラーモンド家諸々を告発できれば、巣食うあしき風習を一掃できるのだが。
「ルドルフが生きていればなにか情報を吐いたかもしれないが……内部にルドルフを殺した協力者、それこそ裏切り者がいることは確実だ」
もっとはやく追求できていればベルバーニの牽制にもなっただろう。しかし、正妃という所謂人質であったシャルロ姫を失った今、かの国を止める術はない。
「だが、もっともわからないのは――ヌイストだ」
深く息をはき、アルは告げる。
味方とは最初から思っていなかったが、今のメディルサに彼が現れたことはすくなからず大きい。シャルロ姫を紹介したのもヌイストであるということからも、彼がベルバーニになにかしらのツテがあるのは明白だ。
味方なれば心強いが、敵ならば空恐ろしい人物である。
重たい沈黙に息をすることすら躊躇われ、スーはしかし、大好きな兄さまが動いてくれていることをいつ告げようかとタイミングを見計らっていた。
城の情勢はあらかた知れたのか、ユリウスは眉間にしわを寄せてから口をひらいた。
「民は混乱してるぜ。いつ戦争の狼煙が上がるかと戦々恐々だ」
「暴動が起きないといいが……」
「まずは帰還し、対策を練らないとな」
そしてこの話し合いでは最初から最後まで、セルジュについて触れられることは一切なかった。
だれかが――または皆が――傷つくことを、そのついた傷がえぐれることを、知っていたから。
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翌日はいったん南下し、捜索隊の手を逃れるべく野営になった。
その日も休息以外はひたすら歩き、夜には作戦会議だ。そしてまだ、スーはウィルのことを告げられずにいた。いつも大切な話をしている男たちのなかに入っていくのはなかなか難しいのだ。
夜、焚き火を囲み、四人は夕食を摂った。
皆が黙々と食べ終えたころ、アルはしばし思案したあとで口火を切る。
「ランスロット、おまえはメディルサに残り、ウルフォンとともに抑えよ」
響いた命令にまっすぐ向き直り、第一騎士は胸に拳をあてさっと頭を垂れた。
「御意に」
頷き、次にオレンジ頭の青年に視線を合わせ、アルはつづける。
「ユリウス、おまえに騎士の称号を与える――戻ってこい」
後につづけられた言葉は、命令というより懇願に近かった。
ユリウスは目をこれでもかというほどカッと見開き、やがて自身を落ち着かせるように深呼吸し、アルを見つめた。
「承りました」
それからは再び国のことが朗々と話し合われた。
野宿ははじめてではない。カスパルニアより南に位置するメディルサは気候も比べるとあたたかだ。
スーは用意された自分の寝床に横になり、背後で火のはぜる音を聴いていた。
浅い眠りのなか、人の動く気配がした。肩をたたかれた気がして、うっすら目をあける。
「すこし、いいか」
アルだった。
スーは頷き、身を起こす。
ランスロットはすこし離れたところの木の幹に背を預けて目をとじていた。ユリウスも腕組みしながら船を漕いでいる。
アルとスーはふたりからやや距離をとり、腰を下ろした。
「戻ってきてくれ」
座るなり、唐突にアルは言った。
驚いて顔を見返せば、真剣な面持ちの王子の顔。
「勝手におまえを召使にしておいて、勝手におまえをやめさせた。俺の、我儘で」
スーは自分の耳を疑った。これは夢か?
貴族が己の利用で下働きを解雇することはめずらしくない。文句は言えない。それが王族ならなおさらだ。
役にも立たず、雇い主の逆鱗に触れたのなれば仕方のないことだ。元王族といっても、スーの立場はひどく危ういものなのだ。
まじまじと無遠慮に見つめるスーに、アルは臆することなく告げる。
「もし、もう一度我儘を聞いてもらえるなら、戻ってきてほしい」
スーの耳に声は聴こえ、その意味が徐々に頭のなかに浸透していく。
はじめに感じたのは、うれしい、という限りない歓びだった。
なにかこみ上げてくるものがあり、鼻の奥がツンとする。
あわてて奥歯を噛みしめやり過ごし、息を吸った。
(わたし、戻っていいんだ)
もちろん、戻りたい。だが。
「アルさま、わたし、やりたいことがあるんです……わたしにしか、できないこと」
一度失敗したが、必ずやらねばならないことが、ずっとスーの頭にはあった。
「ベルバーニへ、行きたいのです」
ベルバーニへ行き、シャルロ姫の最期を伝えること。看取ったのが自分ならば、彼女の親にそれを伝えたいと思ったのだ。
「しかし、今は危ない」
「それでも、できることがしたいのです」
譲るわけにはいかなかった。シャルロの死が戦争のきっかけなら、最後まであがきたいのだ。
「行くな」
「っ、いいえ」
王子の強い口調に気後れしそうになるが、なんとか目をそらさずに言い切る。
「これは、わたしが決めたことです」
発言を撤回するつもりはない。そして、まだ言いたいことがあった。
ひとつ息を吸い込み、じっと彼の青を見つめる。
「もし、もしも待ってくださるなら……それをやり遂げたあとで……お傍に、いたい、です」
途中、急にばくばくと心臓が鼓動をはやめ、スーは言い切るのに多大なエネルギーを消費した。
アルは無言でスーの答えを聞き終え、一度目をとじ、つぶやく。
「俺もやらねばならないことがある」
そしておもむろにスーの頭に腕を回し、軽く抱きしめた。
「必ず、迎えにいくから」
(――えっ)
耳元に、幻聴かと思われるほどか細い声でささやかれた言葉。
驚きと戸惑いに固まるスーをよそに、アルは「もう寝ろ」と言ってそそくさと離れていく。
(今の、全部夢だったのではないかしら……)
ぼんやりと彼の背を見つめながら、スーはほてる頬の熱を冷ますのにしばし時間を要し、必死にならなければならなかった。




