①はじまりのはなし
今から、私のとっておきの自慢話をいたしましょう。
私が住んでいた家には、とても綺麗で大きな魔法の鏡がありました。いかんせんとても古くて、人によって好き嫌いが分かれるような、変わったデザインの鏡でしたが、私はその鏡が大好きでした。
鏡が好きだなんて、自分が大好きな子だったのねと、変わった子ねと思われるかもしれませんが、あの鏡は普通の鏡ではない、「魔法の鏡」だったのですから、その意見には首肯しかねます。ならばどんな鏡だったのか、って? それを今から話すのです。とっても素敵な日々でしたので、自慢話だと前置きさせていただいたのです。
私がその鏡と出会ったのは、庭の薔薇が見事に咲き誇った、春の終わり頃。平日の平穏で平和で、この世が諸行無常である事を簡単に忘れさせてくれる日。
その日は午前中だけで勉学が終わった上、大好きな友人の家に遊びに行く予定を心の内に立てていたものですから、私の心は空に浮かぶ雲のごとく、フワフワと宙を漂っておりました。真っ白な画用紙に、鉛筆を走らせる瞬間のように。しおりを挟んだ愉快な小説と、素晴らしい再開を果たした時のように。
ツヤツヤとした紅色のランドセルへ、ノートと一緒にワクワクをひとつまみ。ハルカワデザインに特注してもらった私だけの靴は、スキップの度に蕾が弾けます。純白なブラウスの襟が、私の髪の毛にくすぐられて微笑んでいました。
このまま友人の家にたどり着けたのなら、私は束の間の極楽浄土を味わっていたかもしれません。しかし、そう上手くはいかない所が人生というものの面白い所。
私がその友人へ「今日の放課後は一緒に遊ぼう」と伝えると、無慈悲にも断られてしまいました。これから、クラシックバレエの稽古があるそうなのです。申し訳なさそうな顔を私に向けた心優しい友人は、専属の運転手に手を引かれ、習い事に連れて行かれてしまったものですから、彼女と遊ぶつもりでピアノの稽古を蹴っていた私にとっては、この上なく無聊な午後になってしまったのです。
私が、自分の運転手に愚痴をこぼしたのは安易に想像が付きますことでしょう。「事前に予定を合わせておくのも重要だと思いますよ」と、愚痴の返事にやんわりと注意されたことだって、言うまでもありませんけれど。
車の中で、フロントガラスに流れゆく景色にため息を浴びせ、ぼんやりと考えました。何をしようか、何をしたら楽しいのだろうか。何が私を楽しませてくれるのだろうか。……もしかしたら私は、執着深い性格だったのかもしれませんね。先ほどの事が頭から離れないのです。仕方がありません。彼女といる時はとても楽しかったのですから。それほどに良い友人を私は持っていたのです。そこで、信号にかかった景色が車と一緒にゆっくり止まります。
ポッカリと空いてしまった手帳のページを埋めたくて、私は運転席へ声を掛けました。「ねえ河島さん。退屈をしのげるような、何か良い方法を知らない?」
バックミラー越しに、彼と目線がぶつかります。白髪混じりの七三分けが、気をつけをしていました。「そうですね。読書をされてはいかがでしょうか」のんびりとした声は、トロリと私の耳で溶けてしまいます。「私も、その方法でよく退屈をしのいでおりますよ」
「ふうん。なら、何か良い本を紹介してよ」のんびり声にあくびを誘われた私は、それをこっそり我慢しつつ訊きました。
河島さんはううんと唸ってから開口します。「私はドストエフスキーを愛読しておりますが、お嬢様が気に入られるかどうか」
「うーん、難しそうだわ」ドフトエフスキーって、前にパパが読んでいた本の作者じゃない。私には読めそうにはありません。なんて、子どもながらに感づいた私は、代案を求めました。「読書じゃなくて、他の良い方法を知らない?」
