第百七章 彼女が愛した三人目
第百七章 彼女が愛した三人目
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「抜かりはないか」
「ええ、御意に」
メディルサ大軍帝国の帝王・ユーグが、なにもない暗闇に向かって尋ねる。すると、なにもなかったはずの闇からぼんやりと白が浮かび上がり、答えた。
王座に腰を下ろし足を組み、ユーグはうっすらとあけた眼でその白い影を見すえる。
彼は、この白が大嫌いだった。
「御意もなにも、すべては貴様の『御意』に、であろう」
ややせせら笑って宣えば、白い影はケラケラと声をたてて否定する。
「ちがいマス、ワタシはただ、物語を紡いでゆくニンゲンたちを観るのがたまらなく愉しいのデス」
ユーグは片方の口角を器用に引き上げ、侮蔑とも自嘲ともとれる笑みを浮かべた。
「ふん、勝手に言っているがいい。我とて貴様の思う壷にはならぬ。手の平で躍らされてばかりも癪だからな」
ふっと張り詰めていた息を吐き、ユーグはつづけた。
「しかし大したものだな。愚息ばかりか我妻までをも取り込むとは……やはり、貴様の言うとおりあ奴にそっくりだ、ヌイストよ」
白い影――ヌイストは、ユーグの言葉に表情を変えぬまま頷く。
アルがメディルサを訪れる数日前のことだ。突如現れたヌイストは、問われるままにカスパルニアの王子についてユーグに語って聞かせていたのだ。
「ふふ、ワタシはあなたに嘘はつきませんよ~」
くすくすと笑いながらヌイストは告げる。
「たしかにあの王子は、あなたが憎んだ男の息子ですよ。容姿ばかりは母親とうりふたつですが、中身はもってのほか……」
そして再度、先日口にした内容を再度発する。
「ご理解いただけましたよねぇ?あなたの妹君が、あの王子を愛していなかったことを」
そう、ヌイストは告げていた。
『知ってますか?妹君は息子を愛してなんかいなかったんデス』
ユーグにとって、心を揺さぶるには充分すぎる事実を。
『だってそうでしょう?愛するあなたとの仲を引き裂いた男とのこどもなんですから!』
内心、ヌイストがどのように考え思っていたのかなど、だれにもわからない。けれどユーグは、その言葉に嘘がないのを知っている。
ヌイストはたしかに嘘は言わない。『真実』を口にしなくとも、『事実』は正確に伝えてくれるのだから。
「……愛する、か」
ヌイストには応えず、ユーグはつぶやき、顎に手を当てどこか遠くを見やる。
きょとんと首を傾げ、ヌイストはワインレッドの瞳をまたたかせた。
やがてメディルサの王は、ゆっくりと目を伏せて、チラともヌイストを見ずに尋ねる。
「セルジュ」
わずかに、ヌイストが目を見張ったような気配が漂ったが、ユーグは気づいたのか気づいていないのか、構わずにつづける。
「……セルジュ――という男を知っているか」
「……いえ。なぜですか」
ヌイストの声はかすかに震えをともない、いつもと口調がちがったが、それをはっきり知るほど、ユーグは彼を知らなかった。知ろうとしていなかった。
ユーグは相変わらず遠くを見やりながらつぶやくように言う。
「昔、聞いたのだ。ナイリスの口からな」
その瞳はなにを映しているのだろう。
どろりと濁った暗い闇をたたえながら、しかし、かすかな慕情の光を宿らせて。
「そ、れは……」
息を呑み、喘ぐように声を発したヌイスト。幸か不幸か、ユーグは過去を思い返すことに忙しく、当時の記憶に苦渋の笑みをもらしたため、彼の様子の異変に気づくことはなかった。
「暗闇に向かって、腕を伸ばして……あいつは、その『だれか』を呼んだのだ」
その『セルジュ』がいったい何者でどんな関係なのかは知らない、知りたくもなかったからな――そう自嘲的に告げたユーグの声も、もはやヌイストには届かなかった。