人に頼ってばかりではいけません。またもや猫のように唸る河島さんを尻目に、私も頭を働かせていたのです。ピアノのお稽古は絶対に嫌ですし、図書室で借りた本はもうすっかり読んでしまっていました。そこで、窓の外の木の葉がサワサワと歌っている声が、ふと耳に入ります。そうだ、庭で遊ぶのはどうだろう。考えてくれていた河島さんには悪いのですが、魅力的なアイデアが私の頭をよぎりました。
こんなにも雄大な太陽が地を照らしているのです。きっと、心地良い気分に浸る事が出来るでしょう。ランドセルを膝の上で抱きしめました。信号が青に変わり、車がまた動き出します。
「そうです、お嬢様。彫刻などはいかがでしょうか」
ああ、なんて難しそうなことを。判子を作るときでさえ指を切ってしまう私には縁がありませんでしょうに。「ええと、散歩をしようと思うわ」
*
四方に広がる整った花々を吸い込みながら、私は気まぐれに歩きます。私の予想は外れる事を知りません、なんて素晴らしい天気でしょう、なんて素晴らしい気分でしょう。結衣ちゃんと一緒に歩けたら、もっと素晴らしい日になったに違いありません。それだけは少しばかり残念だったのですが、お日様のサービスに免じて、妥協してあげることにしました。
門のそばで、庭師の笹木さんと羽藤さんが一緒に休憩がてら談話をしていたので、大きく手を振ると、嬉しそうに会釈をしてくれました。
庭の外に一人でフラフラと飛び出して説教を食らうのはもう御免ですが、ピリリとしたスパイスが欲しい私にとって、その枷は鬱陶しくてたまりませんでした。初等部の中級学年になったのだから、庭の中でさえ私の後ろを歩くお付きは要らない、と言った私の要求は通ったものの、外へのフリー通行パスを貰うことは許されませんでした。不思議です、何故でしょうか。私は学級委員長に推薦されるほど、責任感と勇気に溢れているいうのに!
マリーゴールドとクレマチスに挨拶をし、ルピナスとナナホシテントウの捕獲作戦を決行し失敗した後、お手伝いさんにお天気と結衣ちゃんとの悲劇の別れを話したところで、だんだんと足が疲れてきました。さて、そろそろお仕舞にしましょうかしら。丁度良い暇つぶしになった事ですし。
そういえば、まだ行っていない場所が一か所だけあったなと、私は、普段は見向きもしないような庭の一角に足を運びました。そこで、心躍らされる魅力の塊に出会ったのです。葉のアーチをくぐった、その先に。麗らかな日差しを全身に浴びて、瑞々しい妖艶さを醸し出していたのは、深く吸い込まれるような、青い、薔薇の花。
その部分だけは、思わず目を見張る華やかな空間に変化していました。冷たくて凛としていて、自分には無い気高い威厳が、その薔薇からは感じられます。つい先ほどから、どこか裏切られてしまったような気分だった私は、その大人びた姿に心酔してしまい、しばらく立ち往生します。
……近づいてみよう。そう決心した途端に、一歩、一歩と私の歩幅の分だけ近づく魅力。私は自身の幼く小さな手を、あろうことか欲望のままに伸ばしたのです。人差し指に、柔らかな花弁が吸い付きます。私の体温で、溶けてしまうんじゃないかしら。青くて、こんなに陽を浴びているのに冷たくて、鋭くて。
そう思って、少しだけ手を放してから、萼のそばをそっと撫でました。手が震えて、壊してしまうのが怖くて。優しく、優しく撫でました。……とても、美しい。__刹那、ピリッとした鋭い痛みと、少しづつ赤く染まる指先。ドロッとした生暖かい液体が、私の整えられた爪を飾ります。鮮やかな赤は、青と緑の背景によく映えたのですが、ジクジクと激しさを増していく痛みに耐えかねた私は、その場で涙を零してしまいました。
「千那津お嬢様ー? そちらはまだ庭師が手入れをしていませんので、是非とも他の場所でお遊びになられるよう……」
滲んでどこが境目かなんて分からない、赤と、青と緑の、派手で慎みを知らないような視界に、暖かで淡い声が届きます。