彼がなにも言わないことにようやっと不審感が芽生えたのは、それからしばし経ってからだ。同時に、なぜ自分はこの話を――愛しげにナイリスがささやいた『セルジュ』の名をもつ男とは何者なのか、怖くて尋ねられなかった、だれにも言わず聞かぬふりをしていたこの話をヌイストにしたのか、ユーグは訝る。
「――戯れだ。聞き流せ」
結局はそう結論づけ自身へ言い聞かせ、王座から立ち上がる。
「お心のままに」
そして、ヌイストの返事もはやかった。
「ワタシは魔術師・ヌイストです。戯れを聞き流すなど、造作もありはしませんよー」
次にユーグが目をあわせたとき、ヌイストはにこにこと、常に浮かべている感情の読めない笑顔でそう言った。
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苛立って、いたのだろうか。それとも、動揺していたのか。
ヌイストは空に浮かぶ月が雲に隠れてしまったのをながめつつ、わからぬ自分の感情に首を捻る。
そしてやはり、まだまだ自分は未熟だと微笑する。
思い出す、過去の甘美で残酷な記憶の断片――。
『あなたは昔からわたくしを避けていた。だからわたくしはあなたをあきらめたのよ。兄を愛し、ソティリオさまを愛しながら、いつだってあなたの影を求めていたのに……』
そう言って、彼女はきれいなサファイアを思わせる瞳を切なげに伏せた。
『ヌイスト、わたくしはもう疲れた。自分が変わっていくのが耐えられない。でもね』
そのまま顔をあげ、ひどくいとおしげに、女神のごとくほほえんだのだ。
『あなたはわたくしから幸せを奪えなかった。だってわたくしは――』
ふぅ、と息を吐き出す。
ヌイストは肩の力を抜いて、カスパルニア城へ移動した。もちろん、メディルサからカスパルニアへの移動はお得意の魔術で一瞬だ。
今はやらねばならないことが多々ある。感傷に浸るのも自分の趣味ではない。
ちらちらと空を舞う雪の花。淡く桃色に色づいた空景色。空を仰ぎ見て、しばし満天の光を浴びた。
「手はじめに姫と駒の遺体をどうにかしませんとネ~」
だれにともなくつぶやき、ヌイストはひょいと肩をすくめる。
カスパルニアの北西部に位置する時計台のてっぺんで夜風にさらされながら、つい先ほどまでの出来事――ユーグと別れ、さて様々な動向を見てこようかと思うも気分が乗らず、足の赴くままにアル王子の牢へと面会にいった、先ほどのことを、思い返していた……。
メディルサの牢屋にて軟禁された、というよりは罪人のように捕らえられたアル王子。幾重にも仕掛けられた牢屋はここ何十年と使われていなかった代物だ。
そんな場所にひとり閉じ込められたアルを見舞ったのは、なにも慰めようとしたからではない。自身の描くストーリーを確固たるものに進めるために、けしかける必要があったからだ。
「息災でしたか、殿下」
にっこりとワインレッドの眼を細めて声をかける。
冷たい石床に、下賎の民がごとく腰を直に下ろしていたアル。王子が受ける仕打ちではないが、当の本人はさほど気にしたふうではない。普通にぬくぬく育った甘やかされた愚王子なれば、屈辱に顔を真っ赤に染めて怒り狂い吠え立てたことであろう。
ユーグの策略とは裏腹に、アルは地べたに座ることなどものともしてはいなかった。
さて、ヌイストの声で顔をあげたアルは、待っていたかのようにじととにらみつける。
「来ると思っていた」
「左様ですかぁ」
ちらとも驚かない王子に笑みを向けて、ヌイストは先をうながす。
「裏切ったのか、とは問うまい……なにが目的だ」
怒りを押し込めているのか、それとも慣れているのか。
すくなくとも『カスパルニアの大使』として雇われていたはずの男が敵側から現れたのに随分と落ち着いているものだ。助けにきたのだと勘違いして期待するでも、なぜ裏切ったと煩く喚くこともしない。
ヌイストは満足げに小さく頷くと、一歩アルへ近づき、そのなめらかな肌に触れた。