「千那津お嬢様! 大丈夫ですか!」砂利を踏みつけ、髪が乱れる事なんて微塵も気にしないで、駆け寄ってくれる足音。「少しばかり待っていてください! すぐに救急箱を持ってくるよう指示します」
私にはきっと、あの魅力は早すぎたのです。慌てふためき、青ざめながら私の手に包帯を巻く世話係の顔を、今でもハッキリと覚えています。
そして同時に、ひどく叱られてしまいました。普段から薔薇の棘には注意しろと言われていたのにも関わらず、青い薔薇の誘惑に負けてしまったからです。左手の人差し指と中指には、予想以上に深く、冷たい大きな傷がつきました。
*
「こんにちは、お嬢さん」
傷口が痛むのと、怒られて悲しいのとが入り混じり、涙でグシャグシャになった顔を隠してしまおうと、離れの図書室に駆け込んだ私の耳に聞こえてきたのは、低くて優しい、暖かな声でした。
「ねえ、……だあれ? そこに、誰か居るの?」
入り口から一番遠い本棚の横に、その魔法の鏡は在りました。
私にとってその図書室は、1人きりになれる唯一の場所だったので、その声には驚かされたものです。
「とても悲しそうな声が聞こえきたのですから、思わず声をかけてしまったのですよ。ところでお嬢さん、その左手はどうされたのですか? 包帯……は今流行りのファッションではなさそうですが」
喋り続ける声のした方を向いても、ただ自分の泣いている不細工な顔が、古くて大きな鏡に映っているだけでした。青い薔薇の余韻がまだ少しだけ身体に残っていて、揺るぐ心に手の痛みがしみ込んでいます。
「ね、え。この声は誰なの? どこかに誰か居るの?」
辺りを見回してみました。本棚の陰もカーテンの裏も、机の下も覗いてみましたが、やっぱり誰も居ません。でも低い声は、私に語り掛け続けます。
「ここ、この鏡です。ほら鏡って言ったら、1つしかないでしょう?」
信じ難いですが、耳を澄ましてもその声は鏡から聞こえてくるのです。
「鏡、って。この鏡がどうかしたの?」
私は思い切って、鏡に姿に指を付けてみましたが、特におかしな箇所はありません。鏡に映る自分の指と、本物の自分の指が隙間なく、ピッタリとくっ付いただけです。
「そうです! 私はその鏡なのです」その声は嬉しそうに言いました。「ええと、お嬢さんには『魔法の鏡』とでも言っておきましょうか」
鏡を、右手で軽く叩いてみました。フチを指で優しくなぞってみました。が、びくともしません。やはり普通の鏡です。目元の腫れた私が映っています。
「魔法って。そんなの、信じない」きっと、どこか鏡の裏にでもスピーカーやマイクがあって、そこから誰かが私を観察しているのです。そのスピーカーも、マイクも見当たらないのが唯一の問題ですが。「お伽話じゃないんだから、からかわないでよ」さっきよりも、少しだけ強く鏡を叩きました。
「おやおや、物は大切にしてください? もしも私が割れてしまったら、お嬢さんをもっと傷付けてしまう」
不思議な声は、依然として落ち着いた口調で言います。
私はとっさに左手を後ろに隠しました。怪我をして叱られてしまった事も、この鏡は知っているのでしょうか。聞いてきたくせに、全部知っているのでしょうか。だったら、とても悔しいです。
「知らない、そんなの。どうせ、あなたも私を子ども扱いするんでしょ? 絶対、パパに子守でも頼まれたに決まっているんだから!」
私がそう言った後、鏡が黙ってしまったので、一瞬だけ静かな時間ができました。しまった、図書室では静かにしなさいと、また叱られてしまうかもしれません。
「ほう、お嬢さんは実に頭が良いですな。では、そのよく切れる頭で、考えてみてはどうでしょうか」よかった、叱られなかった。私がホッとしていると、鏡を名乗る不思議な人は、まるで不貞腐れた私を宥めるように続けます。
「この屋敷の中に、私のような声を持つ人物は居ましたか?」
声は、さっきよりも生き生きとしています。私は頭の中の引き出しを全部ひっくり返してみましたが、思い当たる声は見つかりませんでした。私の家はとても広いし、使用人の人達もいっぱい居ますが、私はその人たちの名前を全員間違えずに言えるのが私の自慢でしたので、渋々、首を横に振りました。
「そうね。私の知る限り、一人も居ないわ」
「では、私がもし人間だったとして、どこに居るのかお嬢さんに分かるでしょうか。この鏡にはカメラもスピーカーもありませんよ? そしてこの家の部屋の数は、お嬢さんの方が知っていますでしょう?」
なんと。私がスピーカーを探していたのも見破られているとは。しかし、言い分は尤もです。この家を、私は知り尽くしています。
「ええ、分からないわ。……ちっともね」
「そして、この鏡はとても古いです。まるで、何百年もそこに在ったかのように。昔から存在する物には魂が宿ると、そんな話は聞いた事がありませんか?」
年季の入った鏡の姿を、もう一度見つめてみます。
「確かに、聞いた事があるわ」
言っていて、悔しくなってきました。何も言い返せません。もしかしたら、この鏡は、本当に魔法の鏡なのでしょうか。
「私は魔法の鏡ですから、何でも知っているのですよ?」鏡の声が、少しだけ得意気になりました。「そうですね、例えば__お嬢さんのお父様が子どもの頃の話だって」鏡の言葉に、私は一瞬、痛みを忘れてしまいました。
「パパの子どもの頃を知っているの? それって、本当?」
声が上擦ってしまいましたが、鏡は優しく言葉を返します。
「ええ。あの方は読書家でしたから、暇さえあれば図書室に訪れていました。それこそ毎日のように。よく覚えていますよ、ハッキリと」
パパも、この鏡の事を知っているのでしょうか。私とパパの、共通点が見つかるのでしょうか。心臓がトクトク跳ねています。
「わあ、凄い。当たっているわ。私、この前の休みの日にパパから聞いた事があるもの。よくこの図書室に入り浸っていたって」
嘘ではないみたいです。この鏡は、魔法が使えるのです。嬉しくて胸の前で手を合わせたら、左手が痛みの悲鳴を上げたので、鏡の中の私は顔を歪めました。鏡はそんな私を困ったように心配してから、面白い話をいくつかしてくれました。
青い薔薇は長い長い研究の結果、最近やっと出来たこと。鏡は光を反射して物を映し出していること。傷は体の成長に伴って、大きくはならないということ。
そして、多くはパパの小さなころの話を。優しく丁寧に、私にも分かるように。
「それから……彼は、嘘を吐く時に、右頬を掻く癖がありましたね、今も変わらないでしょうか」思い出に浸かるかのような、ゆっくりとした喋り方は、とても安心しました。
「へ、ええ、そうよ。よく知っているのね」
実を言うとは私は、パパのその癖を知らなかったのですが、私よりも鏡の方がパパについて詳しいだなんて、認めたくなかったので首を縦に振り、知っているフリをしました。
「さあお嬢さん。これで信じてもらえたでしょうか。私は、魔法の鏡なのですよ」
魔法の鏡は、私に訊きます。
「分かった、信じるわ」私はとびきりの笑顔で答えました。「魔法の鏡さん、もっと私に色んなことを教えてよ。私がパパに褒められるぐらい、たっくさん」もしこの鏡に顔があったら、私に微笑んでいるに違いありません。
「はい、この私にお任せください」
鏡というのは不便なモノです。指切りをしたくともその指は無く、目を見て約束を噛み締めたくとも、私の目しか映らないのですから。
私はその日、鏡に映る自分の目を見ながら、冷たい鏡に、小指を押し付けた強引な指切りをしました。私の指にピッタリとくっ付いた、これまた私の指。なんておかしなな光景でしょう。でもこれが、彼と一番初めに交わした約束でした。
こうして私と鏡の、不思議で幸せで、有意義な生活が始まったのです。