アルはなんの抵抗もなく頬に触れることを許したわけではない。動きたくとも動けなかったのだ。魔術師の金縛りによって。
「怯えずとも取って食いはしませんよ~。ただ、たしかめたかっただけですカラ」
悠長に笑いながらヌイストはつづける。彼の細く長い指は、アルのうつくしくきらめくブロンドに伸ばされていた。
「やはり、忘れ形見とまごうことなき容姿――外面は、母君そっくりですね」
いつか、『ソティリオさまにそっくりですね』と宣ったのと同じ口でヌイストは告げる。いやそうに歪むアルの表情などこれっぽっちも気にしていない。
しばし手触りをたしかめるようにアルの髪をなで、じっとガラス玉のような瞳を見ていたヌイストだったが、やがてふむ、とひとり頷き口をひらいた。
「いいでしょう、ヒントをあげます」
「ヒントだと?」
「あなたはこれから、だれが敵でだれが味方か決めるべきです。そして、この世界の覇者となるべくがんばってください」
アルを目を見開く。いきなりのことにどうしていいかわからない。
ヌイストはそのまま感情のこもらない瞳に笑みの色をのせる。
「覇者となるしか、戦争に勝ち残るしか、あなたの生きる術はない」
ぐい、とアルの顎に手をかけ、顔を近づける。
ブルーサファイアとワインレッドの視線が絡み合い、びりびりとした緊張が駆けぬけた。それは殺気にも似ていて、もはや金縛りの術が解かれたにも関わらず、アルは動けぬままだった。
「覇者、だと……?」
なぜ、と問いたげに揺れた瞳。ヌイストはさらに笑みを深めた。
「忘れたワケではありませんよね?ワタシとの『約束』」
『約束』――アルはハッとして眼を見開いた。
彼が言う『約束』は、アルにとっては『条件』だった。ウルフォンにつらく当たり、宣戦布告ではないかとさえ言わしめるほどの態度をアルに取らせ、戸惑わせた内容だ。
満足げに目を細め、ヌイストは数ヶ月前に告げた『約束』の『条件』を再び提示する。
「ワタシがあなたに問いかけるからです――もし、あの方が……あなたのお母君が幸せだったというならば」
いったん言葉を区切り、ヌイストはアルに触れていた手を離して一歩退く。
「母君の願いは、あなたがカスパルニアの頂点に立つこと、でショウ?その願いのために亡くなった……そうあなたはお考えのはず」
第一王子の母を巻き込んで命をとした母。ルドルフが『依頼されたのは』その母だと訴えていた光景がさめざめと甦り、アルを震わせる。
「あなたが負ければこれは悲劇――死をもって望んだ願いさえ叶わない」
そして、とヌイストはアルを見つめてつづけた。
「あなたが勝てば、証明される。うつくしい感動作として――亡き母の意志を受け継ぎ、立派に世界の王と君臨するならば……彼女の死は無駄ではなかったと」
じりじりと、松明の炎が風もなく揺れた。ふたつの黒い影が炎の赤にゆっくりと色を濃くしてゆく。
そしてヌイストは告げた。
「だから勝って証明してみせてください。もしもあなたの母君が」
一度息をとめ、吐き出す勢いに任せて、そのまま口にする。
「――ナイリスさまが、幸せだったというなれば」
――そっくりです、本当に。殺したいほどソティリオ王に似ているのに、その青い瞳が邪魔をする。殺せないくらい、彼女にそっくりな容姿。
ヌイストは表情を消し、衝撃に硬直しているアルに聞こえぬほどの大きさでつぶやく。
「だから、ワタシにあなたは殺せないのだ」
間延びした口調でも、愉快そうに震える声音でもなく。
低く重いしぼりだす声で、ヌイストはつぶやいた。
ゆっくりと小さな炎のゆらめきとなって消えた松明の行灯。それとともにひとつの影が牢屋から消え失せる。
「生き写しの王子よ、もし彼女が幸せだったというならば、勝ってみせてください。ワタシは、彼女の悪夢を一掃します」
共鳴するように、響く声。
ただひとり残された王子は、しばらくたっても、指一本動かすことができなかった。




